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じゃあ、わたし、女じゃなくていいやって言ってみたい。|『〈トラブル〉としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して』 藤高和輝・著(青土社)

ノンバイナリーという言葉がある。自分の性は男でも女でもないと認識していることだ。初めてその言葉を聞いたとき、何を言っているのだ? と思った。さっぱり意味が分からなかった。自分の体の性と心の性が不一致なトランスジェンダーとはまた違う。ノンバイナリーを自認する人にもいろいろなパターンがあるだろうけれど、たとえば、女の体に生まれたけれど、女の特徴は受け入れたくなくて、かといって男になりたいわけではない、という例。何だかわがままを言ってごねているだけのようにも思える。

でも、『〈トラブル〉としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して』 藤高和輝・著(青土社)を読んだときに、いろいろ腑に落ちて、わたしもノンバイナリーと言いたいなと思った。

『〈トラブル〉としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して』 藤高和輝・著(青土社)

フェミニズムやジェンダーを哲学のアプローチでほどいていく本で、フェミニズムもジェンダーも哲学も、何だか苦手で、近寄りがたくて、自分から手に取ることはなかったかもしれないけれど、仕事で読むことになって、読んでみたら「あ、わたしの話だ」という気持ちになった。読み終わったときには世界の解像度が上がって、何だかすっきりした。ものすごくわかりやすく言えば、間違ってたのはわたしじゃなくて世界の方だったんだ、と思った。

「男」や「女」にはたくさんの「~するべき」が貼り付けられていて、その全部を引き受けるのはとてもしんどい。体の特徴的に男と女という2つの代表的な性があるのは確かだけど、でも男の特徴を持った人が女を好きになり、リーダーシップを発揮し、ある特定の服を着て、もしくは特定の服を着てはいけなくて、力が強くないといけない、ということは社会が決めたことで、男の体の特徴を持っている全員が自動的にそうなるわけじゃない。そうじゃない在り方もある。でも男だから、女だから、引き受けるべきだと社会は常に迫ってくる。

たとえば、わたしは「女なら子を産むべきだ」という社会の中で、肩身の狭い思いをしながらひっそりと生きている。女なのに子を産まなくてごめんなさいと思っている。でも、この本を読み終わったとき、何か憑き物が落ちた気がした。

もし、誰かが、「女なら子を産むべき」というのなら、「あ、じゃあ、わたし、女じゃなくていいです」って言ってみたいと思った。そんなこと言ったら相手はブチ切れるかもしれない。「じゃあ、男なのか?」って言われるかもしれない。
「男じゃないです」
「じゃあ、何だ?」
「何でしょうね?」
それを考えるのはわたしではないんだと思った。相手が、社会が、子を産まなくても女は女である、と認めて定義を変えるまで、わたしはノンバイナリーということになるのかもしれない。

わがままを言っていいんだと思う。社会が決めた定義だけが絶対じゃないのだから、それに従う必要はなくて、わがままを言って定義を揺らがせたらいい。わがままを言うと、そこに〈トラブル〉が生まれる。

私たちが〈トラブル〉を起こす、あるいは起こさざるをえないのは、この世界が間違っているからだ。

〈トラブル〉としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して
藤高和輝・著

〈トラブル〉を起こさないと、社会の定義にあてはまらない「生」は「なかったこと」にされる。抹消される。それを知ると、今、消されたくない人の声が次々とネットを通じて可視化されていることが頼もしく思えてくる。炎上し、文字通りトラブルに発展していく。でも、記事になり、話題になって、抹消を強いて来た人たちの安定な地盤を揺るがしている。

トラブルを起こすのは怖い。誰だって怖い。でも自分の生を抹消されたくないから声をあげるんだと思う。でも、トラブルが起きることが既存の定義を揺らがすことだと思ったら、「あー、起きてる起きてる」と少し冷静に眺められるかもしれない。よく燃えてるなあ~、これで変わればいいなあ~って。脅迫とか誹謗中傷とかする人は法的に対処しつつね。

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トップ写真の撮影は高田一樹さん。現在、京都のギャラリーソラトさんで個展開催中です(8/7まで)。わたしの写真も展示されています。わたし以外のモデルさんはヌード写真もあるので、苦手な人もいるかもしれないけど、本人が撮られたい姿を撮るカメラマンだと思う。身体から溢れでる生命感を感じる写真たち。

展示詳細こちら 
高田さんのツイッターはこちら


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