落ち度と動機と原因の違い

人々は原因という言葉を簡単に使いたがる。
原因が同じなら常に同じ結果になる。本来は、その場合にのみ原因と称すべきだ。
時に結果が異なるなら、それは原因ではなく、主観的な理由・口実・言訳・動機・根拠・条件・切欠・相関等と言った方が良い。さもなくば、あらゆる問題の原因を「結局、人間(or太陽)が存在するせい」にしてしまえる。これでは人は真の因果を見誤り、正しい対応を逸するばかりだろう。
被害者の「落ち度・非・欠陥・欠点・弱点・問題・油断・隙」も、その被害の「原因」ではない。落ち度云々を口実にした事が原因だからだ。被害者に如何なる落ち度etcがあっても、加害行為の原因は被害者にはない(論拠詳細は弊サイトをご参照)。

以下の引用は、三浦瑠麗氏。彼女は自分の解釈の結果をメディアのせいにしている。メディアリテラシーが低い証拠だ。

>「こういうことが起きて安倍さんが銃殺されましたということを、そのまま無批判に報じることが、ある種、安倍さんに責任の一端があるかのような印象操作になっている」

彼女が何を指して「無批判に報じている」としているのか不明だが、単に事の成り行きやいきさつを報じているだけなら「印象操作だ」は彼女自身の解釈の結果に過ぎない。
責任問題を論じる際には「何の責任か」を明確にしなければならない。
「銃撃した原因」ならば銃撃者本人(の妄想)にしかなく、安倍氏には「銃撃された原因」はない。原因がないので責任もない。
だがそれ以外の責任、例えば「カルトを賛辞した原因」は、彼自身が自由意志で選択した行為なので安倍氏自身にある。これが結果的には「容疑者の妄想を後押しし逆恨みや殺意の切欠、殺害の動機、襲撃の口実・理由・言訳を与えた原因」つまり「図らずも容疑者の妄想に加担した原因」になる。

>ある魅力的な女性が性的暴行を受けた場合、因果関係の1つとして「魅力」はあったとしても暴行の正当な動機ではないと例え話を交えて解説。「動機がそうであったということと、その動機になんらかの正統性があるかのような言い方をするというのは非常に分けて考えないといけない」

そもそも正当な動機がないから暴行というのだがそれはさておき、原因と動機は異なる(根拠は上述)という点で三浦氏の主張は正しい。
ここでも何を指して彼女が「正当性があるかのような言い方」と感じたかが不明だが、容疑者の生い立ちや境遇を報道することは殺害行為に正当性を与えない。
単なる事実の報道を「正当性があるように感じた」のなら、それは彼女自身の解釈の問題だ。己の解釈の結果を情報発信者側のせいにしてはいけない。この事は「安倍氏のビデオレターを見て殺害を決意した」のが山上容疑者個人の解釈の問題であることと同じである。

>「因果応報的な言説っていうのが選挙期間中もちらほらでてきた」とも話し「犯罪者に加担するもの。彼(容疑者)の妄想に加担してはいけない」

上記の通り、容疑者の妄想に加担したのは巡り巡って安倍氏自身だった。今更となっては後知恵に過ぎないが、「統一教会被害者の妄想に加担するような行為をしてはいけない」は生前の安倍氏に言うべきだった。三浦氏にはこの観点が欠けている。
生前の安倍氏は、まさか自分がそこまで恨まれているとは思ってもみなかっただろう。だが彼にもう少し人を見る目があれば、或いは弱者の声にもっと耳を傾け襟を正し己の行動を改めていれば、事件は未然防止できたかも知れない。
目線を変えれば、彼は己の行いの結果責任を、彼自身の命を以て果たしたと言える。これが因果応報の意味であり、自業自得、自縄自縛、身から出た錆、と言われる所以だ。
だが勿論、彼に落ち度はあってもそれは「殺された原因」ではない(根拠は上述)。彼が命を懸けて世に残した教訓を無駄にしてはいけない。「安倍氏は何の落ち度もないのに殺された」と思考停止していては、それこそ死者への冒涜になる。

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