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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のモヤモヤが解決した

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説がある。「人を殺したり家に火をつけたりいろいろ悪事を働いた大泥棒」のカンダタが、生前、気まぐれに蜘蛛を殺さず助けたことから、お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らしてカンダタを地獄から救い出そうとする。

カンダタは糸を登って脱出を試みるが、他の罪人までぞろぞろ登ってきたから、糸が切れてしまうと思って、この糸は俺のもんだ、お前ら降りろって叫んだら、カンダタのすぐ上で糸が切れて、みんな地獄へ逆戻り。

お釈迦様はカンダタの無慈悲な心をあさましく思い、悲しい顔して、また散歩を続けるのでございました。

この小説を初めて読んだ時、わたしも絶対カンダタと同じことをするな…と思った。だって、自分の前に垂れてきた糸だし。まさかそんなにたくさんの人がぶら下がっても切れないなんて思わないし。だから、わたしもカンダタと同じように、糸が切れて、お釈迦様に失望されながら、地獄に舞い戻るのだと思った。

現実でもわたしはこのような蜘蛛の糸的状況が怖い。以前、NPOに寄付をしたら、次の寄付をくれないか、もっと寄付をしてくれないかと毎月振り込み用紙が送られてきて、行く先々でウェブ広告が出まくったり、電話がかかってきたりして、寄付するのが怖くなった。その団体も怖くなった。

たまには良いことをしようかという、心と体力とお金の余裕があるときがある。でも、1つ良いことをしたら、ぞろぞろと次々に自分の手に負えない要求が襲ってきたらどうしよう、と想像していつも怯えている。その人だけ助けるのは不公平だろ、わたしも俺も、と次々押し寄せてきたらどうしよう、と。良いことをするのが怖い。そんな心の狭い自分が嫌だった。

でも、今日、ふとジムで自転車をこぎながら、次々と押し寄せてくるのを断らないお釈迦様の方が怖いよと思った。お釈迦様はどうするつもりだったのだろう。極楽や地獄にも、それなりにルールがあるだろう。そのルールを破って、たくさんの地獄の住人を受け入れるつもりだったのだろうか。

しかも、寛大なお釈迦様…と思いきや、カンダタが自分だけ助かろうと浅ましい心を見せた時、無慈悲にも糸は切れたわけで。100歩譲って浅ましい振る舞いをしたカンダタは、罰として地獄に舞い戻ったとしても、一縷の望みをかけて必死で登ってきた、その他の罪人たちも、みんな地獄に舞い戻ったんだよね…。ひどい。連帯責任? お釈迦様はその件に関して、何の感慨もなさそうでしたよ。 

慈悲とは何ぞや…と考えていたら、何だか吹っ切れたのです。わたしはもっとお釈迦様のように、気まぐれに自分勝手に人を助けて、カンダタのように、キャパ越えそうになったら「お前ら降りろー」って、きっぱり断って、そうやって生きていこうと思った。怖がって誰も助けられなくなるよりは、ひとりでもふたりでもいいから、誰かを助けられる人になりたい。

〈本日の小説活動〉
①芥川龍之介『蜘蛛の糸』を読み返した。

②Audibleで『推し、燃ゆ』宇佐見りん・著を聞き始めた。朗読は女優の玉城ティナさん。とても良い。

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