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【試し読み】黄崇凱『冥王星より遠いところ』より

冥王星より遠いところ_書影_01-1

黄崇凱『冥王星より遠いところ』(明田川聡士訳)冒頭部分より

人類が月面着陸したことはずっと信じたくなかった。

母さんに付き添っていたあの頃、それをもっと確信した。もちろん映像や文章、写真で言い返すことができるし、日時は一九六九年七月二十日だったと正確に言うこともできる。アメリカの宇宙飛行士で月面着陸した二人は誰と誰だと言い、さらには世界中に知られた宇宙の名言さえもそらんじてみせることだってできる。月に星条旗が今でも突き刺さっている写真を見せびらかすことも。そんなもので俺を説き伏せることなんてできないのに。今まで地球は丸いとずっと思ってきたかのように、人類が月面着陸したことなんてないんだ。月面着陸を信じなくても右手で歯磨きするのにはちっとも影響はないし、気むずかしい大腸がいきなり通じることだってないだろう。母さんが死なないということもない。

今度は大丈夫そうだ。俺は娘に向かって言った。「悲しくなんかないよ」娘は困惑して眉間に皺を寄せ、丸い頰をふくらませた。目の前にいる父親が言った言葉を理解できないかのように。
「何が悲しいの? パパ?」娘をぎゅっと抱きしめた。初めて付き合ったばかりのガールフレンドで、将来妻となる女の子に対してのように。娘は何も言わず、静かに俺がきつくギューッとするがままにしていた。どんぶり目一杯のスープがちからを入れればひっくり返り、煮え立った汁物が体内に熱さを伝えるかのように。かわいい娘よ。「おばあちゃんがいなくなっちゃったんだよ」
「おばあちゃん?」
「そう、パパのお母さん。おばあちゃんのこと」
「おばあちゃんがいなくなったってどういうこと?」
「死んじゃったってこと」
「死んじゃったの」
「そう、死んじゃったの」
「でもね、パパ、おばあちゃんはずっと前に死んじゃったよ」
「そうだね。ずっと後になってもまだ生まれてきてないみたいにね」
「じゃあ、あたし、なんでここにいるの?」
「わかんない」
「知ってるよ……」

目が覚めると、ずっと遠くでみた夢だったと気づいた。夢とも言えないのかもしれない。疲れ果てた日常のすきまから広がる希望みたいなもの。母さんの世話をしながらぼんやりしている時にやってきて、ちょっとばかりのちからをくれる。どうして娘がいたんだろう。そんなもの、ありもしないのに。まるまる二億の兵士たちは居眠りしてるのに。下で買い物してくると言うと、母さんはうなずいた。母さんはこの一週間ろくに眠っていなかったけど、横にならないで休むのはよくないな。何か買ってくると言ったけど、自分でも何が何だかわからなかった。とにかく明るい光の空間に自分を放りこめば、自然とわかるような気がした。小学生の頃だったろうか。母さんがオースチンのMINIを運転して帰る時だった。国語のドリルを抱えて後部座席に潜り込み、狭苦しいシートで背中をくねくねと曲げながら字をなぞっていた。窓は開けていなかった。しばらくすると空気がこもって息苦しくなり、我慢できなくなってきた。小さい自分にはそれがいかに意地っぱりなことかわからなかった。目の前にある真新しい自動車が自分を迎えてくれないことなんてない。ギアやハンドル、メーターもテカテカと光っている。小さな小さな新しい世界の中で、自分が存在しないはずはないといつも思っていた。それから自分で自分に対して待つように言ったんだ。車の中で息苦しくて頭がくらくらし始めても、ウインドウガラスを下ろして空気を入れる気にはなれなかった。後で母さんが言っていた。あら、どこかへ行ってしまったわと気づいた時、車内で一時間以上も寝てしまっていて、捜し出せたのは夕食後だったとか。本当のことを言うと俺はムカムカし、どうして母さんは俺がいないのに平気で夕食を作れるのかと不思議で仕方がなかった(卵チャーハンを作ってくれただけだったけれど)。その時俺は全然わかってなかった。車にいなければ、我が家の車じゃなくて何なのと思っていた。母さんは俺が車内にいたことを怒らなかった。軽くウインドウガラスをノックし、自分で出てくるよう言っただけだった。国語の宿題を抱えて、冷め切った卵チャーハンのところまでたどり着いた時、俺に向かってはやく食べなさいと言ったんだ。どうしてチャーハンを温めてくれないのって思ったけれど。そんなわけで、MINIの車を見るたびに、冷え切って固くなった米粒をいつも思い出すのだった。記憶の食道を米粒がゆっくりと胃袋へ向かって落ちていくけれど、胃の底までたどり着かず、消化のプロセスに入ることができないかのように。

