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BMW 325iカブリオレ(1987年型)29年21万9000km

10年10万kmストーリー 第4回

こだわりがないのが私のこだわりなんですよ


 広告業界に才能が集まっていた時代があった。
 僕が大学生の頃には、それまで黒子的な存在だったコピーライターに注目が集まり始めた。ウディ・アレンに筆を持たせ、「おいしい生活」と書かせたパルコの宣伝がもてはやされた。
 それまでの言語的な常識から、“生活”を修飾するのに“おいしい”はふさわしくないのだけれども、それをつなげてコピーとしたのは糸井重里のセンスと能力の現れだったし、当時の日本人はそれを新鮮なものとして受け入れた。
 他にも川崎徹や仲畑貴志など多くのコピーライターたちが広告業界の枠を飛び越えて文化人としてもてはやされていた。
 コピーライターの以前はカメラマンやアートディレクター、その前はデザイナーが有名になっていっていた。それぞれ専門職として広告業界の内的な存在だったのが、業界外には仕事と名前が知れ渡り、時代の寵児として躍り出てきていたのだ。

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 現在、BMW325iカブリオレに29年21万9000km乗り続けている天野眞仁さん(64歳)は、カメラマンが注目を集め始めた頃のことをよく憶えている。
「加納典明さんがボルボのP1800ESに乗っていて、“オシャレだなぁ”って見とれていました」
 もともとカメラが好きで、中学校では写真部に所属していた。写真の短期大学を卒業すると制作会社にカメラマンアシスタントとして入社し、その後早くも23歳で広告カメラマンとして独立を果たした。
 当時は、もちろんデジタルではなくフィルムを使うアナログ撮影だ。レンズやカメラなども現代のものよりも大きく重く、フィルムが嵩張った。だから、クルマは必需品だった。
 天野さんは父親からもらったトヨタ・スプリンターに乗っていたが、ローンを組んでホンダ・アコードを買った。初代ハッチバックのEXグレードだ。
「知り合いがシビックに乗っていて、“ホンダのクルマって他のメーカーと違うよな”って、シンパシーを感じていました」
 確かに、その頃のシビックとアコードはカッコ良かった。ホンダ以外の日本車の内外のデザインがまだまだアメリカ車の影響を強く受けたものであるのに対して、両車はヨーロッパ車そのものだった。シンプルでクリーンな造形と配色、素材使いなどが知性的だった。
「CVCCというホンダ独自のエンジン技術で世界の排ガス規制をいち早くクリアしたという企業の姿勢にも惹かれるものがありました」
 ホンダとは縁ができて、天野さんは創業者の本田宗一郎を撮影したこともあった。
 仕事は順調に広がっていった。乳製品や腕時計などの商品撮影から始まり、製鉄会社の新工場を着工から竣工まで撮影したり、原子力発電所のメインテナンスの工程を同行撮影したりもした。
「普通ではなかなか体験できないような撮影もたくさんさせてもらいました。面白い商売でした」
 アコードには5年乗り、日産ガゼールに乗り換え、数年後に同じディーラーでサンタナに買い換えた。
 3台には何の脈絡も見当たらない。
「こだわりがないのが私のこだわりなんですよ。ハハハハハハッ」
 この人懐こい笑顔が、どんな撮影現場でもスタッフやクライアントたちの雰囲気も和ませてきたのだろう。

