感情だけが内的世界の事実だから

事実がひとつ、ここにある。でも、その解釈は人によって違う。学問の世界はもちろん、身近な話でいうと、一冊の小説があって、そこに印字されている文字は誰が見ても同じだけど、それを読んで感じることはみんな違うし、いい小説だという人もいれば、くだらないという人もいるだろう。わたしという人間がいる、これは事実だけど、わたしという人間をどのように解釈しているかも人によって違うだろう。

わたしは文章講座でいつも「自分の感情や気分を感じ取り言葉にする」練習をしつこくやる。これがみんな、全然、できないことがわかったからだ。

何か刺激を受けたとき、人は何らかの気分に支配される。それは言葉にする前の段階だ。そして人はその気分を周囲の状況や自分の偏見や世間の常識によって「解釈」し、脳内で言葉にしている。

この解釈はいろいろなものの影響を受けている。こうあらねばならないという思い込みや、こんなことを思ったら最低の人間だと思われるという怯えや、見栄や、社会的立場や、慣習や、くせなど、数え上げたらキリがない。
そういう人工的に加工された解釈はその人の本質ではないし、読んでも全然面白くない。本来の感情という「事実」さえ歪めてしまう。なにを書いているのかわからなくなる。書いている本人も何か違うと思うだろう。

だから、まずは「事実」を見つめることから始めなくてはいけない。口先だけのごまかしのありあわせの解釈で書いた文章に魂は入らない。

でもこれがなかなかできない。さあ書いて言って、ペンを走らせている手元を覗きこむと、「解釈」ばかり書いてある。心の声をセリフのようにスラスラと書いたり、周りの状況を書いたりする。これは感情を表す言葉ではないですよね? と指摘して、なんどもやりとりして、首を傾げられながら、たとえば…という話をしていくうちに、ようやく、幼児のような語彙で感情を表す言葉が出てくる。たのしい、わくわくする、かなしい、さみしい、つらい、こわい、いやだ…などなど。

自分の中から生まれた感情や気分は、名前も付いていなければ分類もされていない。それを注意深く観察して、よい感情か、悪い感情か、簡単な言葉で表すと何に近いか、もっと違う言葉で表せないか、と知ってる語彙で分類する。

それは、昆虫学者がジャングルに分け入って、新種の虫を発見して、どの科に属すかを調べていく作業と似ている。一見、ハチに似てるけれど、いろんな条件に照らし合わせてよく見たらハチに擬態した蛾だということがわかったりする。
分類に精通した学者なら一目で見分けられるだろう。でも、何十年も自分の感情を言葉にすることをさぼっていたわたしたちは、カブトムシとトンボの区別もつかないのである。それどころか、目の前に感情がいても見えないのである。

幸いなことにこんなことをしてどんな意味があるのか馬鹿らしいと投げ出す人は今までにいなかった。みんな、うんうんうなりながらがんばってくれる。そして最後には、その人にしか書けない、血の通った、いとおしいエッセイや物語を書いてくれる。

これが自分の想いを表すために必要な過程だと伝わっだと思う。

小説も同じだと思う。自分の感情の動きを表すことができて初めて、小説の登場人物の心情描写に説得力が出るのだと思う。小説において「事実」は作者の心だけだから。

直接、感情を表す言葉を書くより、周囲の情景描写に主人公の想いを託したほうが文学的だ。でもそれは、作者がしっかりと主人公がどういう心情だと言葉で説明できるくらい自覚して初めて胸を打つ描写が可能になるのだと思う。なんとなく、意味深に窓の外を見せておけばいいとか、なんとなく、木々がざわざわしていればいいとか、そうではない。それは昔の文豪の文章を読むとよくわかる。彼らは、情景に心情を託すけれど、それ以上に心の描写も雄弁だ。

いまだに、自分の心はわからない。見栄っ張りで弱いから、油断するとすぐ嘘をつく。少しずつ自分と仲良くなっていきたい。ごまかしの表面だけの関係ではなく。

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