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第46回 ガールズ・パワーからホラーへ──クリステン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代の小説戦略(矢倉喬士)

 2016年の大統領選挙戦以降、「ポスト・トゥルース」「フェイクニュース」「オルタナファクト」といった語が飛び交うようになった。オックスフォード辞書が2016年を代表する一語に 「ポスト・トゥルース(post-truth)」 を選出したことについて、リー・マッキンタイア(Lee Mcintyre)はその著書『ポスト・トゥルース(Post-Truth)』(2018年、未邦訳)の中で、2015年から語の使用率が2000%も急増した事実に鑑みて妥当だと述べている (Mcintyre 1)。

 それでは「ポスト・トゥルース」とは何を示す語なのだろうか。千葉雅也は「ポスト・トゥルース」とは真理をめぐる諸解釈がなくなった後に揺らぐことのない事実と事実が衝突する状況だと『意味がない無意味』の中で述べている。

ポスト・トゥルースとは、ひとつの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えばそれは、別の世界同士の争いに他ならない。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。[. . .] そうなると、他者はすべて、別世界の住人である。(千葉 32)

 真理の後の時代には解釈が消滅し、世界と世界が争う。これは解釈が世界を貧困化及び委縮させることを危惧したスーザン・ソンタグの議論(『反解釈』 22-23)が徹底された状況と言えるかもしれない。

ポスト・トゥルース時代の解釈なき文学、「キャット・パーソン」

 「ポスト・トゥルース」時代に解釈は存在しない。これは文学研究にとって大変な事態である。テクストを読んでも解釈できない、あるいは解釈が生じないということだろうか。解釈が完全に失われるとまではいかないにしても、それに近い事例の一つとして2017年に発表されたクリステン・ルーペニアン(Kristen Roupenian)の短編「キャット・パーソン(“Cat Person”)」の受容状況を挙げることができる。

 「キャット・パーソン」は、2017年12月4日に『ニューヨーカー』誌のオンライン版に掲載されると、瞬く間に話題作となり、アメリカではツイッターでトレンド入りするほどの大反響を得た。以下にあらすじを簡単に説明しよう。20歳の女子大学生マーゴ(Margot)が、バイト先の映画館にやってきた30代の男性ロバート(Robert)と知り合ってスマホでメッセージをやりとりするようになる。その後交際に発展してロバートの家で性行為をする流れになるが、いざとなったときには相手に幻滅し、性行為を望んでいないことに気づく。しかし引っ込みがつかなくなってしまったマーゴはそのまま性行為に及ぶ。その後マーゴはロバートから距離をとろうとするが、ロバートの方はまだ好意を抱いており、連絡をとり続けようとしてくるのでマーゴは恐怖するという内容だ。

 「キャット・パーソン」がオンラインで発表された2017年12月当時は、その2か月前に起こった映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン(Harvey Weinstein)のセクハラ告発をきっかけに #MeToo 運動が加速し始めていた時期だった。勢いに乗る #MeToo 運動に共鳴するかのように「キャット・パーソン」は騒然の話題作となった。女性読者たちはマーゴと似た経験を言葉にして感情や経験を共有した。その後それに対抗するように、男性読者たちから反「キャット・パーソン」的な運動が現れた。一部の男性たちは、「男性キャラクターのロバートの方が被害者だ」、「女性キャラクターのマーゴは自意識過剰だ」とする否定的な意見をSNSに投稿し始め、それらは「Men React to Cat Person(@MenCatPerson)」というツイッターアカウントにまとめて晒されるようになった。「キャット・パーソン」に否定的な感想を述べている男性アカウントをまとめておけば女性が関わるべきでない有害な男性たちを一覧表示することができ、何らかの対処ができるというわけだ。その後「キャット・パーソン──ロバートが考えていた(であろう)こと(“Cat Person: What Robert (probably) thought”)」という作者不詳の二次創作がネットに出回り、本家の「キャット・パーソン」の公開から9日後にはBBCが公式にオンライン掲載するに至った。このロバート視点の二次創作ではロバートはネコが嫌いで実は「犬派(dog person)」だと書かれており、元の作品から想像しがたい別世界が展開されている部分も見受けられる。タイトルは「ドッグ・パーソン」とした方が気が利いていただろう。