DSC_0138のコピー


 サンタナに数年乗った後に1987年に、クライアントからBMWのセールスマンを紹介された。
「新車ならば700万円する325iカブリオレですが、わずか1200kmしか走っていなくて570万円のクルマがあります。いかがでしょうか?」
 バブルの熱気が日増しに沸騰していく時代だった。売れっ子の広告カメラマンならばポンッと買ってくれるかもしれないとセールスマンに見込まれたのだろう。
 古くからのカーマニアではない普通の人々がヨーロッパのクルマに乗る姿が目立つようになった。
「六本木のカローラ」とジョーク交じりに語られるほど、BMW3シリーズやサーブ900、ボルボ240などは急速に街で見掛けるようになった。
「高校生の頃に、親戚がBMW2002に乗っていたんです。2002はカッコ良かったし、私はランチア・フルヴィアのような3ボックス型のコンパクトでスポーティなクルマが好きなのですね」
 1989年に追加購入したのが、トヨタ・ハイエース。いよいよバブルも絶頂。天野さんも代官山にスタジオを構え、アシスタントを数人雇うほど忙しくしていた。
 機材を大量に積み込むことができるので、スタジオやロケーション撮影の際に活躍した。意外だったのが、ゴルフ仲間からの好評ぶりだった。
「運転席と助手席の間に飲み物用の冷温蔵庫があったのですが、これが評判良かったんですね。シャンデリアもウケていました」
 3年ごとに5台を乗り継いだ。
「でも、モデルチェンジのたびに装備が簡素化されていったのが不満でした。温冷蔵庫が3台目からオプションにも設定されなくなってしまったのですから」
 ハイエースの使い勝手の良さから、325iカブリオレは休んでいることの方が長かった。89年には長女が生まれ、妻からも荷物の多くなる帰省時のハイエースを強くリクエストされていった。

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 325iカブリオレの走行距離は割と一定していて、年間約6000kmほどだった。それが、一気に1.5倍増のペースに上がったのが2005年だった。カメラマンを引退し、ハイエースを処分したからだ。所有するクルマは一台となって、それですべてをやりくりするようになったら年間約9000km走るようになった。
 引退の理由は、視力の衰えである。商品撮影ではスタジオ内で強い照明を用いて、細部までピントが合っているかどうか確認する撮影が連続するから眼に大きな負担を掛ける。
 天野さんが自分のスタジオを畳むと、テレビCMの編集会社に迎えられ、現在は常務を務めている。
「縁のない業界でしたが、同じ広告の世界ということでカメラマン時代の交遊や経験が役立っています」
 325iカブリオレの助手席に乗せてもらった。
 29年前の3シリーズなのでボディは小さいが、車内はそれを感じさせない。首都高速に乗ったが、エンジンもトランスミッションも快調だ。
「“このトランスミッションは遅かれ早かれ必ず壊れるから”とオドされていたのですが、何も起きていません」
 この頃のBMWをはじめとするヨーロッパ社に搭載されていた、ZF社製の4HP型は変速しても一瞬の間が生じたりシフトショックが大きくなったりする症状があることが有名で、僕も自分のクルマで体験していた。
「29年前と性能は、まったく変わらないのに驚きます」
 しかし、トラブルがまったくなかったわけではない。エアコンが10年間直らずに困っていた。つねに車内が湿っていて、助手席の足元が濡れている。エアコンを作動させても窓ガラスの曇りが取れなかった。
「結局、ドレーンパイプにゴミが詰まって水が車外に排出されず、車内に垂れていたことがわかるのに10年掛かってしまいました」
 水に祟れているようで、タイヤハウス内への原因不明の水漏れにも悩まされていた時期もあった。
 しかし、帰宅途中にオルタネーターが故障してエンジンがストップしてしまったことが一度あった以外に大きなトラブルには遭っていない。
「今が一番快調かもしれませんね」
 確かに、そんな感じは伺える。
 お台場に停めて、幌を開けた。幌は3回変えている。1回目は駐車中にイタズラでナイフで切り裂かれ、2回目と3回目はリアウインドが白んで視界が妨げられるので交換した。
「開閉は問題なく行えるのですが、閉める時に手を添えてあげないときれいに折れなくなってしまいました」
 ボディが小さく、幌を収納する空間があるにもかかわらず、トランクが広大なのもよくわかった。
「愛着しかありません。もう手放せませんね」
 今までのクルマは数年で乗り換えてきたが、325iカブリオレだけは例外的に乗り続けてきた。乗用車としての実力の高さは大前提にあるとして、ハイエースの活躍や故障の少なさなどいくつかの要因によって29年21万9000kmあまり乗り続けることになった。
 必ずしも強い自覚を以って乗り続けたわけではないが、“こだわりのないところが私のこだわり”と言う通り、かえってそれが幸いしたのかもしれない。そして、それはそのまま天野さんの仕事に向き合ってきた姿勢を反映しているように僕には思えた。325iカブリオレは、言葉通りにこれからも乗り続けられていくのだろう。

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「10年10万キロストーリー」「ユーラシア横断1万5000キロ」のキロキロ・モータリングライター金子浩久の投稿を平置き。

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