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第39回 英語を壊すお・も・て・な・し──多和田葉子の『献灯使』とマーガレット満谷の_The Emissary_の翻訳術(矢倉喬士)

 2014年に出版された多和田葉子の小説『献灯使』は、大災厄に見舞われた後に鎖国状態になった架空の日本を描いた作品である。作品内の日本では、2011年の東日本大震災と原発事故を彷彿とさせる深刻な環境汚染があったらしく、人々は外で自由に運動する機会も減り、世代を重ねるごとに体は弱くなっていく。百歳を超えても元気な老人たちが車椅子に乗る脆弱な子どもたちを介護するという、不思議ながらもどこか現実とリンクしているような世界観の作品だが、作中で他言語と混ざり合って見慣れない姿へと進化する独特の日本語が、人ならざる未知の生物へと進化していくキャラクターと調和していて、内容と形式が互いを高め合う作品に仕上がっている。この『献灯使』が2018年に翻訳者マーガレット満谷の手によって_The Emissary_として英訳されると、全米図書賞翻訳部門を受賞して英語読者にも広く評価されることとなった。
 
 しかし、日本語作品の英訳版がアメリカで賞を受けたことを手放しに喜ぶわけにはいかない。全米図書賞の翻訳部門は1983年を最後に休止していたのだが、それを2018年に復活させた理由について全米図書賞財団のデイヴィッド・スタインバーガー(David Steinburger)は、「優れた書籍が文化に与える影響を大きくすることは、全米図書賞財団の本質的な部分における使命と言えます。それに値する優れた書籍はたくさんあったにもかかわらず、我々には認識することができなかったのです」(Alter, 12段落)と述べている。英語以外の言語で書かれた優れた作品の影響力を強めるために全米図書賞翻訳部門は復活したというのだが、これを手放しに喜べないのは、それが結局のところアメリカ合衆国内で出版された英語作品を奨励しているからである。つまり、表向きには非英語作品に光を当てると言いながら、実際には非英語作品をアメリカ出版業界活性化のために動員し、世界の言語使用状況における英語の影響力をさらに増すことと表裏一体の運動なのだ。全米図書賞翻訳部門が充実することで、英語は他言語よりも格上の言語であり、英語だけあれば他の言語は不要という認識が強化される皮肉な可能性を一旦は考慮する必要がある。

 とはいえ、多和田葉子作品がただ英語帝国の支配を盤石にすることはありえない。日本語とドイツ語を初めとして、複数の言語を混ぜ合わせた独特の言語で創作する多和田作品は、ある言語の基盤を確実にするどころか、むしろ揺るがし、言語の狭間へと読者を誘うからである。ときにダジャレと呼ばれることもある掛け言葉や、漢字の外見的な類似から自由に発想を飛ばす多和田作品の翻訳作業が一筋縄ではいかないことは容易に想像できる。そのようにすぐれて厄介な多和田作品が英訳されるなら、英語にとってみれば、自分が英語のままではいられなくなるホメオティック遺伝子を体内にとりこんでしまったようなものだ。もちろん、他の作家の作品を英訳しても英語を内側から撹乱する効果はあるだろうが、まだ誰も見たことがない言語の姿を引き出すために、母語の外に出た状態(エクソフォニー)を創作上の戦略の一つとみなす多和田作品は、英語を、そして英語読者を慣れ親しんだ英語の外に旅立たせる効果において他の作家を上回る。非英語圏の作品に光を当てるだけでなく、英語に潜む非英語的な響きを積極的に聞き取ろうとして、英語そのものを生まれ変わらせる可能性を秘めた作品に賞を与えられたことは、賞にとって幸せだったように思えるのだ。

 それでは、『献灯使』の英訳_The Emissary_は実際にどのような姿で英語世界に飛び立ったのか平常心で検討してみよう。原作と英訳版の違いに着目し、両者の別様の豊かさを示すことで、英語以外の優れた作品の影響力を強めるという全米図書賞翻訳部門の目指すところにまた近づけるだろう。

日本語の言葉遊びを英訳して得られるもの、失われるもの

1. 「駆け落ち」──英語の言葉遊びを独自開発

 『献灯使』は鎖国状態の日本を舞台としており、外来語は徐々に使用されなくなってきている。そこではカタカナの言葉がなくなって別の言葉に置き換わるという事態が多く発生している。例えば、「ジョギング」という言葉が消えた代わりに、「駆け落ち」という言葉が使われるようになったという具合に。「ジョギング」に代わる言葉として「駆け落ち」が定着したのは、「駆ければ血圧が落ちる」という冗談で使われていた流行言葉がやがて定着したからだと説明されている(原作9ページ)。

