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【緊急公開】犬養楓「第六波、救急救命の前線で」(短歌ムック「ねむらない樹」vol.8より)

ねむらない樹8

新型コロナ禍はいまだ収まらず、国内の感染者は累計400万人を超えました。オミクロン株の感染急増の影響で、感染者数は増え続けています。
 救急科専門医として日夜新型コロナ患者への対応にあたり、第二歌集『救命』を2月末に刊行予定の犬養楓さん。
 短歌ムック「ねむらない樹」vol.8に収録した原稿を緊急で公開します。

犬養楓「第六波、救急救命の前線で」

短歌ムック「ねむらない樹」vol.8より)


 今、第六波が全国に拡大している真っただ中であるが、ニュースで取り上げられない日常は淡々と進行している。メディアで取り上げられないことは、歴史に残らないことと等しくなって数十年が経つ。SNSの発達によりその潮流は少し変化が見られるようにはなっているが、私は残したい思いを書いた小さな付箋を時の流れの中に張り付ける作業を細々と行ってきた。
 この二年、三十一文字でコロナに揺れた医療現場を切り取ってきた。危険でカメラが入ることができないレッドゾーンの中枢にも三十一文字は踏み込んで現実を切り取ることができる。時系列に沿って、振り返ってみることとする。

速報は日々北上す前線の最多最多と桜のごとく   『前線』

 中国武漢で興きた感染症のニュースは当初はそれほど重要なものとして認識されることはなかったが、瞬く間に状況は変わる。国内で市中感染が起こり、第一波と呼ばれる二〇二〇年四月からの感染拡大では、感染者最多のテロップがニュース速報で連日流された。

更新の続くマニュアル確かめる昨日のYESは今日もYESか   『前線』

 教科書にない未知の病原体に対峙して、対応マニュアルが毎日のように変わった。患者や疑いのある患者が入院してきた時のフローチャートが、昨日YESであったものが今日はYESでなくなっていることもあり、現場での周知不足も相まって四六時中現場が混乱した。
 そしてさらに現場を不安にしたのは医療従事者に対する謂れのない誹謗であった。

世の中の風当たりにも耐えるよう防護ガウンを今日も着込んで   『前線』

 医療従事者の子どもを保育園に預けられないという問題や、バスから降りろと言われたりするという事象が報道されていた。

検診で体重落ちた医療人コロナ太りに比する言葉は   『前線』

 現場を仕切る上司はそのプレッシャーとストレスで、一年で白髪が一気に増え、体重も落ちた。
 その後何度も緊急事態宣言が出て、解除されるを繰り返した。

 私にとって短歌とは、現実を切り取るカメラであり、コロナ禍における医療従事者の声にならない声を伝えるための映写機であり、自分の心を癒し包む柔らかい椅子であった。感染の収まらない状況で現場の何もかもが逼迫して心が折れそうになる時に、短歌を詠むことでそのやりきれなさが少し報われる気がするのである。
 病床逼迫の際は家に帰ってテレビをつけても、映るのはコロナの感染状況を予想する専門家と医療従事者が奮闘する医療現場の映像であり、二十四時間、コロナウイルスのことで頭を埋められる感覚である。そこで語られるのは使命感の強い聖職者としての医療者である。しかし、私はそこまで強くない。時にテレビなどのメディアで放送される医療像が、プレッシャーになることがある。

使命感で続けられる強さなく 皆辞めないから辞めないでいる   『前線』

 結局のところ、使命感だけでは二年も続かない。コロナ対応のために増員された看護師は、コロナの患者がいなくなると病院から手の平を返されたように雑用を押し付けられるという。結局は医療従事者の多くが弱い存在であるのは疑いようのない事実なのである。
 歌集『前線』を通して、スポットライトを当てたかったのは、マイノリティとしての医療従事者である。コロナ禍に限らずではあるが、人間とは誰しも孤独な生き物である。コロナ禍の医療現場では患者は個室に隔離され、家族の面会も禁止となるなど一層そのことが際立っている。医療従事者も家族への感染を避け、ホテルや自家用車に滞在するなどの手段に頼る人が多くいた。患者も医療従事者も何かしらの孤独を感じているのである。
 そんな孤独を抱えた弱い人間としての医療従事者が、体も心も弱くなった患者さんという人間を救うその構造的な弱さは、このコロナ禍で浮かび上がった知られざる視点である。その視点は、今月末に刊行になる第二歌集『救命』でも引き続きフォーカスした。

