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自分がどう生きたいかで進路を決めたらいいよって若者にアドバイスしてたら、自分ができていないことに気づいた話

科学のことを分かりやすく伝えるサイエンスコミュニケーターや理系ライターの仕事に興味があるので話を聞かせてほしい、という連絡が理系の学生さんや博士課程在籍中の大学院生の方から同時多発的にきて、20代の人たちってどんなこと考えているのかなと思ってZOOMでお話しをしたりなどした。

博士課程在籍中、わたしも進路にとても悩んでいた。博士まで来たのだからそこから先は研究者になるべくがむしゃらに邁進したらいいのだけど、研究の世界に長くいればいるほど、そこがどれだけ大変かが見えてきて、周りの人のすごさに打ちのめされて、自信がなくなって、自分にはできない気がしてしまったのだ。そうなると次に始まるのは「自分には何ができるのか」という自分探しだ。小説家としてまだデビューできていなかったから、企業の研究職を目指して就活をしたりもした。で、全部落ちた。

相談に乗っているとそんな過去の自分に重なってくる。書くことが好きだったり、サイエンスコミュニケーションに興味があったりしたら、それを仕事にしようかなと思っちゃうのだろう。わたしももし自分が博士のときにそんな職業があることを知ってたら目指そうとしたかもしれない。迷える博士だったときから15年くらい生きて経験を積んで逆算的に思うのは、「何ができるのか」とか「どう貢献できるのか」とか「何をしたいか」とか、20代のときにはわからなくていいんじゃないかっていうこと。だって、やろうと思えば何でもできるんだもの。

そうじゃなくて、考えるべきは「どんなふうに生きたいか」じゃないだろうか。人の役に立ちたいってだけでは解像度が低くて、規模は小さくても感謝の気持ちが直接自分に名指しで届く仕事がいいのか(小説家とかライターとか店主とか個人でやる仕事はそうかも)、自分の名は表に出なくていいから世界を変えるほどの役に立ちたいのか(でっかい企業の一員としてやる仕事はそうかも)、はたまた、人の役に立ちたいという気持ちはあまり大きくなくて自分の追究したいことをひたすら追い求められたら幸せなのか(研究者とか。もちろん研究もいつかどこかで役に立つのだけど、役に立つことそのものが目的じゃなかったり、役に立つのが何十年後とかだったりするので)。

企業に勤めて通勤しつつ安定した暮らしをしたいのか、それとも不安定でも通勤をしない生活をしたいのか。チームで働きたいのか、個人プレイしたいのか。どこに住みたいのか。子どもが欲しいのかそうでないのか。

生きたいように生きる、それが、一番、人の幸せを決めるような気がしている。もちろん誰もがそんなふうに生きられるわけじゃないけど、まだ20代で、スタート地点でどんな道でも選べて可能性が拓けている時期に、「どう生きたいか」を考えるのではなく、「どうあるべきか」と周りの評価軸で自分の進路を選んでしまうのはとてももったいない気がする。

そんな話をした。

それとは別にGW中にツイッターのスペースという音声ライブ配信機能で、他の小説家さんや研究者や理系院生の方と対談した。そこで、わたしは何度も自分の生き方を気に入っているというような話をした。だけどそのあと、何か大きなトゲが体に突き刺さっているような、モヤモヤした不安な気持ちが止まらなくなった。その正体がわからなかった。

たまたま洋服を買ったり髪を切ったりしたあとだったので、年を取ることの不安だろうか、と思った(自分が太ってたり、もう若くないなっていうことを突きつけられたから)。不安とかコンプレックスを感じたときは、真正面からぶつかるのが一番の解決法だと思っていて、当たって砕けたらそれはそれでコンプレックスは成仏するし、うまくいったらひとつ荷物を降ろして楽になれるし、「ようし、今更だけど、おしゃれをがんばってみるぞ!」と、ツイッターでつぶやいてたら、友達がこの本を紹介してくれたので、さっそく読み始めた。

『きれいになりたい気がしてきた』ジェーン・スー・著(光文社)

思い込みや呪いやコンプレックスをがんがん言語化してくれる本で(このタイトルにピンときた40代女性はおすすめ)、これを読みながら、何だかこう、心がほぐれてきて、やわやわになって、そうしたらモヤモヤの原因がわかって、「あー!」って叫びたくなるくらい恥ずかしくなった。

若い人に偉そうに言っといて、わたし、自分がいまだに「どう生きたいか」軸で人生を選べていない。

どう生きたいかは、中学生のときから決まっていた。小説家になりたい。小説を書いて生きていきたい。でもいつもわたしは「どう生きたいか」より「どうあるべきか」に押し流され続けてる。

小説家になるのに大学とか関係ないのに、いい大学に入った方が幸せになれるテンプレに押し流されて京大目指して受験勉強したり、理学部に入ったら大学院に行くのが当たり前テンプレに押し流されて大学院に進んだり、大学院までいったら研究者になるのは当たり前テンプレの中で、自信がなくなって、慌ててほかに道はないか探して、博士までいって就職するなら研究職でしょテンプレのもと就活をして。