 「ジョギング」は「駆け落ち」と呼ばれるようになった。それは「駆ければ血圧が落ちる」という冗談に由来する。この2文を英訳しようとすれば一筋縄ではいかない。ここで英訳者マーガレット満谷が選択したのは、英語流に掛け言葉を開発するという手法である。

 英語で「駆け落ち」は “elope” である。この “elope” という語の中には “lope” という語が含まれており、これは「大股でゆったりと駆ける」という意味がある。英訳版はこれを利用して、「”lope(駆ける)” に “e” を一文字加えるだけで “elope(駆け落ち)” になる」という趣旨の英語流の掛け言葉をつくって対処している(英訳版3-4ページ)。この英語流の掛け言葉については、大滝瓶太が「すべての翻訳は機械に代替されうるか──翻訳のクリエイティブとは」という記事で適切にかじりつくバジリスクしているように、訳者独自の高い創造性を備えた行為であり、機械翻訳では代替できないものである。言葉遊びに満ちた『献灯使』の英訳は、原作の意味を正確に英語読者に伝えるという作業にとどまらず、訳者による創作とも呼べる部分を含んでいるのだ。
 
 しかし、このように英訳者が高い創造性を発揮して英語流の掛け言葉をつくりなおすことには二つの問題がある。一つは、英語読者が違和感なく英語を読み進められることによって原作にあったはずの非英語圏流の言葉遣いや文化に触れられなくなってしまうという問題だ。あまりにも上手に英語流の言葉遊びを開発してしまうと、英語だけで自給自足できそうで、最初から英語で創作すれば良いような感覚に陥るかもしれない。もう一つは、作品の世界観とのそもそもの齟齬齟齬である。『献灯使』の中心的人物の義郎の母語は日本語で、彼の世代は第二言語として英語を学習したことがあるが、そのひ孫の無名の世代は英語を学習したことがないという設定である。英訳版がしたように、義郎が「無名の世代の子どもたちは、“lope(駆ける)” に “e” を一文字加えるだけで “elope(駆け落ち)” になることなど夢にも思うまい」という趣旨の想像をめぐらせる場合、裏を返せば、義郎の世代の日本の老人たちは “lope” と “elope” という英単語を常識的に知っていることになる。「駆け落ち」に相当する英単語を知っている英語学習者はどの程度いるのだろうか。なぜ義郎にはこれほど見事な英語の言葉遊びができるのだろうか。第二言語として英語を学んだと思われる老人の英語力を遥かに超えた英語の言葉遊びをつくってしまうと、作品の世界観と矛盾する場面が出てくるのだ。設定を守って訳さなければいけない点でも、『献灯使』は訳者を悩ませる。

2.「欠ける」「書ける」「欠け落ちる」──英訳版で強く印象づけられる放射能汚染

 もう一つ、原作の言葉遊びを創意工夫を凝らして英訳している箇所を紹介しよう。原作の23ページでは、歯が「欠ける」というセリフの抑揚が乱れて「書ける」という発音に近くなってしまったので「欠け落ちてしまった」と言いなおす場面がある。この言葉遊びを英語で全く同じように再現することはできないため、英訳版では、歯が “fall out(抜け落ちる)” というセリフが “fallout(放射性降下物)” という語に聞こえたかもしれないと思って “fell out(抜け落ちた)” と急いで言いなおすというものに変わっている(英訳版、16-17ページ)。

 原作の「欠ける」と「書ける」を、 “fall out” と “fallout” に英訳する。これはかなり大胆で創造性の高い翻訳である。『献灯使』は何らかの大災厄に見舞われて環境汚染が進んだ日本を舞台としているので、 “fallout(放射性降下物)” という語は作中に登場する人物たちに災厄の記憶を喚起するはずだ。放射能汚染を想起させる言葉をうっかり口にしてしまったようで慌てて他の言葉に言い換えるという英訳版には、原作にはない緊張感が漂っている。放射能汚染のことを軽々しく口にできないならば、英訳版の人々の心の傷は原作よりも深いのかもしれないし、もしかすると英訳版の日本政府の言論統制は原作よりも厳格なのかもしれない。英訳版は原作とは別様の豊かさを備えた作品に仕上がっていることがよくわかる場面だ。