 同じ作品を読んだはずなのに読者たちは全く別様の2作品を発見した。つまり、「女子大学生マーゴが被害者の作品」と「中年男性ロバートが被害者の作品」という別の2作品である。さらに、「ドッグ・パーソン」と呼ぶのがふさわしいとさえ思われる別バージョンが流通し、BBCオンライン版に作品が掲載されるに至った。そこでは読者どうしの解釈や意見の衝突があるというよりも、ある小説と別の小説(オルタナノベル)がただあるかのようだ。別の作品を見る者どうしは他人の意見に耳を傾たり自説を認めさせるよう議論したりせず、アカウントをブロックして別の事実(オルタナファクト)を生きる別世界の住人として互いに関わらないようにする。ここにおいて小説は、読者が意見を交わす待合室として機能することはなく、別の世界を生きる読者たちを分別する境界線あるいは壁として機能している。

 このような「キャット・パーソン」の受容状況は、千葉雅也が述べた「ポスト・トゥルース」状況を思わせる。「ポスト・トゥルース」状況では異なる解釈どうしが衝突するのではなく異なる事実どうしが衝突するという議論を文学に引きつけるならば、「ポスト・トゥルース」時代には小説をめぐって読者たちが互いに解釈を突き合わせるのではなく、ある小説(「キャット・パーソン」)と別の小説(「ドッグ・パーソン」)が衝突するのだ。

小説は「想定問答集」か「組み手」になる

 「ポスト・トゥルース」状況においては解釈が弱り、別の作品=世界どうしがただ存在する。言い換えれば、ファクトに対してオルタナファクトが提出されるのと同様に、ノベルに対してオルタナノベルが提出される。これについては村上春樹が川上未映子のインタビューに答えた『みみずくは黄昏に飛びたつ』 (2017年)が参考になる。

 村上は、ツイッターやフェイスブックでは反対意見を持つ人はすぐに何かを言い返し、世の中に有効に影響を与える見込みを欠いた不毛な争いが繰り返されていると言う。例として彼は南京大虐殺の問題に言及している。

南京大虐殺の問題を例にとると、否定する側には想定問答集みたいなものがあるわけです。こう言ったら、こう言い返す。こう言い返したら、今度はさらにまたこう言い返す。もうパターンがそっくり決まっているわけ。カンフー映画の組み手と同じで。(335)

 SNSにおいて言葉は「想定問答集」あるいは「カンフー映画の組み手」になり、パターン化された別の世界像の提示合戦が繰り広げられる。それは「純粋な消耗」であり、小説家はそれに関わるよりは違う戦い方をするべきだと村上は言う。

ところが、話を物語というパッケージに置き換えると、そういう想定問答集を超えることができるんです。向こうもなかなか有効には言い返せない。物語に対しては、あるいはそれこそイデアやメタファーに対しては、何を言い返していいのかよくわからないから、遠巻きに吠えるしかない。そういう意味で、物語というのは、こういう時代には逆にしぶとい力を持ってくるわけです。前近代の強みっていうか。もしそれが強く、「善き物語」であるのならということだけど。(335-36)

 村上はSNSで無際限に繰り広げられる「想定問答集」的で不毛な言語を超えられるように『騎士団長殺し』(2017年)を世に問うた。しかし、村上はSNSの使用者たちがあらゆる言語を「想定問答集」に落とし込もうとする力を甘く見ていたのかもしれない。「騎士団長殺し 南京大虐殺」などで検索すれば、村上の物語が「想定問答集」として消費され、不毛な争いが行われた形跡を見ることができる。2巻合わせて1000ページ以上の長さを持つ村上の小説でさえ南京大虐殺をキーワードとした「想定問答集」化し、別世界の提示合戦の一部を担い、別世界の住人たちの間を区切る境界線あるいは壁として機能したのだ。

#MeToo と微妙な距離を保つルーペニアン

 ここまでは「キャット・パーソン」と『騎士団長殺し』という2作品を例に、小説が何らかのキーワードをもとにした別世界の提示合戦を引き起こし、読者たちを別世界の住人として分別する境界線のように機能していることを見てきた。こうした状況では、小説家は物語作家というよりもあちら側とこちら側を隔てる仕分け人のような役割を担っている。それでは「キャット・パーソン」を書いたクリステン・ルーペニアンは、自作の受容状況をどのように感じたのだろうか。

