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「死の表彰と再生術」後編

展示後期は〝生前葬〟を開催し、これまでの歴史を3期に分けて、それぞれの時代毎の映像を空間に展開。

前半回顧展では「生まれから今まで」を一紡ぎの糸で表現し、全ての時間が繋がり、同時に全ての時間は過去に縛られていくものと抗うものであるとして、空間を作っていました。

それに対すると後半は潔い。

ポスターと映像と、少し美術や衣装があるだけです。
深く考えずとも、各時代のダイジェストを見ているだけでも何かしら感じられる仕組みで、それを見ながら生前のSAIの活躍を共に語り合うという内容になっていました。

終始この2週間は空間に「死にまつわるもの」が存在していました。

舞台衣装はもういなくなった人物の遺装です。(上演されない限り、使われない限り、ですが。)
ポスターは遺影であり、遺影展示の側面もあって、これら全てがどんどん空間を蝕んでいきました。

最終2日間で作った新作「再生術」は、作家の私的体験を戯曲化し、上演する事で肉体の声を伴ったその物語は作家の私的体験ではなくなるというもの。
私の身体を通り過ぎていった出来事を、私の身体を通して再生していったわけだ。
物語化された私的体験は「9割の真実と1割の嘘」という前提で語られ、すでにこれが1割の嘘の始まりを意味する。
劇中の体験はほとんど全てが真実であり、時系列や、過去の体験が組み替えられているところがフィクションです。

最後のよしひろくんの慟哭のようなモノローグは、戯曲の言葉か本人の言葉か錯覚するような曖昧さを持ちますが、ここに全てのフィクションが集約されていて、この私的体験が観ている誰かの過去や現実リンクすることに、意味を持たせた内容になっていました。

その交点こそが未来であると思うのです。 演劇は出会いであり旅であるのです。

この2週間の展示では「死と再生について」を徹底して見つめてきた。ここから先は「生きること」についてを問い続ける一ヶ月が待っている。

果たして果たして。

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