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【試し読み】ハン・ジョンウォン「宇宙よりもっと大きな」(『詩と散策』より)


【試し読み】ハン・ジョンウォン「宇宙よりもっと大きな」(『詩と散策』より)(橋本智保訳)

 私が冬を愛する理由は百個ほどあるのだが、その一から百までがすべて〝雪〟だ。それだけ私の雪への想いはひたむきで純粋だ。なぜ雪が好きなのかというと、白いから、清らかだから、静かだから、溶けるから、消えるから。
 愛し合うふたりがつき合った日数を数えるように、私は雪に出会った日を数える。初雪、二回目、三回目……十回まで数えた年は、なんともいえないほど美しかった。

 朝、目を覚ましたとき、カーテンが閉まっていて布団の中からは外が見えないのに、周囲によそよそしい光を感じる日がある。まだ夢の続きを見ているのだろうか。私はゆっくりと瞬きをしながら、その目に見えない幻想の光について思いをめぐらせる。そのうちはっと思う。「なにかがやってきたんだ!」
 さっと起き上がってカーテンを開けると、ああ、そこに雪があった。窓を見上げていた恋人が顔をのぞかせた私を見るなり、にっこり笑いながら力いっぱい手を振るように。
 そうやって雪を見つけた日は、恋を見つけたかのように胸がいっぱいになる。

 私は無心で外に出る。
 雪がもっと積もっていそうな道をわざと選んで、髪の毛と頰と足首が濡れるほど歩き続ける。私を家の外に連れ出したのはある光り輝く顔だったが、歩いているのは私ひとりだ。かつていっしょに歩いた人の顔が目の前の雪景色の中に現われるように、私はひたすら記憶の幻灯機を照らす。そうやって散歩を続け、本当はうれしいのに泣き顔になる。
 森にたどり着くまで人気ひとけはなく、辺りはしだいに青白くなる。私の唇の内側では、その人と交わした言葉がそっくりそのまま繰り返されているけれど、実際には聞こえない。それらの言葉はもう、人の耳に届くデシベルよりも小さな音が暮らすところに行ってしまった。
 愛するものを失ったとき、人の心は大きくなる。あまりにも大きいそこには、海もあれば崖もあり、昼と夜が同時に存在する。そこがどこなのか見当もつかないので、どこでもないと思ってしまう。大きすぎるとかえってつまらなくなる。ところが、ペソアはその気持ちを違った目でとらえた。

これらはすべて私の心の中では死であり
この世界の悲しみだ。
これらはすべて、死んだけど、私の心の中では生きている。
そして、私の心はこの宇宙よりもう少し大きい。
フェルナンド・ペソア「列車を降りて」

 空っぽの空間で悲しみに暮れていた詩人は、その空間に時間を連れてくる。私が存在するかぎり、私が失ったものも私とともに存在するという超越した時間にゆだねられた心は、やがて宇宙よりも大きくなる。そうやって大きくなった心は、もはや虚しくない。数万年前に死んだ星のように、心の中を埋め尽くして輝くものがあるからだ。

 森の奥から大きな獣の湿った声が聞こえる。なにかを呼んでいるのだろうか、それとも私のように雪を見て喜んでいるだけなのか。私は邪魔にならないよう引き返した。
 お気に入りの映画に、仲のいいふたりの少年が夜空を見上げて流れ星を待つシーンがある。やがて窓の外にかぎりなく星が降り注ぎ、少年たちは交互に歓声をあげながら見守った。その後、ふたりのうちのひとりが先に亡くなった少年にこんな追悼文を読んだ。「……見えたふりをして笑い合ったの、楽しかったです」
 私は肩に雪をのせて歩きながら、この言葉を少し変えて宙に投げかけた。
「ひとりだけれど、いっしょに歩くふりをして笑い合ったの、楽しかったです」
 そして、そっと幻灯機を消した。
 雪は白い色というよりは、白い光と言ったほうがいい。その光は私の愛する人の顔を映しだしてくれる。どんなに遠く離れていても、違う世界にいても、その日だけはやってきて、窓の外から私を呼ぶと約束してくれているかのようだ。そんな目に見えない約束がいつまでも私に雪を待たせているのだ。
 明日は雪が溶けるだろう。雪は音を立てずにやってくるが、帰るときは水の音を与えてくれる。
 私はその音に泣き声を少し添えるかもしれない。
 だいじょうぶ。私の心は宇宙より大きいし、そこには泣く場所もたっぷりあるのだから。

*****
『詩と散策』시와 산책 Poetry and Walks
ハン・ジョンウォン 著
橋本智保 訳

四六変形並製、152ページ
定価:本体1,600円+税
ISBN978-4-86385-560-1 C0098

装幀 成原亜美(成原デザイン事務所)
装画 日下明

散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人ハン・ジョンウォンが綴るエッセイ
雪の降る日や澄んだ明け方に、ひとり静かに読みたい珠玉の25編

オクタビオ・パス、フェルナンド・ペソア、ローベルト・ヴァルザー、シモーヌ・ヴェイユ、パウル・ツェラン、エミリー・ディキンソン、ライナー・マリア・リルケ、シルヴィア・プラス、金子みすゞ、ボルヘス……

『詩と散策』は、著者のハン・ジョンウォンがひとり詩を読み、ひとり散歩にでかけ、日々の生活の中で感じたことを記している、澄みきった水晶のようなエッセイ集だ。読者は、彼女の愛した詩人たちとともに、彼女が時折口ずさむ詩とともに、ゆっくりと散歩に出かける。

2023年2月全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
ハン・ジョンウォン 한정원
大学で詩と映画を学んだ。
修道者としての人生を歩みたかったが叶わず、今は老いた猫と静かに暮らしている。
エッセイ集『詩と散策』と詩集『愛する少年が氷の下で暮らしているから』(近刊)を書き、いくつかの絵本と詩集を翻訳した。

【訳者プロフィール】
橋本智保(はしもと・ちほ)
1972年生まれ。東京外国語大学朝鮮語科を経て、ソウル大学国語国文学科修士課程修了。
訳書に、キム・ヨンス『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)、チョン・イヒョン『きみは知らない』(同)、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(同)、ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』(段々社)、クォン・ヨソン『レモン』(河出書房新社)『春の宵』(書肆侃侃房)、チェ・ウンミ『第九の波』(同)ユン・ソンヒほか『私のおばあちゃんへ』(同)など多数。


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