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【試し読み】エンリーケ・ビラ=マタス「ぼくには敵がいた」(『永遠の家』より)

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エンリーケ・ビラ=マタス「ぼくには敵がいた」冒頭部分より(『永遠の家』木村榮一・野村竜仁訳 収録作品)

ぼくには敵がいた
  
いかにも現実的なあの忠告を耳にしていなかったら、ぼくたちの身にあのようなことは起こらなかっただろう。
「自分をアビシニアの皇帝だと思い込んでいるあのじいさんは、頭がどうかしているから、近づかないほうがいい」
ぼくたちはその忠告に耳を貸さなかっただけでなく、逆に常軌を逸したあの老人に対していっそう強い好奇心を抱くようになった。老人は暖かい冬の陽射しに包まれたニースを散歩しながら芝居がかった身振りをしたり、まわりにいる取り巻き連に自分の宮廷の王子や大臣であるかのようにあれこれ指示を与えていた。
ぼくたちは包囲網を徐々に狭めていき、とうとうある日老人がヤサルデという名前で、途方もない素封家のアルゼンチン人であることを突き止めた。遺産相続人たちは彼がどれほど奇矯で気まぐれな行動をとっても、機嫌を損ねないよう見て見ぬふりをしていた。ぼくたちは間もなく、というかそのすぐあとに風変わりな老人とはじめて近づきになった。今もぼくの記憶に鮮明に残っている冬の陽射しがあの時の沈黙の証人になっている。老人は自ら考案した衣装を身につけていたが、中でもサーカス芸人のはくズボンと軍服のような仕立てで金ボタンのついた赤いカザックの盛装が目を引いた。カラーのところには、三つの十字架とマルティン・ヤサルデという名前、それにアビシニアの皇帝という身分を示す文字が刺繡してあった。
はじめて口をきいた日も例の盛装をまとい、カラーのところには身分を示す刺繡が派手派手しく輝いていた。人ごみの中で彼を見つけ出したのはラウラだった。気持ちのいい朝で、数日後にコート・ダジュールに大雪が降るとはとても思えなかった。英国人遊歩道には折りたたみの椅子が一列に並べてあり、老人はそのひとつに腰を下ろして、他の老人と一緒に海を眺めていた。卑屈な親族の者たちは王子、あるいは大臣というよりも、まるで随員のようだった。ぼくたちはそんな彼らに紛れ込んで、そばに近づくとわざと子供っぽいふりをして、帝国の話を聞かせてほしいとせがんだ。
喜んで話してくれるだろうと思っていたが、思惑は外れた。彼は戸惑ったような表情を浮かべてぼくたちのほうを向き、品定めするように一人ひとりの顔をじっと見つめた。最初はペドロ、次いでソレダッド、そしてぼくの顔をじっと見つめた。おかげで友人とぼくは居心地の悪い思いをした。ラウラに向けられた老人の視線に気づいて、ますます落ちつかない気持ちになった。ラウラは近頃派手な服装をするようになり、そのせいで実年齢よりも年上に見えた。あの時も透けて見えそうなブラウスに黒のスカート、同じく黒のブーツにつばがとても広い真っ白な帽子をかぶっていた。娘にあのような服装をさせているが、家族の者はいったい何を考えているのだろう。彼女を奇妙な目つきで見つめている老人を見ているうちにぼくの心の中で何かが音もなく爆発したように感じ、このことはきっと忘れないだろうと思った。過去の情景が記憶に刻みつけられているように、人を戸惑わせるあの視線をきっと忘れることはないだろう。
「あなたの帝国のことを教えていただけませんか」とぼくはしつこく尋ねた。
老人はラウラから目を逸らして、質問に答えてくれた。彼の説明は謎めいていてよく理解できなかったが、今思えばそれほど謎めいたものではなく、ただ失われた幼年時代を呼び覚まそうとしていただけだったのかもしれない。というのも、帝国の話と言いながら、教えてくれたのは広々とした部屋や薄暗い屋根裏部屋、ロウソクを手に降りていった地下室、クモが梁に巣を張り、それが森や迷路、未知の都市、誰も足を踏み入れたことのない大地に見える屋根裏のことだけだった。
二日後に、ネグレスコ・ホテルの前でふたたび彼と出くわした。あの時はラウラの顔を執拗に見つめながら向こうから近づいてきた。そして、悪意のこもった笑みを浮かべて彼女に変わった体位が好きかと尋ねた。ぼくたちは質問の意味がまったく理解できなかったので、優雅に視線をさまよわせるというお気に入りの遊びをすることにしたが、その技巧に関してはぼくたちの右に出るものはおらず、つねに相手を戸惑わせることに成功していた。あの日の老人も例外ではなく、まんまと罠にかかった。彼は当惑して海岸のほうに目をやると、狼狽していることを気取られまいとして、変わった体位というのは、たとえば逆立ちをして歩くといったことなんだと言って、ちょうどその時冬の砂浜で逆立ちして遊んでいる人のほうを指さした。
ぼくたちの視線はふたたび優雅にさまよいはじめた。すると老人は体の中に奇妙なバネが仕込まれてでもいるように、突然おしゃべり好きな本性を現した。おかげで、老人が自分のことをひどく若いと思い込んでいて、ヨーロッパへ遊学に来ていることがわかった。そして、訪れた国で面白いことを発見すると、かならず五線紙のノートに書き留めるようにしていると言った。
何に興味を持たれたんですか? 君主だけだね。メモはすべて君主に関するものだった。たとえば、パリに滞在中のことは、その時に会ったフランスの昔の皇帝のことしか覚えていなかった。
「愚かでぞっとするような老人だったよ。もっとも相手を怒らせてはまずいと思って何も言わなかったがね」彼は楽譜用の五線紙ノートを振り回しながらそう言った。
ベルリンではオペラ座へ行き、いつまで経っても歌うのをやめない国王と貴婦人が登場するオペラを鑑賞した。
