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ハードトップに恋をして

メルセデス・ベンツ 250SE クーペ(1968年型)


 自動車の進化と発展は、各種の規制や法律などの強化と表裏一体で進んできた。排ガス中の有害成分が減ったり、安全性が高まったのは最も喜ばしいことだったが、そうではないものもあった。
 ハードトップというボディ形式がほぼ全滅してしまったのは寂しい限りだ。転覆時の車内空間を確保するための安全規制が強まったから仕方ないのだが。
 ハードトップはソフトトップと対になる概念とボディ形式だから、Bピラーが存在しない。では、ソフトトップの“間に合わせ”的な存在かというとそうでもない。ハードトップ車のリアシートに乗ったことがある人ならばわかるのだが、開放感が素晴らしいのだ。
 こんにちでは当たり前となったBピラーが存在するクルマのリアシートに座ると、Bピラーに視界を大きく遮られてしまい、閉所感が強い。しかし、ハードトップではBピラーが存在しないので、外が良く見える。閉所感もなく、左右どちらの車外も同時に眼に入ってくる。こんなに良いものだったら無くさなくても良かったのではと悔やまれてくる。
 かつては、トヨタだけでもハードトップはカローラからクラウンまでほぼすべての車種に用意されていた。今は、ゼロ。僕が知っている限りで存在しているのは、メルセデス・ベンツSクラスクーペだけだ。Sクラスクーペのリアシートに座ると、このクルマの特等席はここなのではないかと、ほくそ笑んだりしているほど僕はハードトップ好きになった。

 山梨県山梨市に在住の五味巳己夫さん(77歳)も、ハードトップだから1968年型のメルセデス・ベンツ250SEクーペを購入した。購入したのは、いまから12年前のことだった。
「仕事から引退して自由になる時間ができたから、“これからはノンビリと古いクルマでも楽しむか”と探していた時に見付けたんです」
 勤めていた市役所を定年退職し、その後もいくつかの企業に勤めてきた。クルマは若い頃から好きで、フォルクスワーゲン・ビートルから始まり、日本車やドイツ車を15、6台乗り継いできた。現在も、メルセデス・ベンツSLKとスズキ・カプチーノなども持っている。
「250SEシリーズではセダンも造られましたが、セダンだったら私は買っていませんでしたね。それだけ、このクーペは魅力的です」
 同じ市内の中古車店で見掛けたが、売り物ではなかった。店主が個人的に乗るつもりのものだから、と最初は断られた。
「後ろ姿の美しさに惚れたね」
 しかし、五味さんは諦め切れず、店に通って交渉を続け、最終的に譲ってもらうことに成功した。
 五味さんは慎しみ深いから、購入価格を教えてくれない。僕が「800万円ぐらいでしたか?」と具体的な金額を提示しても、微笑むばかりだ。
 購入した時には、すでにエンジンや機関部分などは前オーナーによって修理が完了していた。ボディとインテリアは大幅な修復が必要だったので、そのまま店に依頼した。傷があったフロントウインドウを交換し、ホイールアーチのリップを4枚すべて交換した。
「いちばん力を入れたのは、インテリアです」
 シートとドア内張りの革を張り替え、内部も修復した。ウッドのダッシュボードもすべて取り外し、新しく製作したものを嵌め込んである。その作業には1年近くを要した。
「これを造れる業者がなかなか見付からなくて、最終的には大阪の建具業者に発注しました」
 その仕上がりはとても上々で、外観だけでなく掛け心地も極上だ。
 レストアが完了してから、五味さんは山形、糸魚川、金沢など遠くのクラシックカーイベントに積極的に参加し、各地の愛好家たちと交流を深めた。僕と出会ったのも、東京お台場でのイベントだった。
「いろいろな人たちと知り合って、話せるのが楽しいですね。カネコさんとも、こうしてお付き合いが始められたわけですから」
 他所のイベントに参加するだけでなく、五味さんは4年前に7名の地元の仲間たちと「山梨旧車倶楽部」というクラシックカーのクラブを設立した。今年も、5月末にイベントを行う予定だ。

 肝腎のリアシートに座らせてもらい、4枚のウインドウガラスをすべて下ろした。
 素晴らしい!
 なんという開放感だろう。Bピラーがないから、すべてが見える。遠くに聳える甲斐連山の山々がパノラマで迫ってくる。鉄の屋根が付いているけれども、コンバーチブルにも劣らない開放感だ。風の巻き込みや直射日光などを避けられる分、コンバーチブルよりも純粋に景色を楽しめるかもしれない。つくづく、ハードトップが恋しくなってしまった。
「良かったら、運転してみませんか?」
 ありがたいことに、250SEクーペを走らせても構わないのだという。なんて太っ腹なのだろう。
 クロームメッキされたドアハンドルを握り、親指でボタンを押してドアを開けて乗り込んだ。ドアが分厚く、閉めた感触は重厚そのものだ。
 径が大きく、握りの細いハンドルを確かめ、コラムシフトのシフトレバーを手前に引いて“D”モードに入れる。アクセルペダルを踏み込んで公園の周遊道路に、250SEクーペはゆったりと走り出した。ハンドルを回すと、250SEは大きくロールしながらコーナリングを繰り返す。ブレーキも良く効いて、不安感はない。船を操縦しているような感じだ。

「カネコさんは、このクルマが少し大き過ぎると感じませんか?」
 公園の空いた道を走っているからか、大き過ぎるとは感じない。現代には、もっと大きなクルマがたくさんある。
「私には、ちょっと大き過ぎるように感じられることが最近増えてきているのですよ」
 ご自宅の周辺は細い道が多いし、市内が渋滞した時には往生してしまう。確かにその通りだろう。
「もっと扱いやすいサイズのものに換えようかなとも考えているんです」
 たとえば、どんなクルマですか?
「同じメルセデスだったら280SLですか。トライアンフのTR4や5なども良いですね。TR3はなかなか見付からないでしょうね。ヒーレーもいいですね」
 1960年代にルーツを持つ、もうひと回り小さなサイズのコンバーチブルたちだ。いい考えだと思う。
「でも、これを手放すのも惜しくてね。ウエスタンの正規輸入車ですからね」
 ウエスタンというのはウエスタン自動車のことで、メルセデス・ベンツジャパンが設立されるまで日本での正規輸入元だった会社だ。そのプラックもエンジンルーム内に貼られている。
「正規輸入車は30台だけだと、メルセデス・ベンツベテランカークラブのメンバーに教わりました」
 たしかに悩ましい。五味さんは77歳だけれども、とてもお元気で、運転もしっかりしている。でも、ご本人が250SEの大きさを鬱陶しく感じているのならば、乗り換えるのも良いアイデアだろう。
 非常に貴重なクルマであることは間違いないし、コンディションも上々だ。五味さんは、仮に自分が手放してしまった後のことも心配している。
「このクルマをキチンと後世に伝えられる人に受け継いでもらえれば良いのですが……」
 つまり、250SEクーペは五味さんが所有しているのだけれども、それはあくまでも一時的に“預かっている”だけだというのである。「大袈裟ではなく、人類全体の産業遺産であり、文化遺産であるわけですから、誰に引き継いでもらうかは大事な判断になります」
 その通りだ。250SEクーペはメルセデス・ベンツが今日の隆盛を築く礎のひとつとなった重要なシリーズの中の貴重なクーペである。ハードトップという、現代では稀になってしまったボディ形式だけでなく、珍重されて然るべき一台なのである。

文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho(STUDIO VERTICAL)

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)
文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
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