そしてせっかく小説家になれたのに、稼いでいる人が偉いテンプレにコンプレックスを抱き、小説は稼げないと嘆き、バイト生活をしてたけど、理系ライターをはじめて、ようやく社会の一員になれた気がして嬉しくて、充実していて、毎日が楽しい!…と思ってたんだけど、忙しすぎて自分の書きたい小説は書けていない。

GW中にいろんなライター仲間とお話しする機会もあって、とても楽しかったのだけど、素敵なライターさんたちと話せば話すほど、わたしはライター100%ではなく、やっぱり小説家をしたいんだなって思った。

何でこうなってしまうのだろう。大嵐で転覆したわけじゃない。浮き輪で海に浮かんで、波にざざーん、ざざーんと、流れ流され続けて、今ここにいるんだと思う。ときどき思い立ってバタ足するけど、そんなことでは世間の波(というか自分の思い込み)にあらがうことができない。モーターボートに乗って、あの島行くぜ!って走り出さなくては、いつまで経っても、たどり着けない。

どう生きたいか。
わたしは小説家として生きたいんだよ。小説のことを常に考え続けていたい。自分の書く物語だけじゃなく、小説とは何なのか、ということも。

どうあるべきか、という外(わたしの仮想世間)からの目線で考えると、理系の博士号とって文章を書けるわたしは、理系ライターとしてバリバリ活躍したほうがいい、と思ってしまう。ああー、でもー、過去に何をしてきたかに捉われる必要はない、と若い人に対して言ったのを思い出した。ブーメラン! 理系の学部を出たからといって理系の職業に就く必要はないし、博士を出たからといって研究をする必要はない。他の場所でも絶対に経験は生きてくるからって言ったやーん! 

20代の進路に迷っているとき、これまで自分が努力して手に入れてきたものと、世間からこうあるべきと思われていることの両方が重なる先に自分の進路があると思っていた(そして今も無意識に思っている)。でも、これまでの人生で手に入れてきたことなんて、20代の人ならほんの少しで、これから手に入れることの方が多いはず。

わたしだって、まだ人生60年くらいある(強気)。同じことが言えるかもしれない。

能楽師の安田登さんの著書『役に立つ古典』で、『論語』の有名な言葉「四十にして惑わず」は40歳になったらおろおろ迷わずどーんとしていなさいという意味だと思われがちだけど、漢字を読み解いていくと孔子は「四十にして区切らず」という意味で言ったのではないかという解釈もできると書いてあった。

四十歳くらいになると、どうも人は自分を区切りがちになる。自分を限定しがちになる。自分ができるのはせいぜいこのあたりまでだ。自分の専門外のことはできない。そんな具合にです。それではいけないというのが、「四十にして区切らず」だと思います。そして、さまざまなことにチャレンジする。その結果として訪れるのが、「五十にして天命を知る」なのです。

『役に立つ古典』安田登・著(NHK出版)


『役に立つ古典』安田登・著(NHK出版)


わたしが人に偉そうに生き方を語ってモヤモヤしたのは、自分がちゃんと自分の生きたい生き方に挑戦できていないせいだ。小説を書いて生きていきたいとずっと思い続けているのに、すぐにそこから逃げてしまう。だから、新たに小説家デビューした人を見ると怖いと思ってしまうし、小説家を目指す人に「食べれないよ」なんて意地悪なことを言ってしまう。そう言いながら、心のどこかで、まだ全力でやっていないだけ、と言い訳の余地を残している。

こういう状態のとき、わたしは妬みやすくなる。全力で頑張れば、成功した人の頑張り具合が見えてくるから、妬みではなくさっぱりとした尊敬の気持ちが湧いて、妬みなんか全然感じないのに。

「五十にして天命を知る」。知りたい。だから、今は、区切らず、本当に小説では食えないのか、真正面から当たってやってみたい。そんなふうにして、五十になったとき、わたしの天命は小説家ではなかったんだな、と思っているかもしれないし、小説家だったと思えているかもしれない。どちらにしても、たぶん、心底、納得がいっていれば悔いはない。

ちなみに、「六十にして耳順う」(人の言葉を素直に聞けるようになる)だって。悟りを開くには、先は長いね。まだこんなでもいいって安心するね。

自分に何ができるのか、と未だに迷っているわたし自身に、20代の人に行ったのと同じことを言いたいよ。「あなたには何でもできるよ。だから、したいことをしたら?」。

あ、理系ライターはやります!記事書きまくります!書かせてください!科学の面白さを伝えたい。理系じゃないライターもやりたい!京都の現地取材のお仕事ウェルカム!でも、本を1冊書きおろすブックライター仕事は、かかりっきりになってしまうので、これからはお受けせず、その分、自分の書きたい小説を書いていこうと思っています。…って誰にアピールしているんだ。まあ、自分への宣言ですな。すぐ言ったこと忘れて流されるから、noteの記事は未来の自分へのメッセ―ジだ。定期的に読み返している。

今日はまとまらず長くてすみません。最後まで読んでくれてありがとうございます。

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