 ルーペニアンは「キャット・パーソン」がオンライン公開された短編小説としては異例の注目を浴びたことについて、この作品を通して読者たちが思い描く作者像は自分と大きく乖離したものになるだろうと自覚していた。異性愛的関係において女性が経験するひどいデートやセックス体験を、SNSでの心理的駆け引きを組み込みながらリアリスティックに描き出す作家だと認識されたわけだが、ルーペニアン本人によれば彼女は「ホラー作家」なのだった。

人々は私のことを、自分では明らかにそんな作家ではないと思っているタイプの作家だと思い込むのだろうなとわかっていました。[. . .] 自分の頭の中では私はいつだってホラー作家としてやったきたのであって、ときにはリアリズムに介入することもありますが、それにしたって強くホラーに影響されたやり方で書いています。(Jones 11段落)

 ルーペニアンは、「キャット・パーソン」が #MeToo 運動の一環として多くの女性読者たちが日常を語るきっかけになったことを「完全に正当化しうるフィクションの使用方法(a perfectly justifiable use of fiction)」と述べて歓迎している。しかし、その後マーゴとロバートのどちらが真の犠牲者かという「想定問答集」的な論争が起こり、読者どうしを別世界の住人として分断したことについては、誰しもが強く明確な意見を持たなければならなくなるというインターネット上の会話が陥りがちな結末になってしまったと語っている (Daum 22段落)。「キャット・パーソン」を自分の経験を語るきっかけとして(読むというより)使用することは大いに結構だ。しかし作品解釈が弱った先に、「マーゴ良し、ロバートダメ “Margot good, Robert bad”」か「マーゴダメ、ロバート良し “Margot bad, Robert good”」の2択以外に読者の意見が出にくくなった作品受容の第二段階については快く思っていないようだ。

失われた解釈を取り戻す方法論としてのホラー

 「ポスト・トゥルース」時代には解釈が干上がり、小説は読者が解釈を持ち寄る待合室ではなく別世界の住人どうしを隔てる壁として使用されやすくなる。しかし、ルーペニアンは干上がってしまった解釈を回復させ、小説を壁から待合室に戻す方法を知っていた。「キャット・パーソン」を全く毛色の異なる他の作品と併せて短編集に収録し、違った形で世に再提出するという方法である。「キャット・パーソン」の爆発的ヒットによって、#MeToo文学の旗手あるいはSNS環境での心理的駆け引きを扱うリアリズム作家という自身が望まぬレッテルを貼られたルーペニアンは、読者の期待を裏切るというまさにホラー作家の本懐をもって応答する。

 ルーペニアンは短編集のタイトルからして大いに挑発的な姿勢を見せた。『これが欲しいんでしょ(You Know You Want This: Cat Person and Other Stories)』と題された2019年の短編集は、収録作の全てにおいて、望んでいたはずのものがグロテスクに姿を変えて恐怖をもたらすという展開が見られることからも明らかなように、作家は読者の欲望に沿う作品を書くわけではないという気概を感じさせる。この短編集の邦題は『キャット・パーソン』となっており、日本の読者にはこの短編集が大ヒット作の「キャット・パーソン」をすでに読んだ上で作者に何らかの幻想を抱いた者たちへの挑発的意味合いを持っていることは伝わりにくい。しかし訳者の鈴木潤は「訳者あとがき」にて、ルーペニアンが読者が抱いた期待や幻想を巧みに裏切っていることを適切に指摘している。

はたして、クリステン・ルーペニアンは「キャット・パーソン」がもたらした期待に応えられているのか。/ 誤解をおそれずに結論をいうと、ルーペニアンは期待を裏切った。少なくとも、フェミニズムのバイブルや、ほろにがくもおかしい “あるある” たっぷりのリアリズム作品集を想像していた読者の期待は。もちろん、 #MeToo の味つけがしてあるファニーな作品も、「キャット・パーソン」のB面ともいうべき作品も収められている。だがむしろルーペニアンの筆に力がこもるのは、サディズム、堕落、復讐、嫉妬といった、人間のダークな側面をえぐりだす瞬間だ。物語はときにホラー、スーパーナチュラル、マジックリアリズムの手法や、おとぎばなしの体裁を用いて描かれ、読み手の感覚を現実を超えた世界へといざなっていく。(鈴木 329-30)

