「気分」は「意志」の上位に君臨する

人間の行動は気分に左右される。そんなの当たり前じゃないかと思うだろうけれど、当たり前じゃないかと思っている以上にわたしたちは左右されている。

何か嫌なことや不安になるようなことが起こったとき、それの正体を見極めたり言葉で表したり自覚したりする前に、まず、不安という気分が発生して体全体を支配する。もっと細かく言うと、不安な気分にさせるような脳内物質が出て不安に支配された体になる。好奇心より警戒心が強くなり、いつでも逃げ出せるような体勢になる。

気分というとあいまいな感じがするけれど、これはれっきと存在する現象で、気分を作り出す脳内物質もわかっている。常に命の危険がある野生動物にとっては、とても合理的な仕組みだ。がさがさと草むらが動いたとか、周りの雰囲気が違うとか、見たことのない生き物がいるとか、変なにおいがするとか、そういう普段と違うものをキャッチしたら、脳から不安な気分を支配する神経伝達物質を出して一瞬で全身を警戒モードにする。考える前にだ。不安のもとを見極めて、それを認識して、その原因に対する正しい対処方法を考えて、それから動く、という悠長なことをしていられない。なんか変だからとりあえず警戒しろ、と、それが不安という気分だと、わたしは理解している。

人間も、同じような仕組みで動いているなあと、最近自分を観察してつくづく思う。そうじゃない人もいるかもしれないけど、少なくともわたしはそうなっている。ようく自分の行動や思考を観察すると、原因が何かを自覚する前にまず不安な気持ちが現れている。なんだかよくわからないけど不安だ、とまず思っている。「なんだかよくわからない」のは当たり前で、なんだかよくわかってからでは遅いわけで、なんだかよくわかる前に不安になるように体は設計されている。

発生した気分を観察して、状況証拠をもとに原因を推理する。殺人現場を調べて、犯人を推理するようなものだ。逆ではない。「今から殺しまーす」という人のあとをつけていって、「あ、死んだ」と観察できるわけではない。殺人現場を見つけて初めて犯人の存在を知るように、気分が現れて初めて原因を探ることができる。さっと見つかる場合もあるし、なかなか見つからない場合もあるし、本当の原因と向き合いたくないから他のものを犯人だと思い込むこともある。そもそも原因がない場合もある。殺人じゃなくて事故だったというパターン。神経が弱っていると誤作動を起こして、原因がないのに不安を起こす脳内物質が放出されることがある。その調整がうまくいかなくなる病気が鬱と呼ばれる病気である。気分は体を実質的に支配する。好奇心を押さえ、警戒心を強め、動きを鈍らせる。すべては個体を危険から守るためなんだけども、危険がないのにそういうことをされてしまっては仕事にならないし生活に支障が出るし、本当に困る。でも、しょうがない。治療して回復を待つしかない。少なくとも、意志が弱いから動けないわけではない。がんばろうとか、怠けたいとか、そういう意志よりもずっと上位に「気分」が君臨しているのだから。

気分はワガママな王様みたいなもので、普通にしていると、家臣である意志は逆らえない。でも王様の特性を理解すればうまく利用することもできるし、意志を鍛えれば王に助言したり、王の命令にもかかわらず違う行動を取れたりするかもしれない。王をずっと無視し続けることもできるだろう。でもそれはいずれ王国の崩壊をまねく。王が狂えば自らを死に追いやるほうへ向かうかもしれない。気分は体を守るために発せられているのだから。

気分が先に体を支配するということを覚えておくと、いろいろ便利だと思う。わたしはよく、自分ではすごく真面目に考えているつもりでも、不安というフィルターを通して考えているときがある。不安フィルターを通した思考はどこか歪んでいて、あとから見たら何をそんなに深刻に悩んでいるのかとあきれることがある。不安な気分のときに、その不安の原因とは全く関係ないことが起きたら、それを不安の原因だと勘違いして「不安の八つ当たり」をしてしまう。

たとえば、締切が間に合うかどうか不安でしょうがなくて、でもその不安を自覚していないときに、誰かからイベントに誘われたら、不安をそこに投影して、こんなイベント面白くないんじゃないか…と思ってしまう。別の原因でイライラしてるときに、誰かから何かを聞かれたら、普段なら喜んで教えるのに、こんなことを人に聞くなんて甘えてる!とその人に対して腹をたててしまう、八つ当たりと似たような現象が不安でも起こっている。怒りに関しては、八つ当たりはしないように気を付けているし、していないと思うんだけど、不安の八つ当たりは自覚がなかったからよくやっていた。実害は日記を書きちらすくらいですが。

今日も何を見てもモヤモヤと不安で、なんでもネガティブに受け取ってしまって、誰も信じられないとかそんな思いにとらわれていたけれど、なんか変だなと思って、何が不安なのか書きだしていって、冷静に見つめてみると、不安の原因は「仕事が間に合うかどうか」ということだと思った。わたしがネガティブな想いを抱いていたあれこれは全く関係なかった。濡れ衣だった。

不安の原因がわかれば、対処ができる。やらなきゃいけない予定を書きだして、締切と予想作業時間を書きだして、空いている時間に割り振って、対応策を考えて、がんばれば間に合うと納得できたら、少し不安がやわらいだ。

それにしても、わたしの不安の原因のほとんどは「締切」だと最近わかってきた。締切が原因だと認めたくないから、あの手この手でいろんな不安の原因を捏造するんだよね…。締切に追われてないときには考えないあれやこれやをモヤモヤと考える。自信がない…お金が不安…自分には価値がないんじゃないか…人から本当は疎まれてるんじゃないか…などということは締切終わってみて、それでもまだ考えるようだったら考えたらいいんじゃないか。

お酒に酩酊してるとまともな思考ができないように(できる人もいるだろうけど)、不安に酩酊しているときもまともな思考はできない。不安を差し引いて考えなければ。
気分に支配されるということを知って初めて、気分の支配から逃れられるのだと思う。こういうことがあるから、わたしはわたしをあんまり信用していない。あれが嫌だ、これが嫌だと訴えて来たら、個別の事象はおいといて、はいはいと聞き流しながら、まずは気分に支配されていないかを確認する。

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