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夢中になれること、ありますか? ー なぜ私は空を飛ぶのか

体育の授業が嫌いだった。

誰かと競い合うスポーツで多く得点してしまうと、相手が悔しそうな顔をする。それを見るのが嫌いだった。負けるのが好きなわけでもなかったが、中途半端にプレイして勝てるほど器用じゃない私は、勝ち負けがある球技ではいつも負けた。足が早いわけでもなかった。鉄棒は手が痛くなるだけだった。器械体操は何のためにするか理解できなかった。

体育の時間は苦痛だった。部屋の中で本を読んだり、数学の問題を解いたり、パズルを解いたりしていたほうが、楽しかった。勉強はいい。誰かより良い成績をとっても、点数を隠していればバレないから。成績は「体育以外5」だった。つまり、理屈っぽくて運動神経の悪いやつだった。

そんな根暗で運動嫌いの私が、大人になってからパラグライダーにはまるなんて、その頃の私は夢にも思わなかった。

パラグライダースクールに通っていると、運動が得意な人と話す機会がある。彼らと話していると、「このひとは私と全く違う世界の出身なんだな!」と感じるエピソードがたくさんあって面白い。でも「学校の授業で楽しかったことなんてないよ! 楽しかったのは体育の時間くらいかな~」と、私と真逆の意見を聞いたときは、面白いと感じる以上に、体育に嫌な思い出しかない自分が劣った人間のように思えてちょっと落ち込んだ。

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私は、本を読んだり物事を考えたりするのが好きだった。読書は、良くも悪くも「ながら」作業がしやすい。私は本を読みながらスープを煮込んだり、音楽を聴いたりもすることも多い。

しかし読書を心底楽しんでいるときに「ながら」はできない。物語の世界に没入しているとスープを吹きこぼしてしまうし、複雑な理論をひとつひとつ読み砕いているとBGMの音楽は聞こえなくなってしまう。

だから、本当は「ながら」なんてしないほうがいい。何もかもを忘れて、のめり込める本を読む方がずっと楽しい。もしかすると私は、自分が読書にどれくらい夢中になっているかのバロメーターとして「ながら」をしているのかもしれない。全ての「ながら」が吹き飛ぶような良書と出会った時の喜びは、何ものにも変えられない。

そんな「夢中になる」感覚。現実に起きていることの全てを忘れて、本の世界にのめり込む感覚。現実世界を忘れて没頭しながらも「私は生きている!」と感じることができる、そんな時間を過ごすことができるから、私は読書が好きだ。

もちろん、人によって「夢中になる」ものは異なる。読書以外に、大好きな誰かと話しているときや、初めて触る楽器を演奏するときも、そんな感覚を抱くこともある。(私が苦手な)サッカーやバスケのような球技をプレイしているときこそが「夢中になる」時間のひともたくさんいる。それはそれでいい。でもそれは他人事で、私自身はスポーツに夢中になることはない。そう思っていた。

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パラグライダーの何が楽しいか?

空を飛ぶこと。風を感じること。自然のなかで遊ぶこと。それっぽいことは色々いえる。でも、私にとって大事なことが、ひとつある。

「夢中になれる」

私が空を飛ぶことに「夢中になる」きっかけは、ありきたりなものだ。家の近所の山をハイキングしていたら、パラグライダーで飛ぶ人々を見かけた。

その山は何度も行ったことがあり、山頂から100メートルほど降りたところに、見晴らしの良い斜面があることは知っていた。自然にできた斜面ではなく、人為的に切り取ったような形の斜面で、足場を整えるためのシートが敷かれてあった。ふつうの山にはない地形で、ちょっと気になる場所だった。

その日はそこに、中高年の男性が5人ほど集まっていた。低い里山には不釣り合いな大きな荷物を開けて、布でできた何かを広げていた。どうやら羽根型のもので、スカイスポーツの道具らしいことが読み取れた。道具を広げかけたが、手を止めて、空を眺め始めた。その様子を眺めていると、それに気づいた男性の1人が話しかけてきた。

「山登り?」
「はい。その道具で、ここから飛ぶんですか?」
「うん。歩いて下りるよりも、飛んで降りたほうが楽しいよ」
「飛べるんですか?」
「風がよければ、練習すれば、誰でも飛べるよ」

「風がよい」という言葉が何を意味するのか、その時の私にはよくわからなかった。でも、空を飛んで山を降りるという発想が面白かった。「誰でも飛べるよ」の「誰でも」には、運動神経ゼロの私も含まれるのだろうかと、少し興味を持った。

家に帰って一人になって、「歩いて下りるよりも飛んで降りたほうが楽しい」という言葉を反芻した。「確かにその通りだな」と思った。どんなものか試してみたくなって、パラグライダー体験レッスン+タンデム(二人乗り)フライトの予約をした。

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山の上から空を飛ぶタンデムフライトは「あっという間!」という表現がぴったりの、5分ほどの空飛び体験だった。夢みたいに一瞬だった。

白昼夢とは、ああいうものかもしれない。

体験レッスンは2〜3時間だった。こちらもあっという間に感じたが、もっと濃密な時間だった。

「ショートフライト」と言われる、小高い丘の上から、短い距離を飛ぶ練習をした。一人用のパラグライダーを装備して、インストラクターの指示に従って身体を動かす。風を受けたパラグライダーによって、自分の身体が上に持ち上げられ、小高い丘から飛び立って、数メートル浮遊したのちに地面に着地する。

やることは、すべて指示をもらえた。インストラクターの言葉通りに操作して離陸し、飛んでいる最中も言われる通りにグライダーをコントロールして方向を定め、狙った場所に着地する。指示された通りにすれば良いだけなのに、難しい。うまくできると、自分の身体が空中に浮かぶ。楽しい。

数時間、夢中に練習した。

体育が嫌いな私が、なぜあんなに夢中になったのだろう? 理由はいろいろ思いつく。初めての体験で新鮮だったから。身体が宙に浮かんでる間に操作ミスして怪我したら大変だから。自分の身体が浮かぶ感覚が新鮮だから。

でも、とにかく、楽しかった。風を感じるという非日常が。身体が空中に浮かぶ感覚が。そして「空を飛ぶ」という明確な目標に向かっていくことが。

パラグライダーを習い始めたら、目標がどんどん生まれた。

「一人で山の上から飛べるようになりたい」「インストラクターにあれこれ指示を貰わないでも、飛べるようになりたい」「スマートに離陸できるようになりたい」「風が強い時でも、離陸できるようになりたい」「できるだけ長い時間、飛んでいたい」「もっと長い距離を飛びたい」「山より高く上昇したい」「富士山の見える風景を飛びたい」「長野のアルプスを見ながら飛びたい」「美しい海の上を飛びたい」etc, etc...

夢中になって練習すると、目標を達成できる。できることが増える。次の目標ができる。練習すると、できることがもっと増える。そして、もっと夢中になる。幸せなサイクルがまわる。

現実に起きていることの全てを忘れてのめり込み、夢中になる。「私は生きている!」と感じることができる。本の中だけではなく、パラグライダーというスポーツを通して、「夢中になる」感覚を味わえる日が来るなんて、小さいころは夢にも思わなかった。

これを読んでいるあなたは今、どんなことに夢中になっているだろう。次の休みは、どんな楽しみがあるのだろう。

悲しいことや不安なこと、思うように行かないことも現実には沢山あるけれど、すべてを忘れて「夢中になる」時間をつくってみるのも、悪くない。

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3月23日:タイトル変更
10月4日:文章改訂、写真追加

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