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風を待つ<第2話>倭国へ

 年が明け、646年(仁平13年)2月――

 花の咲き誇る季節がやってきた。文姫は庭に植えた梅桃ユスラウメの実をとり、口に含む。まだ若い実は酸味が強く、文姫は顔をしかめた。

(これで梅桃を味わうのは最後かもしれない。)

 考えたくもないが、もう二度と新羅には戻れないかもしれない。ゆっくりとその酸っぱさを確かめるように、いつまでも種を吐き出さずに舐めていた。

 侍女たちが残りの実を摘んで、小さな布袋へ入れ、文姫に持たせてくれた。

 女王へ別れの挨拶をするため、文姫は正装に着替えた。

 女王徳曼トンマン(善徳女王)は、目の醒めるような龍袍ロンパオに身を包み、金冠を戴いている。
 かんざしは使わず、男のような衣装だった。龍がうねる龍袍は威厳に満ちていおり、女王の全身から覇気があふれ出ていた。

 文姫の礼を受けた女王は、よどみのない声で言った。

「天神地祇の加護あらんことを」

 女王の金冠がかすかに揺れた。文姫は深く頭を下げ、床へひれ伏す。

 月城を出ると、夫の金春秋が待っていた。
 文姫の姿を見ても何も声をかけない。

(ひとことくらい、ねぎらいの言葉があってもいいのに。)

 倭国行きが決まってからも、夫とは何を語ることもなくこの日を迎えた。文姫もなんとなく夫を避けるようにして過ごしていた。

(もともと、私を愛してなんかないものね。)

 王族同士の婚姻だったから、愛情など何もない。金春秋という男の性格くらいは知っていた。
 三国統一への情熱はだれよりも熱く、自ら先陣に立って兵を率い、あるときは和睦を提議する。押して、引いての外交が巧みであり、女王からの信頼も厚かった。

 若い頃は好色であったようだが、文姫と婚姻したときはすでに四十歳。文姫と宝姫のほかには後宮に女をはべらすこともなかった。

 夫は、ときおり閨にきて、淡々と房事を行い、夜明け前に寝所を出てゆく。
 寝所では少しだけ話をするが、甘い言葉をささやくわけでもない。

 侍女たちから聞かされるような恋の駆け引きも、文姫は経験がなかった。夫婦とはこういうものだと思っていたが、侍女たちは「殿君はもう少し文姫さまに愛を向けてくだされば……」などと嘆く。

「そなたたちのいう、男の愛とはどのようなものだ?」
 と問えば、侍女たちは顔を見合わせ、頬を赤らめるだけだった。

(おまえたちこそ男を知らぬではないか。)
 と文姫は言ってやりたい。

 侍女たちは通常、少女のうちから宮中に仕え、結婚せず死ぬまで働く。王族に見そめられて寵愛を受ける以外では、男性を知らずに一生を終えるのだから。

 だが、金春秋と文姫との交わりをみて、「もっと愛を向けてくだされば」などと思うということは、侍女たちは違う愛の形を知っていることになる。
 不思議に思う文姫だったが、それ以上は追求しなかった。

 文姫は侍女たちの中から、健康かつ身寄りのない者を三人選び、倭国へ連れて行くことにした。選ばれた三人は青ざめたが、旅立ちの日までに覚悟を決めたようだ。

 船には、新羅に留学していた倭人の博士たちが便乗することになった。
 金春秋は、倭人たちと話し込んでいる。

 生まれて初めて見る海に、文姫はおびえた。
 吹きつける風は強く、じっとりと肌にはりつくようだ。
 澄明な空の色をそのまま映したような海は、まっすぐに進めば、どこかへ落ちてしまうのではと思われた。

 船は八丈(約二四メートル)もあり、大きく頑強に思えたが、広すぎる海に浮かぶさまを想像すると、とても耐えられぬように感じる。

 あまりに激しい船の揺れに、文姫は座っていることさえできなかった。
 風はますますきつくなり、帆はちぎれそうだ。
 それなのに水手は「おだやかな波で、ようございました」と笑っている。

(どこが、おだやかなのか!)

 文姫はいら立つ。船底から大きく持ち上げられるような動きと、ふわりと落ちて行くような動きが交互に押し寄せる。
 床板に這いつくばるようにして、文姫は早く倭国へ到着するようにと祈った。

 日没が迫る頃、揺れがとまった。船が停泊したようだ。

(到着した……?)

