声を上げることの大切さ

まず、お伝えしたいのが今回の僕のnoteが心理的に負担になってしまった当事者やご家族の方には大変申し訳なく思っています。
すみませんでした。
上記のことから、今後は文字にしていくときは気をつけないといけないなと感じています。
また、どうして心理的に負担に感じてしまうのかは後半部分に書きたいと思います。

そして、私が日頃から感謝していない人。
というコメントやリプがたくさんついていますが、そんなことはありません。
毎日介助してくれているヘルパーさんに感謝しているし、妻や息子にも感謝してありがとうの気持ちも伝えています。
公共交通機関の運転士さんや係員の皆さんにもお礼は伝えています。もちろん飲食店やその他のお店でも何かをしてもらったらありがとうと伝えているし、心から思っています。
私が前回の更新で発した「日頃からJRに感謝しているか」と書いたことで、感謝することを否定し"当たり前のサービスであるから感謝は必要ないだろ"と思っている人。と読み解かれたのかもしれませんが、それは違います。
どうしてそんなふうに解釈されたのでしょうか。
ありがとうの大切さを知らない障害者はいません。
僕らはその言葉が無ければ、みんなと同じように生きることができず、人間として見てもらえなかったから。知らないわけありません。


正直、ここまでツイッターでいろいろな意見をもらうとは思っていなく、ここにおいては完全に私の甘さだったなと感じています。
今まで講演等でお話しさせて頂く機会があっても(その際は丁寧に言葉を選んで話していますが、権利の部分は強調している)意見をもらうことはほとんどなかったので、それは講師というポジションに守られまたリアルな場なので本音が言えない。等々あって批判的な反応は少なかったのだなと思いました。
前回のnoteは「怒りを出す」「いち当事者が感じていることを知ってもらう」に重きを置いていたのですが、他方"障害者が日頃これだけの差別心にさらされて苦しんでいる…わかって欲しい"との願いも込めて書きましたが、ここが甘かった。伝わりませんでした…むしろ反感を買う形になりました。

健常者をコキ使っていいと思っているだろ!
と根拠なく言われました。
そんなこと一切思っていません。どうしてそのような解釈になるのか理解ができませんが、否定しておきます。違います。

伊是名さんと私は面識はなく、今回勝手に共感し、批判をしてくる人たちに向けてメッセージを発しました。
そうして私も攻撃の対象になりました。
初めていわゆる炎上を経験しました。
とても怖かったです。
日々心が固くなっていくのを感じ手先が冷えていきました。
投稿に対する批判なら良かったのですが、私のこれまでの思想や行動にまで言及されたり「電動車椅子って蹴ってもいいの?」という犯罪的なリプも飛んでいました。今でも手が震えます。

ですが、書いたことに全く後悔はしていません。

私が伝えたかったことは、伊是名さんの行動が批判されているのは、運動の歴史や世界を知らない方々にはあることなのかもしれませんが、
その批判の背景には
「配慮が必要な人(障害者や高齢者)は、与えられた範囲内で生きていて欲しい、もしそこを出て何かしたいのならきっちりと手順を踏んでほしい。手順も踏めない、感謝もできない人間が一生懸命に助けてあげた駅員やJRを槍玉にあげ批判するなんて言語道断、許されない行為だ。この非常識が!」
という意見が透けて見えるのです。
見えてしまうのです。
ここまで書いても「え?だって事前連絡や感謝することなんて当たり前でしょう」と思われると思います。
確かにそれはそうでしょう。
伊是名さんの行動は改善できたのかもしれません。
ですが、なぜ多くの人たちがそのように押し付けてくるのでしょうか。怒るのでしょうか。

1人の人が旅行の際にトラブルにあった。
困りごとをシェアした。

このことだけで、なぜそんなに怒るのでしょうか。
それはやはり
「障害者にはおとなしくいて欲しい。」
「生産性がないのだから、余計なことするな」
「運賃も割り引かれているくせに不当な要求しやがって」
との思いがあるからではないでしょうか。
"いや、それはかわさきの考えすぎだ、みんなJRや職員を守りたいという側面もある"との意見もあるでしょう。しかしこれは差別解消法の合理的配慮(努力義務ではあるが)の範疇であります。
確かに事前連絡をしていれば、よりスムーズに物事は進んだのかもしれません。
ですが、今回で考えうる配慮としては駅員さんの人力で持ち上げることしか解決方法がないため、結果的に人員は集めたでしょうし(先に言えば集めやすったのでしょうが、電話等で伝えてもこれはうまくいくない可能性が高いです。門前払いか、たらい回しにされた挙句、タクシー等の代替案提示。差別解消法や各地の条例を使おうと思えば事前の調査や電話連絡等でかなりの時間がかかる(これも正当な時間だろう?周りに迷惑をかけないために、と言われるのかもなぁ。障害者の時間はあなたの時間と同じように大切ではないのでしょうか)現地で交渉しないといけないこともあるのです。
こういった行動で可視化されることもあります。

先程の背景の話含めてこれらのことを障害者に求めること、求めないと気が済まない、勝手なことをする障害者のことを許せない、というのが医学モデルに基づく優生思想なのです。
私がこうして強い言葉で発信することに抵抗を覚える方もいます。「優生思想なんて、そんな大袈裟な、ありがとうと言えば済むことだし、先に連絡しておいたらいい。権利を訴える奴らはいつも被害妄想が強い」
でもどうしてそのように思うのでしょうか。

