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#25 佐伯胖「学びの構造」読書会

先ほど朝の学習会に参加してきました。
いつも色々なテーマで先生方と話をするのですが、今日は佐伯胖先生の「学びの構造」(東洋館出版社)の読書会でした。

初めは、お互いに気になった章や個所について話し合ったのですが、
本書p175~180の「学びのひろがりと高まりの諸段階」について、後半話題になり各々自分の授業実践と関連させながら話し合うことができました。

みなさんと話し合って自分のなかで整理できたことは…
・まず覚えるだけの学びがある(もちろんこれも大切)
・目的を相手から与えられての学びだとまだレベルとしては低い
・自分で興味・関心をもちながら、新しい視点で学ぶ
・新しい視点同士から生まれる矛盾に気づき始める(「わからないこと」が分かってくる)
・自分としての考えだけでなく、相手も納得する答えを考える

佐伯先生は「学びのひろがりと高まり」を大きく6段階に分けて書かれていましたが、もしかしたら人によって5段階だったり、12段階だったり、その段階のわけ方が違うのだろうなという所も話をしていて面白かったです。

(因みに自分は学びの段階は3段階くらいかなと思っています。「一般論」「反論」「自分の考え」といったように、3ステップで学びが深まっていくように感じます。)

そしてこの学びの段階の先に、何があるのかといえば、やはり「問い」という所に戻っていくなと感じました。

一度自分の中で答えが出たとしても、さらに「問い続ける」視点がないと新しい学びは生まれないだろうし、他の人との考えの違いにも気づけないと思います。
「問い続ける事」で学びはこれからもずっと、このステップや段階を繰り返していけるのだと思います。



また、お話をして面白かったのが、授業の個別、一斉の在り方についてです。
子ども一人ひとりが学び続けることが「授業」にあるとすれば、私たち教師がどのように授業をデザインするかということは大切です。

一斉か個別かといった二項の対立ではなく、やはりどんな学習形態でも、一人ひとりが「問い」をもって授業に参加すれば、「学びのうねり」みたいなものは生まれてくると思っています。

そのため授業形態以上に、教師自身が、子ども一人ひとりが、考えていることや疑問に思っていることをどのように、拾っていくかはものすごく大切ではないかと思います。

これは私の考えになりますが、「一人の問い」を取り上げるのではなく、いかに「みんなの問い」にするかが大切ではないかなと感じています。

子どもたちは一人ひとり違った考えをもって授業に臨んでいます。

ある子が国語(ごんぎつね)で「なぜごんは兵十の家に入って栗を置いたのだろう?僕はそこが気になった」という問いをもった時、それをクラスでみんなで考えてしまうと、せっかく考えた他の子の問いは意味がなくなってしまいます。

これは教師の「たずね方」の問題かもしれませんが、例えば…
「○○君はなぜ部屋に栗をもっていった場面が気になったみたいだよ、みんなはどの場面が気になったかな?理由も教えてね。」という問いにして返せば、みんなが考えるきっかけが生まれたり、○○君の問いがさらに深めていく視点が生まれたりするかもしれません。

授業では、興味、関心、問い、発見など全く「ばらばらの情報」がちりばめられていると思うのですが、それを教師がどのようにコーディネートしていくか(無数の針の穴に一本の糸を通すようなイメージです)が大切なんだよなと改めて思いました。

みんな興味や疑問はばらばらであって当然だけど、「今日はみんなで学んでよかったな」と思える授業をしたいと思いました。


今回この「学びの構造」を読みながら、「自分の学び方」について考える時間が楽しかったです。

昔はこの本を読んだ時は、
・書かれていること意味や文章のつながりばかり意識して読んでいました。
・次第に自分の実践や、教室の子どものことと合わせながら読むようになりました。
・最近は、なぜ一章が必要だったか?この本で扱われているテーマはいくつあるか?今自分が考えていることをどういう図にするとわかりやすいだろう?…など本を少しメタな視点で、構造的にで読むようになりました。

このように読書の仕方や、自分の考え方の質も変わっていくというのは面白いなと思います。

この学習会に参加すると、参加している先生方から刺激をもらうことももちろんですが、様々な教育の視点、様々な考え方があることに気づき、「自分の軸(教育観)」を問い直すことができます。

色々な考え方にふれることで、視点や、振れ幅広がっていくなかで、「自分が大切にしていきたいこと」も整理されていくので本当に勉強になります。

これからも学んでいきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。