 顔を上げると、「そのままお待ちくだされ」と水手が言う。

「明日には難波津なにわづへ到着しますんで。今夜はここまでです」

 ひどい揺れはおさまり、ゆりかごのような優しい動きになった。
 甲板へ出ると、凪いだ海が目の前に広がっている。

 新羅から見た海と同じであるはずなのに、もうこの海は倭国だと思った。

(もう戻れない)

 唐突にさみしさに襲われた。兄や妹に会いたい。いまなら、まだ戻れる。船で一日ほどの距離が遠く感じられる。

 夫の金春秋はというと、甲板に灯された燭台の下で、倭人たちと何やら話しこんでいた。
 かれらは倭国で起こった変事について話しているようだ。
 
 文姫は、悪心をこらえながらも、金春秋と倭人の話に耳をそばだてる。

「中大兄皇子が、蘇我入鹿を殺した——」

 倭人の説明によると、倭の女帝は、大臣である蘇我氏の傀儡であったという。
 その蘇我氏を女帝の実子たる中大兄皇子が誅殺した。
 女王を廃位させ、その皇子が倭王になるかと思えば、そうではなかった。代わりに倭王となったのは、女帝の弟だという。

「なぜ、蘇我氏を倒した皇子が即位しないのだろうか」
 金春秋の問いに、倭人が答えた。
「中大兄皇子はまだお若い。皇太子となり、政治をおこなうつもりでありましょう。倭国の王とは祭祀をする者ですから、王となれば政治には介入できません」

「中大兄皇子……か」金春秋は腕を組んだ。「これから倭国を動かしてゆくのは、中大兄皇子だな」

「そうとも限りませぬ」倭人が否定する。「倭国の王は穢れを嫌います。飛鳥宮を血で汚した中大兄皇子は、群臣の反感を買いました。火消しに追われているのが現状です」

「では、新しく倭王となった弟皇子とは、どんな男だ」
「おだやかで気の優しい方ですな」
 倭人の言葉には含みがある。「おだやかで気の優しい倭王」は、たやすく中大兄皇子に操られるだろう。白昼堂々、蘇我氏を誅殺するような皇子に敵うはずはない。

「ただ、女帝には、大海人おおあまの皇子というお気に入りの皇子がおります。女帝は大海人皇子を後継にしたいはず。私どもは、大海人皇子こそ次の倭王になるのでは、と期待しておりまする」
「であれば……」
 金春秋はちらりと文姫を見た。
 
「我が妻を嫁がせるのは、大海人皇子のほうがよいかな」

 金春秋は、新しく倭王となった女帝の弟ではなく、倭王となる見込みのある皇子に文姫を差し出すつもりのようだ。

「私は、大海人皇子に嫁ぐのですか?」
 文姫が問うと、金春秋はふいと横を向いた。
「さて、な」
 おまえは知らなくともよい、と突き放す態度だった。

(このひとにとって、私は貢物のひとつに過ぎぬのか)

 積んできた宝玉や美しい孔雀、鸚鵡おうむ、みごとな絹衣――それらの貢物と文姫はおなじだ。
 だれに捧げられるのかなど、貢物は知らなくてよい。それは金春秋が決めることで、文姫は相手のことなど何も考えなくてよい。金春秋が選んだ相手に気に入られ、子でも産んでくれればよい。そう思っているのだろう。

(甘くみられたものだ)

 文姫は顔を袖で隠し、ぐっと奥歯をかみしめる。
 倭人の話がたしかならば、大海人皇子が最も有力のようだ。だが、この倭人とて長く倭国を離れており、詳しいことは知らぬはず。
 文姫はこの目でしかと見極めねばならぬと思った。もしも無能な皇子であれば、婚姻を拒まなければ。

(私は、兄上を支えるために倭国へ行くのだから)

 無能な皇子にささげられ、もてあそばれるだけで終わるつもりはない。
 新羅との同盟が叶わぬことになれば、文姫が倭国へ来た意味がない。

 袖の奥で金春秋をにらみつけると、すでにかれの眼光は遠海へとそそがれていた。海はすでに太陽をのみこんで、漆黒の闇に変容しつつある。代わりに天高く上がった月が、金春秋を照らしていた。

(私と兄上が、あなたを新羅王にしてあげるのよ)

 文姫の矜持きょうじは、兄の庾信によって保たれていた。庾信と文姫が協力し、新羅を救う。そして金春秋という英雄をつくるのだ。

(倭国との同盟が成立するとき、あなたは私にひれ伏すでしょう)

 庾信と文姫がいなければ、金春秋は新羅王になれない。そのことにいつか気づく日がくる——と、文姫は心の中でわらった。

第3話へつづく


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