 ここで鈴木が言うように、ルーペニアンはSNS環境での心理的駆け引きをリアリスティックに描く #MeToo 文学の担い手というイメージに留まらない作品群を描いている。アメリカからケニアの村にボランティアで訪れた青年が現地に伝わる「ナイト・ランナー」なる謎の存在に夜な夜な嫌がらせをされたり、ある国の王女がひびの入った鏡とへこんだバケツと古びた大腿骨を愛するようになったり、ある女性がどの職場にも一人はいるプレイボーイに嚙みつき続けて職を転々としたりする奇想天外な内容は、「キャット・パーソン」のような作品を期待した読者にとっては肩透かしであったかもしれない。しかし、それによってルーペニアンが読者の期待に応えられなかったとただ結論するのは早計である。鈴木が述べるように、読者の期待が幻滅に変わるまさにその過程が、ルーペニアンが得意とするような期待が幻滅へと変わるフィクション様式をメタ的に反復しているからだ(鈴木 330)。ルーペニアンは読者が期待していたような作家ではなかったのかもしれず、さらに言えば、ルーペニアン本人が自認するような「ホラー作家」だったのだと読者は次第に気づいていく。

“#MeToo (私も)” に捧げる、 “not yours (あなたのじゃない)”

 それでは、ルーペニアンがどのように「キャット・パーソン」以降に読者が抱いた期待を幻滅へと変え、干上がってしまった解釈を小説に取り戻したのかを見ていこう。今回は「キズ “Scarred”」という短編をとりあげる。というのも、収録された短編のうちで読者の期待には絶対に応えないという強い意志が最も強く打ち出されているのがこの作品だからである。

 「キズ」のあらすじを説明しよう。ある女性が図書館で見つけた魔術書にしたがって地下室にチョークで魔法陣を描き、欲望を具現化しようと試みる。すると裸の男が魔法陣から現れる。女性はその後1年以上にわたって男を地下室の魔法陣の中に監禁し、男に食事を与えたりナイフで全身に傷をつけたりしながら生活するうちに、これが自分の望んだものなのだろうかと自問する。やがて女性は意を決して男の胸にナイフを突き立てる。魔術書の導きに従えば、別の真実の愛を見つけられるだろうと信じて。

 欲望していたはずのものがグロテスクに姿を変え、こんなはずではなかったという結末をもたらすという「キズ」の内容は、短編集に収録された全ての作品に共通している。傷つかない人間関係などありえず、全てのコミュニケーションは刃物での斬りつけ合いであるというイメージもほぼ全作品に共通している。しかし、「キズ」が短編集の中でも異彩を放つのは、読者の読みを否定し、その想像力の誤りを指摘した上で初めから想像をやり直させるところまで読者の期待(幻想)を裏切ってみせる点である。

髪や瞳の色や顔の形を持ち出して彼の容姿を説明しても、きっとまるで的外れな印象になるだろう。なぜなら彼は、あたしの心の奥底の欲望が生ける人間として現れたものであって、あなたのじゃないから。だからどうか、あなた自身の裸の男を思い浮かべてほしい。でも、いちおうこれだけは言っておく──彼は想像なんかよりぜんぜんスゴくて、ずっとカンペキな体をしてた。これの全部が全部下ネタって受けとらないでよね。キュートな感じとか、線が細い感じとかはまったくなかった。天使っぽい感じだってぜんぜんなかった。というわけだから、もしそんなイメージを思い描こうとしてたんなら、はじめからやり直して。(原作171; 邦訳45を参考に一部改訳)

 小説を読む際、読者は自身の経験を頼りに小説世界をイメージしようと努める。しかしルーペニアンは、そのようなイメージは「まるで的外れ “all wrong”」だと作中人物に言わせている。「キズ」という短編に登場する裸の男は作中女性の欲望の具現化であり、「あなたのじゃない “not yours”」と読者を突き放してしまう。続けて、読者の想像にあれこれとダメ出しをした挙句に想像をやり直すように指示するが、裸の男は「想像よりもぜんぜんスゴくて」、想像をやり直したところで読者には到達できないと示唆される。読者の期待を裏切り、幻想を幻滅に変えるルーペニアンの本領が如何なく発揮されている部分だ。読者がルーペニアンの作品を共有可能な「あるあるエピソード」として消費したり、私にも似た経験があると語りたくなる欲望に対して、「あなたのじゃない “not yours”」という牽制的な言葉で応じている。作中キャラクターたちの欲望が裏切られるのと同様に、読者の欲望もまた思い通りにはならないのだ。