多くの人が、毎日仕事を頑張り家庭でも頑張り、理不尽なことを我慢し精一杯の中で生活をしていると思います。楽に生きている人なんてそうそういないですよね。理解しています。

我慢している人たちがたくさんいるから世の中は成り立っているのだ、という考えもあります。
自らが苦しいとそういう考えを持つことで、なんとか自分を保とうとします。そしてそこにも限界が来た時、他者を咎め攻撃したくなります
"なんでお前も我慢しないのか"と。
今回の一件は、社会の常識を盾にその常識から外れた行動をした結果、批判が起きました。
ですが、よく考えると常識から外れた行動ではなく、社会から障害者は爪弾きにされ、無いものとして扱われているからこのようなことが起こったのです。

声を上げるしかなかったのです。

声をあげたらいけなかったのでしょうか。

声を上げるだけで、なぜそんなに非難されないといけないのでしょうか。

あまりに息苦しい社会だと思いませんか。
私はとても息苦しくてたまりません。

相模原障害者殺傷事件のあと
「障害者は生産性がないから、犯罪行為は非難されるべきだけれど犯人の考えも理解はできる」という意見がネットを中心に高まりました。
あまりに怖く声を上げることができませんでした。
抵抗することができなかった。
当時の私は"自分にできることを続けて、なんとか健常者社会に順応し理解ある障害者だと思われよう"と心底で思ってしまっていた、思わないと生きていけなかったのかもしれません。
だって怖かったから。

でもこれ以上、こういった声に黙っているわけにはいかなかったのです。

批判された方々はこう思うのでしょうか。
「事前連絡や感謝の気持ちがあればよかっただけだよ、そんなに怒るなよ」と。
違うのです。その、そんなに怒るなよというメッセージは私たちに"いいから、そのままおとなしくしていろよ。おとなしくしていれば助けてやるのに"と聞こえてきてしまうのです。

差別のない社会が欲しいです。
それは大多数の人が、少数派の意見を受け入れて"あげる"社会ではありません。
誰もが認め合える、尊重しあえる社会です。
日本に住む多くの人もそう感じ考えていると思います。

どうして、なぜ、当たり前のことを主張した人が叩かれ声を出すことが恐ろしくなってしまうのか。
一人一人が胸に手を当てて考えて欲しい。
伊是名さんや私に、その刃を向けた方々には特に考えて欲しいです。
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最後に冒頭でお伝えした、なぜ当事者、家族、関係者の方からも批判が多かったのかというところです。
ここまでお読みになられた方は薄々気づいておられるかもしれません。
障害を持って生きている、また家族や近しい人に障害者がいると非常に肩身の狭い生活を強いられます。
現に僕がそうでしたし、これからも残念ながらそういった生活は続いていくのかもしれません。
そうして生きている中で、私たちは健常者社会で日頃特に不都合なく(ざっくりと書いています、健常者も大変なんだぞ!というコメントはここには適しません)
生活している人たちが、100ある選択肢の中から衣食住や遊興を選び人生を送っています。
しかし、私たち障害当事者やその家族は、100ある選択肢の中から20程を与えられその中から選び生活をしています。(わかりやすく例示としての数値です。)
もちろん20の中で楽しみ喜び、大切な人と笑顔を分かち合って生きていくことを私は否定しません。助けてもらえることに、感謝して人々の優しさに触れながら生きていくことも素晴らしいことです。私自身、そうして生きてきて楽しかったし、できることを精一杯していこうと思って過ごしていた時期がありました。
全く否定しません。
そしてこれらのことを感じながら過ごされている方に私のメッセージで、"生きにくさ"を与えてしまったのなら本意ではないですし、素直に謝りたい気持ちでいっぱいです。ごめんなさい。

他方、残りの80も私たちに本来あるべき選択肢なのです。障害があろうとなかろうと、みんなに与えられたものです。
行きたいところに行き、住みたい場所に住み、食べたいものを食べ、スタジアムの席を自由に選ぶ。
誰に遠慮もせず、していいことなんです。
今回のことで、私の強いメッセージが"嫌だな"と感じた方は80を求めてはいけないと思っているのかもしれません。もしくは求めるなら自助努力やごめんなさい、ありがとうございます、すみません、と謙らないといけないと思っているのかもしれません。
そんなことないです。
こういったことを、もっと優しく丁寧に伝えられるようにこれから精進します。


追伸
今回本当に恐ろしい思いをしました。ツイッターの特性もあるのかもしれませんが、こんなにも憎悪を向けられるとは思ってもみませんでした。
そんな中でも、シェアやコメントで応援してくださる方がいらっしゃいました。本当にありがとうございました。
良太さんは間違っていない!と背中を押してくださる皆さんがいなかったら、こうして言葉にすることも叶わなかったと思います。
また、表向きには怖くて声が出せない人もたくさんいました。
でも大丈夫。声はあげれる人があげればいい。
僕はいつでも矢面に立つ。泣きながらでも。
それが仲間を助けること。そして自分を救っていく唯一の道だから。

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