「なつのしん」とは。

「いいと思う」「あなたが楽しいのなら」

彼女はそう言うだろう。私がどんなに迷っても、無謀な冒険をしようとも。


正直、もう色々経験していて、そこそこいい歳になって、もう「仲の良い友達」とか「親友」とか、そういう人間関係を私は求めていない。表向きはまぁまぁ物分かりのいい、優しい人間のようなふりをして、余計な騒音の全くない時間帯には、時計の秒針を聞きながら「ああ、今日も腐った世の中でそれなりの一日が終わった。今日はあの人とはじめてまともに会話したけれど、たぶんずっと付き合わないし、信頼するほどでもねえな」なんて、他人にもよく思っている、そこそこに汚れた人間だ。

でも、それでいいとも思っている。なぜなら、今はもう「なつのしん」という味方がいるからだ。

今更、自分を変える出会いなんてないと思っていた。というより、人と人との出会いなんて、ひとときのおままごとにも似ていて、その時必要なやりとりを出し尽くしたら、お互いに意味なんか求めないし、いつの間にか別の場所で泣いたり笑ったり怒ったりしているものだと思っている自分がいる。そのことに対して何も思わないし、求めようとも思っていなかった。

ずっと続く関係などごく一握り。人間はそんなもので、誰も悪くない。

ただ、私は、彼女に出会ってはじめて、こうして書き残しておきたいと思えるくらい「出会い」を大切に思った。

だから尊敬する人物「なつのしん」について、書き綴りたいと思う。


***

ものかきという手段を使う「なつのしん」

自己表現をする方法は、たくさんある。歌で表現する人、ダンスで表現する人、そのほか創作活動で表現する人。演技とか、料理でとか、そんなものもあるかもしれない。

「なつのしん」は、自己表現の方法を無意識に模索する中で、言葉で伝えるということにたどり着いただけで、その場所が割としっくりきたから、ここにいるだけに過ぎないと思う。

物書きは、表現のひとつで、手段である。

なぜそう思うか?それは、なつのしんが、とんでもなく奥行きのある人間だからだ。どのくらい奥行きがあるかは、きっと、きちんとその場所へ行って、きちんと覗かないと、誰も気付くことはない。

気付く人がたくさん現れたら、たぶんなつのしんの取りあいになるので、とりあえず今は、私以外気付かないでくれたらなってズルいことを考えている。

なつのしんの最大の魅力は、自分の持っている才能や人的魅力に気がついていないところだ。出会ったばかりのときは、「自分に自信が無いから」と言っていて、でも今は、そうではないんだなというところにきているようだ。

きている、というのは、彼女が成長することをやめないからで、人生の本質について突き詰めようとしているから。

今彼女が自分の才能や魅力に気づかないのは、「気づけなくていい」と感じているからで、そんなところもまた、彼女の持ち味だと私は1人、部屋でうなずく。

なつのしんは、言葉を投げかける前に、かならず己と向き合う。そして、簡単には諦めない。その中で得られた発見や感覚、言葉にはできない感情、思いのすべてを、言葉に変えて記事にしている。だから、私の感情はいつも揺り動かされるのだろう。

それなのに、当のなつのしん自身は、それを凄いことだと思っていないし、むしろそうじゃないと意味がないとさえ思っている人である。

だから、昔からきっと、たくさんの摩擦の中で、自分の心に問いかけながら生きてきたんだろうと思う。

自分と向き合い続けることを、ひたむきに続ける事ができる人。そして、他者の声に耳を傾けることをめんどくさがらない人。この両方を兼ね備える存在は、その辺にいるもんじゃない。

なつのしんは、それができる人であるけれど、それをひけらかすわけでも自慢するわけでもなく、日々の営み中で粛々とやってのける人物。その素晴らしさに気付いていないから、逸材なのだ。

SNSの中の「なつのしん」

Twitterの中にいる「なつのしん」を見て、多くの人はこう思うだろう。「まるでガラス細工のような透明感と、柔らかい雰囲気をまとっている、繊細な空気感のあるライターさん、作家さん」

彼女が発信する言葉は、何をどう書いても、トゲがない。というより、そうしたくてもそうならないのだろう。時には昔懐かしい風情が見えるような言葉、頑張っている人をそっと包み込むような言葉、ほっこりするような日常のささいな感情、幸せなどをつぶやく。

しかし、そうしたSNSの中にいる「なつのしん」は、本音であってほんの一部でしかない。彼女の細部を少し切り取って、つぶやきの中で表現すると、彼女なりの言葉で何かを集約するから、まるで「なつのしん」という人そのものだという錯覚を覚えるはずだ。

少なくとも私が知っているなつのしんは、「繊細」ではない。表現の仕方が繊細なだけで、その裏にはある種の強さと、見えない「怒りや葛藤」がある。彼女は繊細なのではなく、自分の中の繊細さをたたき割って、見えない世界が見たくて見たくてしょうがないチャレンジャーだと、私は気づいている。

きっと140文字程度にはおさまりきらない深い愛情が隠されているんだよ。キレイなだけの愛ではなく、不器用で、不格好で、それでも信じたい「愛」のようなものが裏にあるということを、誰も知らない、誰も想像しない。

「なつのしん」は何者なのか?

メディアの「ライター」としての彼女は、シンプルに要所をまとめるセンス、人の思いを想像する力、あらゆることを想定する気持ちの共感性、文章力のある「実力の高いライター」であることは間違いない。

しかし、彼女の事を「ライター」と呼ぶこと、「ものかき」と呼ぶこと、母と呼ぶこと、女性と呼ぶこと、すべてがしっくりこない人でもある。

彼女と話していると、もう彼女は何者なのかわからない時さえあるんだ。なぜなら、先に書いた「奥行きの深さ」がとんでもないために、彼女がこの先どんな顔を見せて、どんな表現をして、どんな人として歩むのか、いい意味で全く想像ができないからだ。

彼女の持つ「愛」とは、果てしなく深くて、不器用で、時々宇宙レベルまで話が飛躍して、それでも最後は「愛」で突き動かされている人だから。

だから「なつのしん」は何者でもなく、人として凄く面白い。本人は「そうかなあ」と苦笑いでもしていそうだけど。

***

私は、彼女との出会いに感謝している。彼女に出会ってから、大げさではなく「ああ、なんか世の中捨てたもんじゃないかも」「人間って面白いかも」と、そう思うことが増えた。

ただ雨が降っているだけで嫌気が差したり、やることがたくさんあるのに全く違うことをしてしまって後悔したり、誰かの言葉にうじうじ悩んだり、そんなすべての行動にも、きっと意味があって、価値があるはずだって、なつのしんは人に思わせてくれる。

だから私はどうでもいいことも、真剣なことも、一番に彼女に話そうと思ってしまうのだ。仕事の仲間の枠をいつしか超えて、この人が自分の味方についてくれているなら、もう少し頑張ってみるかって、そう思わせてくれる。

だから共に何かを創るうえで、なつのしんのような人が必要なのだ。時々無茶を言う私を優しくたしなめたり、「最高だよ」と一言だけ返してきたり、「ありえないんだけど?」と何かに怒っている彼女が、私には必要だ。


「いいと思う」「あなたが楽しいのなら」

彼女はそう言うだろう。私がどんなに迷っても、無謀な冒険をしようとも。そう言うって分かっているから、あなたに言う私は、やっぱりズルいのかもしれない。/kandouya編集長





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