ハッシュタグを用いた政治的運動の功罪

 ルーペニアンの作品は、読者からの「私も」という声に対して「あなたのじゃない」と返答する。これはややもすれば #MeToo の運動に水を差すように思えるかもしれないが、実態はその逆であることはハッシュタグを用いた政治運動の研究を参照すれば容易に理解できる。

 ハッシュタグ研究の最重要書『ハッシュタグの政治学(Hashtag Politics)』(2015年、未邦訳) において、ネイサン・ランブッカナ(Nathan Rambukkana)は、ハッシュタグを「言説やコミュニケーションの新たなる体制の内にそれ自身を打ち立てる反体制的な句読法」(Rambukkana 29)と述べている。ハッシュタグはそれと共に提示される語句がそれまでにさほど注目されていなかったとしても注目に値するのだと主張する。そしてその新たなるキーワードを通して新たな言説やコミュニケーション環境を創出し、果ては体制や世界を更新する可能性を秘めている。このような反体制的な言説更新性を活用した運動が、#iranelection 、 #BlackLivesMatter#Ferguson 、#OccupyWallStreet 、 #MeToo 等であった。このとき、ハッシュタグを用いて成功を収めた運動ばかりを見ているとハッシュタグが持つ性質や動員力を過大評価してしまう恐れがある。実際にはほとんど誰にも知られることなくネットの海に消えていったハッシュタグの方が圧倒的に多いのだ。ハッシュタグを用いたどのような運動にせよ、初めは孤独に、これまで十全に注目されなかった語句は実は注目に値するのだと主張し、語句を通した新世界の夢想が夢想のまま終わるかもしれない中での賭けとして現れる。ハッシュタグを用いた運動に対してときおり為される、個人の声を失って画一的な意見しか存在しないという安直な批判は、世界への孤独なホラーとしてのみ現れうるハッシュタグの性質を理解していないのだと一旦は言わねばならない。

 ハッシュタグを用いた運動には大きな可能性が秘められているものの、負の作用もまた忘れてはならない。2019年に出版されたハッシュタグの研究書『ハッシュタグの理論(Theory of the Hashtag)』(未邦訳)においてアンドレアス・バーナード(Andreas Bernard)は、ハッシュタグを用いたいかなる運動もマーケティングやセルフプロモーションと表裏一体の関係にあり、人種差別や性的差別に対抗する運動でさえも例外ではないと述べている(Bernard 73-74)。ハッシュタグを用いた運動に乗じて自己の商品価値を高め、プロフィールや履歴書の上での象徴的資産を得て、ヴァーチャルな金銭を得た先にリアルな金銭を獲得することも可能なのだ。さらに、ハッシュタグを用いた運動がその達成せんとするところと真逆の勢力に利用されることもありうるとエリザベス・ロッシュ(Elizabeth Losh)は指摘している。インドにおけるハッシュタグを用いたフェミニズム運動を研究するロッシュは、何らかの理由で学校に行きづらくなった女性たちが再び学校に行けるよう自撮り画像を添えて互いを励ますハッシュタグ #selfies4schools がポルノ産業の情報源となっており、ハッシュタグを用いたフェミニズム運動がポルノ産業の餌食になる可能性を示唆している(Losh 16)。また、ハッシュタグを用いた運動ではやはり個人の声が軽視されがちで、自分はこの人とは違うと思いつつも同じハッシュタグの元に意見がまとめられてしまい、個人の声が十把一絡げに処理されることは否めない。極めつけに、ハッシュタグを用いた運動への参画者が増えれば増えるほど個人の声は一瞬でタイムラインから流されてしまい、運動が力を持つほどにかけがえのない個人はないがしろにされ、忘却されやすくなる(Bernard 77)という逆説にも注意すべきだろう。