何年か後になって、下りていくエレベーターでこのことを思い出した。エレベーターが停まらずに沈んでいくと、こまごまとした思い出が浮かび上がり、何を買いに行くところだったか思い出せなくなった。コンビニはものすごく静かで、外の看板には蛾がたくさん飛び交って羽をふるわせながら、光の方へ何度もぶつかっていた。病院の向かいの店は病人ばかりを相手に商売しているけれど、でも誰もそこに長くいようとはしない。グレーのジャケットを着た退勤したばかりの看護婦さんが飲み物のところでうろうろしている。結局コンビニ弁当を提げて出ていった。黙って店員と会計を済ませ、バーコードの読み取りとレシートの印字音だけが明るい空間で渦巻いていた。俺は寒気がした。今日来たのはこれで何度目だろう? まるで紐をかけてある雑誌やDVDを定期的にチェックする保護者のように、ビニール越しにタイトルをなぞりながらいやらしい写真や見出しを想像するのだ。ガールフレンドのしなやかな肌をさすりながら、膣内の温かさとにおいを思い浮かべるかのように。広い店内、並べられてじっとしている商品。エアコンや冷蔵庫のウォーンウォーンという音が鳴り響き、たとえようのない気持ちが直に突き刺さる。何か買いたいものを探しているわけじゃない。午後にプリンを食べたし、夜にはコーヒーを一本飲んだから、お腹が減らないで当然だ。もう一回入り口の前に立った時のピン、ポンという音。高いところの街灯が吸い寄せるパチッという音。向かいのビルはがん患者のように、生命維持のための機器に繫がれている。痛みを騙し、絶望を偽るかのように。

声を抑えるかのように明かりを落とした救命救急センターの受付まで進むと、ネルーダの少女がペットのことを話したのを思い出した。小学生の頃にシーズー犬を飼い始めたけれど、高二の頃にはもうお手上げだったという。
「ほら、わたしのとこ田舎だから、毎回だっこして病院へ行くことなんてできないのよ。獣医さんだって、年を取ったから、内臓が衰えて、若い頃のような体力を取り戻すなんて無理だよって言ったの」
「じゃあ犬はその後どうなったの?」
「わたしとお姉ちゃんが毎日放課後急いで戻って、生きてるかどうか確かめたの。ある日ね、家に帰ると犬小屋にいなくて、だいぶ捜したけどお姉ちゃんのベッドの下にいたの。死んでた。どう言えばいいかわかんないけど、なんか現実じゃないみたいだった。朝出かける時には目を開けて見送ってくれたのに。夕方には潰れたぬいぐるみのようになってて、臭いにおいだったの」
「最後はどうしたの?」
「お姉ちゃんは自分のベッドの下で死んでるのに気づいた時、ちっとも驚いたような感じじゃなかった。汚くて臭いぬいぐるみのようだったけど。わたしにゴミ袋を二重にするよう言ったの。ぬいぐるみをつまみ上げるようにしてゴミ袋に放り込んだの。それからお姉ちゃんは死んだ犬は川に流すのと言って、村はずれにある大きなどぶの所まで行ったの。後ろについて行ったのよ。最初から最後までお姉ちゃんのこと見てたけど、本当に大人みたいだった」