 原作で「欠け落ちてしまった」と言いなおす部分についても、英訳版とは印象が変わる。というのも、「欠け落ち」の部分が先に紹介した「駆け落ち」と同じ響きを持つからである。原作では「ジョギング」が「駆け落ち」という語に置き換わっているという設定なので、ここでの「欠け落ちてしまった」には、「駆け落ちてしまった」、すなわち、「ジョギングしてしまった」という意味の響きが備わっているのだ。「駆け落ち」をめぐる言葉遊びを上手く英訳できたとしても、そこから離れたページで「欠け落ち」と韻を踏んでいる場合、これらを全て反映させた英訳は不可能ではないだろうか。

そして訳者は遊びだす──英訳版にだけ登場する言葉遊び

 英訳者が高い創造性を発揮するのは、日本語の言葉遊びを英訳するときだけではない。多和田葉子が言語の中に意外な響きを発見して言語を組み替えていく創作法を引き継いで、英訳者マーガレット満谷も英語で独自に遊ぶことがある。
 
 原作に以下のような会話がある。

「一度すべてを他者の目から見てみたいな。」
「他者?」
「いや、蛸です。蛸の目で見てみたいな。」(原作 21ページ)

この場面は英訳版では以下のように訳されている。

“I’d like to see everything from an optical point of view.”
“Optical?”
“No, I meant octopi. I want to see through the eyes of an octopus.” (英訳版 15ページ)

 この場面では、原作でさして言葉遊びとは意識されない部分で英訳者が独自に遊んでいることがわかる。英訳版は原作の意味をそのまま伝えずに、 “optical(目の・視覚の・光学的な)” という英単語を持ち出してきて “octopi (蛸の複数形)” と似た音の響きを生み出し、英語流の言葉遊びを新たにつくりだすことを優先している。英訳版は、これが英語試験の和文英訳ならありえない、言葉の意味に差がありすぎる、という仕上がりになっている。しかし、言語の響きから自由に思考を展開する多和田的創作法の「魂」を翻訳したと捉えるならばこの翻訳は大いに歓迎されうるだろう。翻訳とは、意味を正確に伝えるだけの作業ではないのだ(ここで「魂」という語を用いたが、オリジナル作品には「魂」も「調子」も存在せず、さらに言えば「オリジナル」というものすら存在しないという考え方についてはマシュー・レイノルズの『翻訳──訳すことのストラテジー』 84ページを参照のこと)。

 ただし、独自の言葉遊びを用いた英訳版が原作とどのように異なるのかを吟味する作業を忘れてはならない。そのような、比較検討という名の地殻変動を起こし、日本語によってつくりあげられた文学は英訳版とは別様の豊かさを備えていると伝えなければ、英語読者は英語だけあれば事足れりとトンボ返りしかねないからだ。先に述べたように、場合によっては英訳の充実は他言語の衰退を招くとも考えられる。実際のところ、原作の「他者」という言葉が “optical” と英訳されることによって大きな変化が生じていることを確認してみよう。

 原作では、「一度すべてを他者の目から見てみたいな」というセリフが否定され、「いや、蛸です。蛸の目で見てみたいな」と言いなおされている。これは「他者」という茫漠とした概念を退けて、ヒトではない具体的な生物種である「蛸」へと他者性を限定したことを意味している。無限の他者から有限の蛸への移行である。そもそもなぜ「蛸」なのかといえば、作品に登場する子どもたちの世代は体が弱く、動き方もかつての人間のそれとは違って蛸のような軟体動物を思わせるからだ。100歳を超えてもピンピンしている作中の老人世代には、子どもたちが同じ生物とは思えず、その体と心の感覚を理解できずにすれ違っている。したがって、この場面で義郎が「他者」ではなく「蛸」の目ですべてを見てみたいと述べていることは、グローバルな世界でのいつかどこかの他者ではなく、今の鎖国政策下の日本にいる曾孫の無名を、自分と同じ人間の枠にはめることなく理解したいという意味を持つ。さらに、文学や哲学の分野で「他者」が鍵概念として使われてきた歴史を考慮するならば、英訳版で「他者」にあたる語が失われることはこの場面の印象を大きく変えることになる。翻訳においてわずか一語の変更は、その一語が背負ってきた全ての歴史を変更することであり、少しだけ違うがすごい違う、のである。ただしこの違いは原作と英訳版の優劣を分けるものではなく、それぞれのバージョンは別様に豊かなのであって、マシュー・レイノルズが言うように、「あきらかまちがいではないかぎり、この多様性を楽しむべき」(レイノルズ 85ページ)ものである。