ガールズ・パワーからホラーへ

 上記のようなハッシュタグを用いた政治的運動の功罪を見れば、ルーペニアンが #MeToo に対して微妙な距離を置き、2019年の短編集において安易な共感を拒んで読者の欲望を執拗に裏切ってみせた理由が明らかになる。ルーペニアンは、運動が力を持てば持つほど、共感者が増えれば増えるほどに、個人の声が軽視され、反対勢力に懐柔されやすくなり、運動が力を失っていくという逆説を捉えていたのだ。あるインタビューにおいて、ルーペニアンは10代の頃からフェミニズムに関心を持っていたが、誰もが「ガールズ・パワー!」とか「女の子には何だってできる!」と叫ぶ状況には乗り気がしなかったと述べている。それは大層素晴らしいことであると同時に嘘を含んでいるのだと彼女は言う(Brockes 10段落)。このようなルーペニアンの姿勢には、フェミニズムがある程度その目標を達成したように見えたことから生じたフェミニズム解体運動であり、女性どうしの連帯能力を奪う恐れのあるポスト・フェミニズムの観点からの批判が一旦は必要であろう。しかしながら、フェミニズムを一枚岩にせずアンチ勢力からの容易な懐柔を拒む上では、ルーペニアンのフェミニズムに対する両義的な姿勢は必要不可欠である。それは同時に、「ポスト・トゥルース」状況において解釈が干上がった結果として、「ああ言えばこう言う」式にいとも簡単にオルタナノベルが提出され、小説が不毛な「想定問答集」と化し、読者どうしを別世界の住人にする作用に対する小説家からの抵抗でもある。小説が読者どうしを隔てる境界線あるいは壁以外のものになれるのかは、人を動員して共感を誘うパワーに人を裏切るホラーを対置できるかどうか、作品が曖昧さと両義性を失わずにいられるかどうかにかかっている。失われた解釈を求めて。ルーペニアンが採った方策は、 #MeToo と話しかければ “not yours” と答える人のいるホラーであった。

参考資料

川上未映子、村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』、新潮社、2017年。

クリステン・ルーペニアン『キャット・パーソン』鈴木潤訳、集英社、2019年。

スーザン・ソンタグ『反解釈』高橋康也、出渕博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄訳、筑摩書房、1996年。

鈴木潤「訳者あとがき」、『キャット・パーソン』、クリステン・ルーペニアン、鈴木潤訳、集英社、2019年。325-33頁。

千葉雅也『意味がない無意味』、河出書房新社、2018年。

Bernard, Andreas. Theory of the Hashtag. Trans. Valentine A. Pakis. Polity, 2019.

Brockes, Emma. “Cat Person Author Kristen Roupenian: ‘Dating Is Caught up in Ego, Power and Control.’” The Irish Times, 28 Jan. 2019. Accessed 7 Feb. 2020.

“Cat Person: What Robert (Probably) Thought.” BBC, 13 Dec. 2017. Accessed 7 Feb. 2020.

Daum, Meghan. “The Lessons of ‘Cat Person.’” GEN, 21 Feb. 2019. Accessed 7 Feb. 2020.

Jones, Alice. “Kristen Roupenian on Cat Person: ‘I Wanted Writing to Save Me from My Garbage, Hard Life.’” JPIMedia P, 6 Sep. 2019. Accessed 7 Feb. 2020.

Losh, Elizabeth. “Hashtag Feminism and Twitter Activism in India.” Social Epistemology Review and Reply 3 (2014): 11-22.

McIntyre, Lee. Post-Truth. The MIT Press, 2018.

Rambukkana, Nathan. “From #Racefail to #Ferguson: The Digital Intimacies of Race-Activist Hashtag Politics.” Hashtag Politics: The Power and Politics of Discursive Networks, Ed. Nathan Rambukkana. Peter Lang, 2015. 29-46.

Roupenian, Kristen. You Know You Want This. Jonathan Cape, 2019.

今回の執筆者

矢倉喬士(やぐら・たかし)
西南学院大学で現代アメリカ文学を研究。ドン・デリーロの作品を中心的に扱った博士論文を執筆後、小説、映画、グラフィック・ノベル、Netflixドラマなどを対象に現代アメリカを多角的に考察している。

矢倉喬士さんの過去の記事

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