まだガールフレンドにもなってなかったネルーダの少女がながながと話すのを聞きながら、俺は何も言わなかったのを覚えている。あの時、俺たちはちょうど借りていたアパートのベッドにいた。互いに相手とは関係ないことをおしゃべりしながら、無駄に時間が過ぎていく長い長い夏の日の午後だった。天井を見つめながら、耳元では扇風機がブーンブーンと音を立て、少女が話すたびに言葉はかき消されていった。でも困りはしなかった。面倒くさい顔をせずに聞いているだけでよかったんだ。両腕を頭の後ろに置いて、かすかに滲み出てくる汗が、乾いた肌に染みこんでいった。自分の体内で夏限定の小さなオーブンがムラムラしているように感じた。まるで使い勝手の悪いソーラー式懐中電灯のようで、冬には一度も自然に火はつかなかったのに。

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現代台湾文学選2
黄崇凱『冥王星より遠いところ』
明田川聡士 訳

四六、上製、224ページ
定価:本体1,900円+税
ISBN978-4-86385-484-0 C0097

装幀 木庭貴信+オクターヴ
カバー写真 陳威廷

どんなに大切な時間も、やがて忘れ去られてしまう——
この小説の語り手はその運命に本気で抗おうとする。「惑星X」の存在を信じ続けた天文学者と同じ、狂気と紙一重の切実さで。
モザイクのように繫がる過去と未来、現実と虚構が、日本を越え、アメリカも越えて、遠く太陽系の果てに新しい地平をつくる。
――滝口悠生(小説家)

文学キャンプ出身の「七年級」作家・黄崇凱、日本で初めての単行本。台湾における尊厳死問題を示唆した長編デビュー作。

病院で母を介護する青年と、妻や娘と暮らす小説家志望の高校教師。青年の夢に出てくる男の姿は高校教師である「俺」の日常とまったく同じで、高校教師が小説で描き出す青年は現実の「俺」と少しも変わらない。二人の「俺」は現実の日常や夢のなか、小説のなかで、母の病室と実家とを行き来し、ネルーダの少女とデートする……。この現実は夢なのか、虚構なのか。今では最愛の母は遠く離れ、太陽系から外された冥王星よりもさらに遠いところをさまよっている。

2021年9月下旬全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
黄崇凱(こう・すうがい / Huang Chong-Kai)
1981年、台湾・嘉義市生まれ。小説家。国立台湾大学歴史学系卒業、同大学歴史学研究所修了。著作に長編小説『新宝島』(2021年)、『黄色小説』(2014年)、『壊掉的人』(2012年)、短編小説集『文芸春秋』(2017年)、『靴子腿』(2009年)など。短編小説「水豚」(邦題:カピバラを盗む)は文学ムック『たべるのがおそい vol.3』(2017年)に掲載。受賞歴に金鼎賞(2018年)、呉濁流文学賞(2018年)など多数。

【訳者プロフィール】
明田川聡士(あけたがわ・さとし)
1981年、千葉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。獨協大学国際教養学部専任講師。専攻は台湾文学。著書に『戦後台湾の文学と歴史、社会』(単著、関西学院大学出版会、2021年近刊)、『越境する中国文学』(共著、東方書店、2018年)、『台湾研究新視界』(共著、台北・麦田出版、2012年)、翻訳に李喬『藍彩霞の春』(単訳、未知谷、2018年)、李喬『曠野にひとり』(共訳、研文出版、2014年)など。

【現代台湾文学選】
台湾の現代文学には、激動の時代の空気感を伝えるだけでなく、現在の台湾の人びとの抱える問題が色濃く反映されている。ただ、観光に行くだけでなく、人々の暮らしや思いにも心を寄せてみたい。小説の中には私たちが知らない台湾の姿が色濃く滲んでいるにちがいない。

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