「幸いなことに」と彼はぼくたちに言った。「やっとのことで貴婦人が火刑に処されて、生きながら焼かれたものだから、私をはじめ王子や大臣はその結末に大いに満足したものだ」
彼はラウラの手を取ると、ゆっくり愛撫しながら、君の指はまるで王妃の指のようだねと言った。
「私は」と付け加えた。「自分が特別な人間であることをちゃんとわきまえておるから、この心と服装がちぐはぐだということもよく理解している」
当時のぼくはまだ子供だったので、その言い方がおかしくて吹き出してしまった。つられてソレダッドとペドロも一緒になって笑い出した。そのせいで気分を害したのだろう、随員たちがいくぶんびっくりしたような表情を浮かべている中、彼は突然五線紙ノートの一ページ目を開くと、そこに書き付けた言葉をタバコの巻紙の上に写しはじめた。
巻紙には文章をひとつ書くぐらいの余白しかなかったが、書き終えると、それでくるくるとタバコの葉を巻いて、満足そうに吸って煙に変えてしまった。そして、自分がニースを出てゆく前に五線紙に書き留めたものをすべて煙にしてしまっているだろうなと言った。
その夜、ぼくは老人が世界をそっくり煙にして吸ってしまった夢を見た。その夢のせいだろうが、次の日老人に会った時、世界全体を巨大な煙に変えて吸ってしまうと、あとで疲れが出ませんかとさりげなく訊いてみた。老人は不安そうな表情を浮かべたが、その理由はぼくが質問したこととは関わりのない何かだったのだろう。
「人はそれぞれだからね」と老人は答えた。
「何か気にかかることでもあるんですか?」
「ああ、君は友人だから包み隠さず言うが、何か恐ろしいことが起こりそうな気がする。誰かにあとをつけられている、というか誰かが自分の前を歩いているような気がするんだよ。皇帝の私が言うんだから間違いない」
海岸沿いをラウラがいらいらした様子でこちらに向かってやってくるのを見て、老人の注意はそちらに向けられた。その日の彼女は全身白ずくめの衣装をつけ、顎の下で帽子をしっかり止めているゴム紐までが雪のように真っ白だった。そばに来ると、彼女は老人に向かって帽子をとってもいいですかと尋ねた。
「ああ、もちろん遠慮なくとっていいよ」と老人はカラーの、皇帝と刺繡してある箇所を撫でながら答えた。彼女は帽子を脱ぎながら、これ以上ないほど甘えた声でリボンが痛くてしかたないんですと弁解した。それを聞いて、彼女もぼくと同じように、自分では若いアビシニア人だと思い込んでいる頭のおかしい哀れな老人に少しばかり同情しているんだなと考えたが、それはとんでもない思い違いで、彼女は同情していたのではなく、老人の奇矯さに惹かれていたのだ。
クリスマス・イヴに贈り物を吊るしたモミの木のそばでぼくにそう教えてくれたのは、ラウラだった。ぼくたち親族の人間は父が借りた家にみんなで泊まっていて、三日後に全員揃ってバルセローナに戻ることになっていた。まわりの人に聞かれないようラウラとぼくは、クリスマスの火が赤々と燃えている暖炉から遠く離れた絨毯の上に腰を下ろしていた。ぼくは間に合わせに作った二つの人形をひとつずつ手に持ち、それに声と命を吹き込んだ。人形のひとつは腹話術師で、もうひとつは主人を激しくののしる癖のある無作法な人形だった。ラウラはぼくが思いつきで作った人形がひどく気に入ったようだが、その時縁起の悪いことに腹話術師の話を夢中で聞いていた彼女の膝の上に一匹の黒猫が突然飛び乗った。
ラウラはびっくりしたような表情を浮かべたあと、用心して猫を撫でた。その時に爪で引っかかれたようで指から血が噴き出したので、手を高く挙げた。
「どうして引っかいたんだろう」ぼくはそう言いながらペドロのほうに目をやった。彼は客間奥の暖炉の近くに座って、ぼくたちのほうをちらちら見ながら木の棒で火を搔きたてていたが、頑として脱ごうとしなかったオーバーの襟を立てて、そこに顔を埋めていた。ラウラはおかしな態度をとっているペドロのほうをチラッと見たあと、何かを怖がっているようにぼくの顔を見つめた。ペドロはどうしたのかしらと尋ねるつもりだろうと思ったが、彼のことなど気にかけていないことがすぐにわかった。ぼくの腹話術師の人形の口を押さえると、あの老人のことを話題にしたが、それを聞いてぼくは不安に襲われた。
「私はあの人を永遠に愛するわ」と彼女は言った。「死んでからもね。いずれ死が訪れるはずだけど、そうなったらお墓に宛てて手紙を書くつもりなの。あの人は、誰かが手紙を書きつづけるかぎり、死者は死なないって言ったのよ」
ぼくは彼女の指の血と暖炉の火を見つめながら、いったいどういう種類の愛なんだろうと考え込んでしまった。クリスマスの冷たい朝にラウラの死体が発見されたが、殺される前に身の毛のよだつほど恐ろしい出来事があったことを思うと、今でも考え込んでしまう。
彼女は真夜中に家を抜け出して老人に会いに行き、そこで老人に強姦された。老人は彼女を犯し、死んだとわかると彼女の舌を嚙み切った。そして、犯罪現場から少し離れた、ぼくたちがいつも遊び場にしていた大きな廃屋敷内にある木で首をくくった。月がそれを見届けた唯一の証人だった。
彼が首を吊った直後からニースに雪が降りはじめ、一晩かけて雪がその姿形を変えてしまった。クリスマスの朝、老人の死体は凍てつくように冷たい風に吹かれてぼくたちの目の前で揺れていた。まさかそれが老人の遺骸だとは思わず、雪だるまだろうと思っていた。数分のあいだ、ソレダッドとペドロ、それにぼくの三人はラウラの身に何が起こったのかも知らずに、彼女に代わって復讐していたのだ。宙に浮いて揺れている雪だるまに向かってぼくたちは雪つぶてを投げたが、そのうち陽が射して遺体を覆っていた雪がとけはじめた。最初に老人の名前と皇帝の称号が刺繡されているカラーが見え、次いで別世界の上で嘲笑する旗のように凍りついている老人の顔が浮かび上がってきたので、ぼくたちは驚愕すると同時に震え上がった。