英訳には漢字を使い、かつ、新しい英語を大胆に生み出すべし

 さて、ここまでは多和田葉子の『献灯使』と、マーガレット満谷の手による英訳版_The Emissary_を比較して、言葉遊びに満ちたテクストが英訳者の高い創造性によって別様の豊かさを備えた別の作品に仕上がっていることを見てきた。原作と英訳版は別様に豊かなのであって、安易に優劣や正誤という指標で両者を測ることはできない。しかし、別の翻訳の可能性を考えることはできる。簡潔に言えば、英訳にもっと漢字を使っても良かったのではないか、そして、見たこともない新英語をもっと生み出しても良かったのではないかという二点について、ありえたかもしれぬ別の英訳を考えてみたい。

 英訳には漢字を使うべきである。この考えは、『ジャパンタイムズ』紙のインタビューでの多和田の発言を元に導かれたものである。以下に引用する。

全ての国はできる限り移民を受け入れる必要があると考えています。私は大都市で文化が混ざり合っている様子が好きです。しかし同時にある種の伝統を、例えば私たちの書記体系を真剣に考慮することが大切です。課題は、日本への移民全員に漢字3000字を覚えてもらわなくてはならないということです。(Kitakka, 12段落)

 文化や言語が混じり合うのは大いに結構だ。しかし、伝統の維持もまた真剣に考えねばならず、移民には漢字を覚えてもらう必要があると多和田は述べている。この考えを翻訳に応用するならば、日本語文学が他言語に翻訳される場合、日本語の表記システム(とりわけ漢字)を覚えてもらうような仕方で翻訳されねばならないということになる。迎えに行かない、こっちに来させるという翻訳である。

 グローバル化の波に飲まれて日本語がむやみやたらと壊されてはいけないという考えは、多和田のエッセイ集『エクソフォニー』でも展開されている。フランス語が、趨勢を誇る英語から身を守っているのに対して、日本語は「衝動買いのせいで狭くなってしまった混乱したアパートの一室のように不要な外来語に溢れている」(『エクソフォニー』 72ページ)と、多和田は指摘する。カタカナとして輸入されて日本語を破壊しやすいのは、商品名と商品を飾り立てる形容詞で、日本語は商品を売ろうとする消費主義に基づいて得体の知れない外来語に浸食されている。このとき多和田は、言葉が壊れていくこと自体を否定してはいない。しかし、言葉の壊れ方を「歴史の偶然にまかせておいてはいけない」し、芸術は芸術的に言葉を壊し、それでしか得られない言語の新たな生命を獲得すべきだと多和田は述べている(『エクソフォニー』 81ページ)。

 日本語はむやみやたらと壊されてはいけないし、移民には漢字を覚えてもらわねばならないという多和田の考えを、翻訳にも反映する方が好ましいのではないか。英訳版で使われた漢字はたった一文字(「蓼」)だが、漢字を使用するという選択肢を英訳者が持っていたのであれば、例えば原作において「蛸」と「鞘」という漢字の見た目の類似に言及する場面(原作 20ページ)の英訳においても漢字を提示する方が好ましかったように思える。多和田が日本語の書記体系(とりわけ漢字)を維持したいという書記衝動に突き動かされていることから、英訳版の読者に漢字を3000字覚えさせるような「つもり」で訳してもよいのではないだろうか。

