生きる事は消費する事なのか

生きることは消費することである。
という前提をもとに、多くの産業が作られ、作られたものを消費してきた。

あなたは何を生産できるか?
この問いを言われた時に現代であれば、
年収が出てくるかもしれないが、それはあなたが生み出した価値の何を表すものなのか。
ホワイトワーカーとして働いている人が、エッセンシャルワーカーの年収の何倍だろうが、それはあなたが数人分の価値の存在であるとは言えないし、むしろ必要のない可能性のがブルシットジョブ的な視点から言えばあるだろう。
また、それは人間にとって必要なものなのだろうか。
それは他者が1人でも必要な人がいるなら価値あるものだと本当に言えるのか。
それはその人の依存を生むだけのものの可能性だってある。

退屈な人生の気晴らしとしてのエンターテイメントの必要性はあるとは思う。
ただそのエンターテイメントも気晴らしという消費であって、根本的には、退屈な人生は継続していく。

ここで社会に提言したいのは、退屈な人生ではなく、イトマを探求する人生である。
一部のエリート達は、よくも悪くも思考しているからこそ、中産階級を搾取することで上に立っている。上に立つ真のエリートは、社会貢献を前提としているはずであるが、現状そうではない。
つまり、資本主義下において、役に立つ価値と合理性に才能を発揮するだけのものが上位に行ってるだけであるが、ここに本当の意味でのイトマが必要である。

イトマは、相対主義的なものでもあるが、ある一定の前提を持つ。
それは、愛のある自由と責任である。
つまり、イトマは、“愛のない不自由と無責任“を明確に望ましくないとする。
つまり、全体主義的な個人も、権威主義的な個人も、ニヒリズム的な個人も、明確に望ましくないとする。

愛にはいくつか定義あるが、あえて定義するとしたら、
自己愛を前提とした贈与的存在であり、
自由とは、自らに由来する、積極的自由であり、
責任とは、responsibility の語源としての反応する力であり、自由に対しての試行錯誤が責任であり、全体を通して言える姿勢としては、至誠的なものである。
それがイトマが理想とするあり方であり、未知への希望と俯瞰にも繋がる。

本来、生きることは、生産と消費の循環の中にある。

結論、僕がやりたい教育とは、両義的思考を持ちながら、生産を目的とした消費が行われる循環社会の中で(ある程度小規模で自治経済が見渡せる範囲)、消極的自由が守られつつ、積極的自由を持てる人材を育てることである。
そしてそのような人材は、自然を深く実感することで、言い換えるならば、複雑性を理解することで育つのではないかと思う。

この教育は、社会的経済的な貢献に関わるつながりは見えにくい(依存関係として可視化されない)ため、非常に市場経済上では優先されにくいというものだが、間違いなく必要だと考える。

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