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エンリーケ・ビラ=マタス『永遠の家』
木村榮一・野村竜仁 訳

四六判 上製本 192ページ
定価:本体 1,800円+税
ISBN978-4-86385-473-4 C0097

装幀 緒方修一
装画 平井豊果

芸術の破壊と再創造をめざすスペイン文学の奇才が綴る〈虚空への新たな跳躍〉を試みる腹話術師の悲しくも可笑しい幻想的連作短編集。
推理小説?シリアス?ユーモア? 虚構に潜む陰の真実。独特の語り口が読むものを霧の彼方へと誘いこむ。

2021年8月全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
エンリーケ・ビラ=マタス
1948年バルセロナ生まれ。1985年『ポータブル文学小史』がヨーロッパ諸国で翻訳され、2000年『バートルビーと仲間たち』、次いで2003年『パリに終わりはこない』で世界的に評価される。

【訳者プロフィール】
木村榮一( きむら・えいいち)
1943 年、大阪市生まれ。神戸市外国語大学名誉教授。著書に『ラテンアメリカ十大小説』ほか、訳書にバルガス= リョサ『緑の家』、コルタサル『遊戯の終わり』、リャマサーレス『黄色い雨』ほか。

野村竜仁( のむら・りゅうじん)
1967 年、群馬県生まれ。現在、神戸市外国語大学イスパニア学科教授。おもな訳書に、ビオイ=カサーレス『 パウリーナの思い出に』(共訳)、セルバンテス『戯曲集』(共訳)がある。

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