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【試し読み】林家彦三「海上を渉る部屋」(『汀日記』より)

林家彦三「海上を渉る部屋」(『汀日記』より)


 二〇二〇年五月二十日。その日は、前座最後の日であった。

 寄席がない日々なので、ほんとうにこれでよいものかと、なにか、重い袋みたいなものを引きずっているようだったが、その日は師匠と一緒に大師匠のお墓参りをしたので、気持ちとしてはさっぱりとして、なんとかけじめはついたという気はしていた。朝からいちめんの曇り空だったが、雨もなんとかこらえてくれて、傘もとうとういらなかったから助かった。

 K市の駅まで来て、それから駅前で師匠と別れて、後ろ姿を見送って、あ、これで、もう、明日からは前座ではないのだと思うと不思議だった。手足の力が抜けきったまま、ふらふら歩いた。

 それから雨がぱらぱら降りはじめた。もしくはもう降っていたのに、気がついただけかもしれない。

 明日からなにが変わるのだろうと思った。身長が一センチ伸びていたり、視力が少しだけ良くなったり、まさかそんなわかりやすい変わり方はしないだろうけれども、まがりやすい背中を少しだけぴんとのばして、もう少しよい姿勢で、歩きたいと思った。明日からは見える景色も、もう少しだけ靄が晴れているようであったら良いと思った。

 駅前にわりとおおきな公園があって、マスクをしたままぼうっと散歩をしていたら、日が落ちた。

 部屋に帰ってきてから、どのような種類の感情なのかよくわからないけれども、急に身辺整理がしたくなって、手紙、写真、名刺、メモの切れ端、カードやなんかががちゃがちゃ入れてある箱をひっくり返して、なにかに取り憑かれたようにそれらを仕分けはじめた。

 その作業に夢中で、ふと時計を見ると、もう十二時を、七、八分越えていた。思わず、あっと声がもれた。

 前座と二つ目には、身分上厳密なものがあって、だから昇進というものはいちばん嬉しいのだという表現をよくするのではあるが、こういうものは秒読みするような類のものではないだろうし、ましてや年越しや誕生日ほどわかりやすいものでもない。もっというと、年越しや誕生日さえ時計のてっぺんを跨いだそのあとでも、じわじわとした、あの、透明なぬけがらみたいな、なんとも言えない「間」のようものが残るけれども、あの「間」に近いようなものが、まだまだ残っていた。

 それでも寸刻以前の自分とは歴然と違っているようにも感じたのは、前座と二つ目という、この身分の差の感じ方が、身に染みていたからだと思われる。

 前座と二つ目は、ひとつの夜が朝に変わるような、そんな単純なものではなかった。むしろもっと別天地の世界のはなしで、このふたつの世界では、それぞれの朝があり、それぞれの夜があるので、このふたつの世界は交わらないほど遠く、半日以上の時差があり、法律も共通言語も違う―という、突飛な表現ではあるが、少なくとも自分はそんな風に思っていただろうし、これは例えば昔ながらの修業の文化のわずかでも残っているような職種の方々には、こんな表現でも少しは共感していただけるのではないかと思う。

 身長を測ったわけでも、視力検査をしたわけでもないが、そうは言ってもやはり落ち着いて顧みると、なにも変わってはいなかった。身分制度としての肩書きが、まるで路面バスのおでこの行き先案内版みたいに、ぱたりと回って、変わっただけ。

 それから、やけに、夜が長かった。

 窓の上澄みから少しずつ色をかえていくように、まだまだ一致しない時差ぼけの眠気を覚ましながら、少しずつ二つ目になれたら良いと思った。がらくたのような品物と幼い思考を散りばめ、海上をわたる、夜。それも「渡る」というよりは、「渉る」と表現したいくらい、それは単純な動作ではなかった。気が遠くなるようで、足元からは水に浸るような直接的な冷たさを感じた。さもしかった。それでいて、やはり落ち着かなかった。

 曖昧な日付変更線を目指して離陸しようとしているらしいこの部屋は、まだ慣れないコックピットさながら息苦しい。試操縦すらできないらしい、日々がまた来るらしい。

 それでもやれることをやらねばならないと、息巻いてはいた。しかしかえって体の方は身動きが取れないくらい弱々しくなっていたと、記憶している。

二〇二〇年五月

*****

『汀日記』若手はなしかの思索ノート
林家彦三

四六変形、並製、256ページ
予価:本体1,500円+税
ISBN978-4-86385-518-2 C0095
装丁 成原亜美
装画 ササキエイコ

コロナ禍に"二つ目"となった。   
ぽっかりと空いた時間に、ぽつりぽつりと紡いだ言葉。
これは、ほんのひとときの雨宿りの時間なのかもしれない。


東京郊外で暮らす若手噺家の2020年4月~2021年5月の日々を綴った日記文学的思索集。

【著者プロフィール】

1990年福島県生まれ。2015年林家正雀に入門。現在、二ツ目。
若手の落語家として日々を送りながら、文筆活動も続けている。本名は齋藤圭介。


web侃づめ「日々の、えりどめ」も更新中 

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