お金を稼ぐこと → 何かを犠牲にすること?
むかし京浜東北線の東十条行きに乗ったことがあります。
その列車は東十条行きではなく大宮行きだったのですが、車両内でわたしが立っている目の前に二人のサラリーマンが座っていて、右側のちょっと太めのおじさんが、ため息混じりに近況を同僚に話しているという「構図」でした(夜9時過ぎのこと)。
“このまえ家に帰ったら、リビングの間取りが変わってたの。なんていうの、バリ島のリゾート仕様みたいな椅子とテーブルに。オレが座ってたソファがなくなってて、一瞬なにこれ?と思っちゃったよ。”
わたしの目の前に座るこの人は、おそらく単身赴任中なのでしょう。
“でさ、上の娘が来年高校卒業で「卒業式は必ず出るから」って言ったら、「別に無理しなくていいよ」と、さらっと言われちゃった。”
なんだか辛そうです。
“この卒業式逃したら、おれの存在消えると思ったから「絶対出る」って言ってやったよ。”
それから目の前の二人は、仙台の支店の清算や人事考課の話や、持ち株会の掛け金の話に及んでいました。
“お前、あれだよ。自分のことATMって思ったことない?”
“いや、そこまで思ったことないけど。”
“オレはあるよ。つごう6年の単身赴任で、カネはそれなりに稼いだけど、やっぱり犠牲は大きいね。もしほかに選択肢があったらオレは絶対やってない。”
(誰にとっても)お金を稼ぐのは難しいことです。
といいますか、お金を多く稼ぐためには(そのぶん)自由や余裕を犠牲にしなくてはならない・・、それって辛く過酷なことかもしれません。
わたしは京浜東北線の列車の中で、サラリーマンの話を耳にしながら、かつてタイのバンコクに滞在していたことを思い出しました。
わたしは24歳時に、タイのバンコクに長期滞在していました。当時「カオサンストリート」と呼ばれるバックパッカー御用達の安宿街がありました。お金はないけれど、時間はあり余っている状態で、わたしはカオサンにたむろする外国人パッカーに交じって昼からビールばかり飲んでいました。
そのうち日本から来たノンさんと知り合いになりました(本名は知りません)。ノンさんは長らく大宮でお店(夜の店。バー?)をやっていて、そこを畳んで長めの旅に出た途上でした。
端正だった顔立ちが、伸ばし始めた髪や髭によって「世間から距離を置きつつある人」に変わっていったノンさん。
“夜の仕事って、キツいですよね。”
“きつかったね。相手はキチガイだからね。”
酒が入ると人は別人になる。
感情の起伏が増して、笑い声も怒鳴り声も(そして泣き声も)みんな倍になるんだ。とノンさんは言っていました。
“人が寝てる間にあくせく働いてひと財産作ったけど、腰も膝も首もおかしくなっちゃって、自分が消耗した分量と稼いだカネを比べたら、割に合わないんじゃないかな。”
(その後ノンさんは、バンコクのスクンビット通りで日本人相手のカラオケ店を開かれたと聞きました)。
誰にとってもお金を稼ぐことは必要です(それは生きる糧ですから)。しかし、ふと振り返ったときに「これほど稼がないとダメなの?」という根本理由を、問い直してみる価値はあるかもしれません。
稼ぐ分量はたいてい、使う分量によって自動的に決められたりしますから。今の形で稼がないといけない。に縛り付けているのは、他ならぬ「じぶん」であったりします。
私たちは今の肩書きや職業や、世の中での評判や、クルマや持ち家やスマホに執着しますが、天変地異が起こり、ただその環境に必死に適応して生き抜くことになれば、なんとなくても生きていけるのが人という生き物です。
何かを犠牲にしてまで(より多くの)お金を得ることに意味はあるのか。これは一度考えてみたい宿題ではあります。