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【試し読み】大前粟生「狼」(『私と鰐と妹の部屋』より)

大前粟生「狼」

 知らないひとがマニキュアを塗っていて、においで頭痛がする。私とそのひとはホテルの脱衣所にいた。狼人間専用のホテルだ。今日は満月ではないけれど、ハイになりたい狼人間のために、視界の隅に疑似満月が見える眼鏡がフロントで無料配布されている。彼女はそれをつけている。私はなにも着用していない。さっき別室で、壁一面に油彩で描かれた写実的な満月を堪能してきたところだ。ひと通り呻いたり吠えたりしたあとなので、センチメンタルになっている。マニキュアのにおいが気に障る。
「ちょっと、迷惑なんですけどー」と私はいう。マニキュアの女は無視する。ハァハァいいながら、爪を塗るのに集中している。四分の一くらい狼な爪。長くて歪で、塗るのに集中力がいる。気持ちはわかるよ? 私もおしゃれしたい。でも、私は頭痛がしている。
「頭痛いんです」と素直にいってみた。「あ・た・ま、いたいんです」彼女は聞いていない。よく見ると、耳にイヤホンをつけている。私はカチンときた。風呂上りだけどひと暴れしてやろうかという気持ちになる。このホテルは床も壁も、備品もなにもかも頑丈にできている。そこかしこの壁に引っ搔き傷や血や唾の痕がついている。床の隅には硬い抜け毛が集まって丸いかたまりになっている。私は苛立ち、彼女の片耳からイヤホンを奪い取る。かしゃかしゃいってる。平井堅だ。彼女は平井堅を聴いている。私は平井堅の歌が大好きだった。途端に、親近感がわいてくる。私は彼女に謝る。イヤホンを奪い取るまでの経緯、頭痛がしていることをちゃんと説明する。
「あ、すいません」と彼女はいう。なんだ、いい子じゃないか。聞くと、出身校も私と同じらしい。え、まじ? じゃああの先生まだいる? あのサムライみたいなやつ。えー、なつかしいやばい。私たちは意気投合する。
「ねぇ、いいとこいかない?」と彼女がいう。「いいとこ?」「そう、最上階」最上階。噂でしか聞いたことがなかった。ウルフ・ガオガオ・ホテルの最上階には限りなく本物に近い精巧な満月が浮かんでいて、昼夜を問わずVIP客が表には出せないような騒ぎ方をしているらしい。「最上階! いくいくー」と私はいう。「でもなんで、あんたはいけるわけ? 親がすごい金持ちとか?」「まぁ、そんなもん」彼女の言い方に含みを感じる。きっと、もっとすごい身分なのだ。いまは、世を忍ぶ仮の姿なのかもしれない。だからあんまり友だちがいないのかもしれないと思って、この子にはよりフランクに接しようと私は決める。
「そういえば名前はなんてーの? 私はナナ」「えっ、わたしもナナだよ!」とナナはいう。私たちはうれしくてたまらなくなる。お互いの爪を絡ませあって、最上階に向かうエレベーターのなかでぴょんぴょん飛び跳ねる。ガオーン、特別仕様の効果音が鳴って扉が開く。最上階に着いた。と、
月の光がすぐさま私たちを貫く。な、なにこれ。本物の満月の光と同じじゃん。私たちの体はみるみる変形していく。背骨が、脚が、顎が、いろんな骨格が伸び、歯が尖って牙になる。このとき、虫歯を持っていたらひどいことになる。
 舌が長くてぺろぺろになり、腕がほとんど脚になって二本足で立つのがぎこちなくなる。筋肉が盛り上がり、灰茶色の剛毛が皮膚を突き破って生えに生える。そのあいだ、私たちは叫んでいる。拷問を受けているような声だ。やがて私たちの変身が完了する。
「さあって、なにする?」とナナがいう。さっきまでと違い、いまは掠れて低い、荒野みたいな声。私の声もそんな感じで、この最上階自体も、最高級の家具が荒野風にアレンジされている。他の階とはまるで別世界だ。いくつ部屋があるかわからない。そこかしこから喘ぎ声や叫び声が聞こえてくる。私たちはエントランスホールにいて、荒野風の大理石が私たちと月光を反射している。「きまってんじゃん、最高に楽しいことだよ」と私はいう。
 私たちは間合いを取っている。前足に体重をかけ、いまにでも踏み込みたい。「そうだね、きまってる。わたし、いつか、ナナみたいな子とこうするのを夢見てきた。必殺技だって考えてある」「ふふっ」私たちは待ちきれない。数秒後、相手に向かって駆け出し、爪を立て嚙みつき、とことんまで殺しあう。彼女のマニキュアを塗った、白と緑色の、丸くて愛らしい懐石料理みたいな爪がかがやいた。そのすぐあと、私の血が覆った。

大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)より

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