 もう一つ、別の英訳版のあり方を想像する試みとして、これまでの英語にはない新しい英語をより多く生み出すことを考えてみたい。多和田作品ほど言葉遊びが豊かな作品を翻訳するならば訳者によって仕上がりは大きく変わるだろうと思われるが、マーガレット満谷の翻訳は存在しない語を新たに生み出すことにやや慎重な姿勢が窺える。例えば、原作で「形容帽子」(原作 19ページ)という見慣れない日本語が用いられる箇所は、英語でも不自然で違和感のある言葉があてられてよかったのだが、英訳版ではごく普通に「形容詞(adjectives)」という語が用いられている。原作の「形容帽子」という表現では「形容詞」という語の中に「帽子」が混入されているので、英語でも「形容詞(adjective)」の中に「帽子(cap)」を組み込んで “adjecaptive” としたり、あるいは “adjecap” という全く新しい英語を創り出してもよかったように思われる。原作120ページの「忘却炉」が英訳版103ページで “the furnace of oblivion(忘却の炉)” と訳された箇所についても同様に、「忘却」と「焼却炉」が掛け合わされた不思議な語感を表現するために “oblivion(忘却)” と “incinerator(焼却炉)” を組み合わせて “oblivinerator” のような新しい語を生み出す選択肢もあっただろう。原作で複合名詞的に創作された不思議な日本語に対して、満谷訳は “of” という前置詞に頼って説明的に処理して違和感を減じることが多いのだが、英訳でも違和感を残すようにただ不器用に名詞を並べたり、英単語どうしを無理やり融合させて全く新しい英語を創り出す魔術上等マーブルチョコな翻訳も考慮されてよいはずだ。日本語を意識的かつ芸術的に壊すことで日本語の豊かな生命を獲得することを志向する作品の英訳ならば、英語を意識的かつ芸術的に壊して生まれ変わらせるというおもてなしをしても構わないだろう(英訳版で新英語を生み出した例としては、原作の「忘却草」(64 ページ)を “forget-me-knotweeds”(英訳版 53ページ)と訳した箇所が挙げられる)。

日本語が英語をつくっている──翻訳という外交戦略

 『献灯使』と_The Emissary_。これら二つの作品の比較を通してあらためて気づかされるのは、翻訳行為が持っている外交や権力闘争の性質である。そして、その言語どうしの外交や権力闘争において重要な交渉カードとなるのが、言葉遊び、ダジャレ、漢字や仮名など日本語の書記体系である。

 言語創作において、言葉遊びやダジャレは関税のような役割を果たす。翻訳しづらい表現は他の言語に負担をかけ、それ相応の費用を支払わせることができる。日本語の言葉遊びやダジャレやナンセンスな表現の翻訳によって他の言語に無茶をさせ、意識的に壊して生まれ変わらせておくと、例えば「その英語、ネイティブならそうは言いません」などと言われても、「いえ、英語をつくっているのは日本語ですから」と言い返して英語ネイティブ信仰に抗うことが可能になる。正しい英語を提示されて従うだけの英語の真似じゃあ、英語のマネージャーどまりだ。この意味では、日本語で創作する人で英語に翻訳される人ほどダジャレを書いてもらう方が良い。ダジャレを書き、漢字から発想を飛ばし、全くナンセンスなことを言い、英語を英語のままでいられなくするよう揺さぶりをかけることで英語帝国のレゾンデートルに調整豆乳をかけてやるのだ。くだらないことを書いていないで普通のことを普通に読みやすく書けと要求する読者は、自国の作物がグローバル市場で安く買い叩かれることを容認してしまう。異様な言い回し、言葉遊び、難解な言葉を使いこなす人は外交官として有能で、日本語の利益を守っていると考えられる。翻訳者はそれに応えなくてはならない。日本語特有の表現や言葉遊びが翻訳で省略されたり、違和感なくスッと読めるように変えられてしまった場合は、関税なしで農作物を安く買い叩かれたり、他言語に対して「無血開城」と胸にプリントされたTシャツを着せられたりすることに等しいのだから。

参考資料

大滝瓶太「すべての翻訳は機械に代替されうるか──翻訳のクリエイティブとは」UNLEASH、2018年12月27日、2019年10月10日アクセス。

多和田葉子『エクソフォニー──母語の外へ出る旅』岩波書店、2012年。
---. 『献灯使』講談社、2017年。

マシュー・レイノルズ『翻訳──訳すことのストラテジー』、秋草俊一郎訳、白水社、2019年。

Kittaka, Louise George. “’The Emissary’: Power, Poison, Pain and Joy inside Its DNA.” The Japan Times, 4 Aug. 2018. Accessed 10 Oct. 2019.

Tawada, Yoko. The Emissary. Trans. Margaret Mitsutani. New Directions, 2018.

今回の執筆者

矢倉喬士(やぐら・たかし)
西南学院大学で現代アメリカ文学を研究。ドン・デリーロの作品を中心的に扱った博士論文を執筆後、小説、映画、グラフィック・ノベル、Netflixドラマなどを対象に現代アメリカを多角的に考察している。

矢倉喬士さんの過去の記事

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出版社の書肆侃侃房のウェブ連載「web侃づめ」です。 http://www.kankanbou.com/
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