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食べ物雑記

新東名高速道路が開通した。2012年の春である。

私が住む神奈川県を出発点に、静岡、愛知へと至る高速道路である。東京を経由していないからだろうか、この新東名が東名高速を淘汰し高速界の王者になる日が来るとは思っていない。

しかし、この高速にはささやかながら思い出がある。

そこで必要なのは2012年という開通年ではない。その数年前に行われた開通前の現場見学の日である。小学生だった私は、父と二人でまだ未完成の新東名を見学できるツアーに参加した。

汚れのない広大な道路に立つと、まるで空に浮かんでいるようで、まるで永遠に続く天国への道かのように思われた。

しかし、旅の最後、そんな感動が吹っ飛ぶような衝撃と出会う。それが棒コロである。文字通り、棒状のコロッケだ。どこで食べたのかは覚えていないが、その地の名物だといい、ツアーの中で購入する機会が与えられたのだ。

父が買ってくれたそれは、ツアーという非日常も相まって、人生で一番美味しい食べ物だと感じた。とにかくサクサクしている。そしてコロッケを手で頬張るという背徳感、特別感。父が買ってくれたという喜び。全て合わせて幼い少女は人生で一番だと感じたのだ。

月日が経って、棒コロの感動も薄れ、別に調べるでもなく、忘れかけていた記憶が急に蘇ったのは、大学2年生の時。

隣町にあるバイト先でのことだ。

そこに住むというバイト仲間との些細な会話で、なんと棒コロがこの街の名物であるということが発覚したのだ。

私は興奮気味に棒コロがいかに美味であったかということを語ると、バイト仲間は驚いた顔で「ここの小学校ではどこでも毎日のように棒コロが給食で出る。それが不味すぎて、市内の小学生が卒業式で最も喜んだのは棒コロとのお別れだ」と言った。


こうして、私の棒コロへの幻影は潰えた。美味しいと評判の名産品が、実際に食べてみたら大したことがなかった、という話はよくある。

しかし今回はなんとも珍しい、その逆である。

棒コロが「不味い」「隣町の小学校では給食で毎日のように出る」ことを知り、高尚な存在への信奉が壊れたのだ。

好きだった人が地元ではバイクを大音量で乗り回す迷惑ヤンキーであったかのような、謎めいていた思いびとのことを詳しく知ってしまった時の冷める感じというか、そんなものに似ているのだろうか。


しかし、そんな破滅があったからこそ、私は今棒コロを買って食べてみようか、本気で悩んでいる。

思い出だけにとどまらず、実感を伴って幻滅してしまうことを恐れると同時に、今の状態で棒コロを食べた私がどのような感想を抱くのかも気になる好奇心がある。

いっそこの際、もう思い残すことはない、と悟った老婆になるまで生きて、死ぬ間際に食べてみるのもいいかもしれない。

生き残しがない、最後の瞬間。棒コロで終わるのも悪くはないかもしれない。

それまで棒コロが大衆の市場から潰えることのないよう願う。


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