気が付けば最後のドミノ寄り掛かる先がないまま潰されている   『救命』

疲弊することにも疲れたと言って看護師一人が病院を去る   『救命』

 その寂寥感を形にしておかないと、次の新興感染症によるパンデミックでも同じことが繰り返されることになるだろう。
 ただ、このパンデミックが終わって、いつも通りの日常が仮に始まったとしても、今回の騒動を振り返るほどの余裕がないことが、医療現場としては辛いところである。慢性的に多忙な医療現場は、振り返るよりも先に目の前の事態をまずは解決しなければならない。
 しかしそれは感謝しなければならないことである。我々は常に、するべきことにあふれており、そしてそのほとんどは我々にしかできないことである。それをすることで生活をしている。コロナ禍で多くのサービス業が休業を余儀なくされたことを考えれば、患者さんという医療サービスの相手が常に存在し、そこから多くの大切なことを学び続けることが出来たのは、ありがたく受け止めるべきことである。患者さんには教科書通りにはいかないことをいつも教えられる。未曾有の感染症といえど、過ちは許されないが、次に生かすことのできる悔いは医者を成長させる最たるものである。
 治療現場では常に選択があり、その選択の分だけ葛藤がある。
 拙著の小説『トリアージ』は、医療従事者のそのような心の葛藤を散文で書いた。約十三万字の作品だが、扱っているのは第三波から第四波である。『前線』『救命』は第一波から第六波までを範囲としている。
 それぞれに重なり合うテーマがあり、共通の事象を散文と韻文で捉えているというのは、文学史上稀なことなのではないかと思う。
 百年に一度と言われるこの禍に、散文と韻文が記録としてどのような役割を果たすのか、著者として非常に興味のあるところである。
 この『トリアージ』の舞台となるのは救命救急センターという特殊な場所である。幾つものドラマや映画で取り上げられたドラマチックな場所であることは間違いないが、それはまさに映画の中の話である。交通事故や災害などで負傷した患者を受け入れ治療するというイメージの救命センターだが、実際は高齢化が押し寄せている。
 そこでは救命と延命が紙一重で存在する。
 『トリアージ』の場面でも、主人公が救命と思ってやっていた医療行為が後になって延命治療に近い行為となっていたことを上級医から指摘される場面がある。『救命』の中にも同様の状況を詠った一首がある。

救命のことばかりではいけないよ 救命センター所属の医師は   『救命』

 救命センター所属の医師は、救命の正確さだけでなく、死の質と呼ばれる引き際の医療も身につけておかないといけないのである。高齢化社会を肌で感じる現場では、引き際のタイミングも常に頭の傍らで考えておかなくてはならないのである。しかし、どこまでやったら引き際になるのかは、経験を積んでもすんなりと身につくものではない。救命治療の挑戦と延命治療の回避に日々悩みながら、今日も一人また救命センターに患者が運ばれてくるという毎日なのである。コロナ禍であっても、それだけは変わらず続いている。そういう意味では、コロナ禍で一切が変わってしまったというところは、死亡確認の場面であろうか。

デジタルの時刻表示をちらり見て死亡宣告本人へする   『前線』

 感染症のため家族不在の臨終の場面で、死の三徴を確認して行う死亡宣告は誰の耳にも聞こえない医師の独り言である。最期のカルテ記載も同じく質素な記載になる。

午前〇時〇分死亡確認

 死亡確認の時間は必ずカルテに記載しなくてはならないが、他の医師はコロナ禍でなくとも事実の記載だけであるのでこのような質素な記載に留める人も多かった。ただ、私はコロナ禍以前の家族付き添いでの死亡確認であれば、いつもその状況をできるだけ文字を多くしてカルテに記載していた。
 例えば、

 家族大勢に見守られ午後〇時〇分、ご逝去された
 娘さんの到着後モニターフラットとなり、午前〇時〇分に死亡確
認をさせていただいた

 カルテに主観や文学的な表現を記載するのはよろしくないため、記載してもこのような感じになるのだが、寂しい最期とならなかったことを、公的な記録に残しておける最後の機会なので、そのように記載することを心掛けている。もちろん、亡くなった人のカルテを故人や家族が見ることなどないのだが、寂しい最期にならずに旅立ったことを、この世に記録として残しておきたいと思う物書きとしての矜持なのかもしれない。
 そういう心持ちの中での、コロナ禍での死亡確認である。面会叶わず家族不在の最期となってしまった患者さんも多くいらっしゃる。そういった場合の最後のカルテ記載はほとんどが、時刻の記載のみになる。
 だからなのであろうか、コロナ禍になってしみじみと思うのが「会える」ことの大切さである。

会わぬことの言い訳立った一年が会う理由さえ曖昧にして   『前線』 

会いに行く深い理由もないけれど会える日だから言うありがとう   『救命』

 私たちは普段の生活では、絶対に会わなければいけない理由など存在しない。会わない状況が続けば、もともとの会う理由などすぐに曖昧模糊になる。しかし、会えない状況が続くからこそ、ありがとうを言いに会いに行くことが大事なのである。
 現場では、第六波で面会制限が再び始まった。会えないことに医療者として寄り添いながら、会えることの大切さをこれからも歌に詠んでいきたい。


【著者プロフィール】
犬養楓(いぬかい・かえで)
1986年愛知県生まれ。18歳より短歌を始める。現在、救急科専門医として救命救急センターに勤務。cakesクリエイターコンテスト2020佳作。第63回短歌研究新人賞候補。2021年歌集『前線』、小説『トリアージ』刊行。近日、第二歌集『救命』を刊行。
note:tanka2020 Twitter:@tanka2020

犬養楓の著作

第二歌集『救命』 ★近刊

0121救命_書影_帯なし

四六判、並製、160ページ
定価:本体1500円+税
ISBN 978-4-86385-509-0C0092

明日それが延命治療になろうとも救命の灯を今日は消さない

歌集『前線』からわずかに一年。コロナはついに第六波を迎え、一人でも多くの救命を、と医療従事者の闘いはつづく。


第一歌集『前線』

0115前線_表紙

四六判、並製、144ページ
定価:本体1500円+税
ISBN978-4-86385-448-2 C0092

咽頭をぐいと拭った綿棒に百万人の死の炎(ほむら)見ゆ

救命救急医が新型コロナウイルス禍の現場から歌を届ける。この閉塞状況の中、すべての医療従事者とすべての名もなき人々のために。

小説『トリアージ』

0927トリアージ書影

四六判、並製、312ページ
定価:本体1,500円+税
ISBN978-4-86385-495-6 C0093

人の命に優先順位をつけることが許されるのだろうか? 歌集『前線』の犬養楓による、コロナ禍の医療現場の実態を赤裸々に描く初小説。現役救急科専門医が綴る「命」と向き合う苦悩の日々。

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