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アーシュラ・K・ル=グウィンによる『象の旅』(ジョゼ・サラマーゴ)評

ジョゼ・サラマーゴの最晩年の傑作『象の旅』(木下眞穂訳)が10月上旬に刊行になります。

『ゲド戦記』や『闇の左手』などの作品で知られるアーシュラ・K・ル=グウィンによる『象の旅』評(「The Guardian」2010年7月24日掲載)の一部を訳出していただきました。

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ジョゼ・サラマーゴ『象の旅』評

アーシュラ・K・ル=グウィン

「過去とは、石ころだらけの広大な空間であり、自動車が高速道を走るがごとくすいすいと渡れたらと願う者は多いが、実のところは、下に何が隠れているのか確かめつつ、一個ずつ石を持ち上げて辛抱強く渡るしかない。サソリやムカデが這い出てくることもあるだろうし、太くて白い芋虫やまるまるした蛹がいることもあろう。それにしても、一度ぐらいは象が一頭出てこないとも限らない(……)」

 こう『象の旅』に書いたジョゼ・サラマーゴが先月亡くなった。87歳の老人であった。サラマーゴの関心の矛先も、政治的信念も、情熱も、時代遅れと見えるかもしれない。独裁を許さぬ筋金入りの共産主義者、正統信仰主義の打倒を掲げ、国際協力などどこ吹く風、辺境の小国の農家に生まれ、弱者の味方であると自認し、リベラル派ですら左翼と言われてしまうような時代に急進派として生きた男。さらには、作風のその揺るぎなき急進性ゆえに、現代の目まぐるしいチャットルームからサラマーゴの存在が消滅することはない。サラマーゴは私たちの先を行っていた。というより、今も私たちの前を行く。その作品は未来に属するものなのだ。このことに私は慰めを見出す。近代文学という果てしない野原で辛抱強く石を持ち上げると、たぶんサソリや地虫が出てくるだろうが、少なくとも一度くらいは象が出てきたことがあるということが確実となったからだ。

(中略)

 サラマーゴは、人類が関心を向けるべきは、価値や意味なるものをことごとく専有する「人間」だけでなく、生きとし生けるものだと考える。われわれが生物の先頭にいるわけでもなければ、しんがりを務めるわけでもないと読者に伝えるとき、サラマーゴはよく犬を登場させる。わたしは、彼の小説にはシンプルな順序づけができることに気づいた。犬が登場する小説の方が、登場しないものよりもよいのだ。犬の役割が大きいほど、本が面白い。
『象の旅』では、犬よりさらに巨大な生きものが、人間以外の生物の重要性を思い出させてくれる。であれば、わたしがこの小説を彼の作品の中でも上位に位置づけるのは当然のことで、この物語は、ごくごく自然に、『石の筏(A Jangada de Pedra・未訳)』、『白の闇』、『洞窟(A Caverna・未訳)』と並び、わたしのお気に入りの作品の一つになったのである。

 歴史をひもとけば、1551年に、最初はポルトガル国王ジョアン3世の軍隊、後半はオーストリア大公マクシミリアンの軍隊に警護された象が、リスボンからウィーンまで歩いたという史実があることがわかる。象のソロモンと象遣いは、すでにインドのゴアからの長い船旅を経ているのであって、それから数年をリスボンの畜舎で過ごし、そこから国王の贈物としてスペインのバリャドリードへと旅立ち、オーストリア大公の手に渡り、大公とともにイタリアまで船で渡り、アルプスを越えてウィーンにたどり着いた。小説では、ソロモンと象使いスブッロ(のちに大公にフリッツと改名されてしまう)は、のんびりとした足取りでさまざまな景観を通り抜け、たくさんの役人や軍人に付き添われ、日常に突然飛び込んできた象という謎をあれやこれやの解釈で解き明かそうとする村人や町民に出会う。物語はそれだけだ。

 そして、これがとてつもなく可笑しいのだ。老サラマーゴの筆致は熟練の軽やかさ、そのユーモアは柔らかで、嘲弄には忍耐と憐みがほどよく混じりあっているので、棘は消えてもウィットはしっかり生きている。(中略)ささやかな不条理の奇跡の連続で、諦念と温かさに満ちた深い知慮が小さな笑いを生み出している。

 サラマーゴが描く人間像を読むと、われわれは、非常に稀有な感覚を得る。失望ゆえに湧きおこる情愛と驚嘆、すべてを見越した赦し、というような。彼はわれわれに多くを期待しない。サラマーゴの精神性とユーモアは、かの偉大なる作家セルバンテスに、どの作家よりも近いところにあるではないだろうか。理性の夢も正義の希望も破れた人にとって、手軽な抜け道はシニシズムである。だが、石頭の農民サラマーゴは、そんな簡単な抜け道など使わない。

 もちろん、彼は農民ではなかった。洗練された知識人、編集者にしてジャーナリスト、都会に長年暮らしてもいた。リスボンを愛し、都会的、工業的な生活を主題にしている作品も多い。ところが、サラマーゴは、そうした生活を、都市から離れた場所、自給自足で暮らしを立てるような場所から見ているのだ。のどかな田園への回帰を提唱しているわけでもない。普通の人々が、どこで、どのように、普通の世界の残り物と巧くつながって生きているかという現実的な感覚を提示しているのである。

 ノーベル賞のスピーチで、サラマーゴはこう言った。「わたしは、自分のささやかな耕地から飛び出していくこともできなかったし、しようとも思わなかったので、できることといえば、根に向かって深く深く掘り下げていくくらいでした。不遜を承知で言うならば、その根とは、わたし自身のものでもあり、世界のものでもあります」。その、辛抱強く掘り進めるというきつい作業こそが、本に軽やかさと明るさを与え、そして同じくらいの深さと重みを与えている。これはただの寓話ではない。16世紀のヨーロッパの愚行と迷信の中を潜り抜ける象の旅の話がいかに寓話的であっても、だ。この物語に教訓はない。ハッピーエンドなどない。象のソロモンは、確かにウィーンに到着する。そして、その2年後に死ぬ。だが、彼の足跡は読者の心に残るだろう。地面に深く刻まれた丸い足跡は、オーストリアの宮廷や、どこかの未だ知られざる場所を向いているのではなく、おそらく、今後もずっとたどり続ける甲斐のある方向を示しているのだろう。(木下眞穂訳)

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『象の旅』
ジョゼ・サラマーゴ
木下眞穂訳

四六判、上製、216ページ
定価:本体2,000円+税
ISBN978-4-86385-481-9 C0097

〈象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れられるんです。
それが人生というものです〉。ノーベル賞作家サラマーゴが最晩年に遺した、史実に基づく愛と皮肉なユーモアに満ちた傑作。

1551年、ポルトガル国王はオーストリア大公の婚儀への祝いとして象を贈ることを決める。象遣いのスブッロは、重大な任務を受け象のソロモンの肩に乗ってリスボンを出発する。嵐の地中海を渡り、冬のアルプスを越え、行く先々で出会う人々に驚きを与えながら、彼らはウィーンまでひたすら歩く。時おり作家自身も顔をのぞかせて語られる、波乱万丈で壮大な旅。


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