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本当は、締切じゃなくて、何が怖いのだろうか

この世に存在しない架空の人間の人生を一から作り上げていくことを生業としているのに、いったいどうして自分の人生ひとつ思い描けないのだろう。いや、思い描くことはできているのに、それに向かうことができていない。小説を書くときのように、物語を邪魔する作者のエゴを非情にクールにそぎ落とすということができていない。

複数の締切に追われて、ひとつをこなすために他を待たせて、何をやるにしても、常にいつもどこかに申し訳ない情けない気持ちを抱えている。友達と会ってお茶をした日も、仕事以外の文章を書いたときも、そのときは楽しいのに、後からごめんなさいという気持ちになる。常に監視されているようだ。実際には監視されていないと思うけど、依頼主さんは、きっと期限内に出してくれるはずと信じて待っていてくれると思うけど、間に合わないかもしれないとおびえているわたしは自分の後ろめたさに常に監視されている。

束縛されるのが嫌いなのに、これはわたしの望む人生ではない、ということはわかる。でも、どうしたらいのかわからない。

最近、ごみ屋敷をプロの業者さんたちが明るく楽しく片付ける動画「片付けトントン」にはまっていて、よく見ている。持ち主さんたちは捨てる場所がわからなくて家の中にためているうちに、だんだん手に負えなくなって、片付ける気力もなくなって、セルフネグレクトみたいになってしまうパターンが多いのだと、どこかで読んだ。そんな状態をサクサク片付けていくプロの業者さんたちの動きを見ていると、外科手術のお医者さんや、歯医者さんなんかを連想する。自分じゃ手に負えなくて助けてもらう感じ。

仕事を断ろうと決意しても、スケジュール帳に休みの日を確保しようとがんばっても、全然、締切の恐怖におびえる日々は改善されない。新規の依頼をひとつ、ふたつ断っては「断れたー!」と勝ち誇ってはみるけど、前から受けている仕事が入ったり、前に約束したのがまだ終わっていなかったり、一度受けた仕事が急に倍増したり、面白そうな仕事だと思ってうっかり受けてしまったり、「焼け石に水」を体現している。

ごみ屋敷は締切に溺れる今の自分の姿のメタファーなんだろう。などということを、ゆっくり考えられるようになったのは、今日一日遊んだおかげだ。あと最近、色鉛筆で小鳥を描き始めた。写真をじっくりと見て描いていると、複雑で繊細な色合いをしていることに改めて気づく。わたしは全然世界をちゃんと見ていないな、と思う。

どんなふうに生きたいか、参考にできる人はいないかなと、最近はずっと探している。あの人のここを見習おう、この人のここを見習おうと、断片を寄せ集めている。でもわたしの希望や環境にぴったり合う人は、当然ながらいない。横着せず、自分で作らなくちゃいけないよね。

何をしても後ろめたい気持ちで締切に追われ続ける日々は嫌だ、ということはわかる。嫌だという気持ちは、どう生きたいかの指針になる。

何かを大きくやめるのか、それとももっと書けるように工夫するのか。小説でいえば、無駄な伏線やエピソードを削除してきっちり過不足なくまとめるか、ページ数増やすか、という選択みたいだ。後者はものすごく体力も気力もいるんだよね。どうしたいのか、答えはわたしの中にしかない。誰にも依頼されていない、わたしの人生という物語。

たくさんの期待がわたしを縛り付ける。とても優しく好意しかない糸で。わたしはハサミを手にして、わたしのために、それらを切っていかなくてはならないのだろうか。それともわたしがもっとできるようになればいいのだろうか。

同じことを悩んで乗り越えた人の話を聞きたい。本を読みたい。

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京都在住の小説家です。医学博士(京都大学)です。理系ライターもやっています。 お仕事や活動履歴などはHPにあります。 https://kanchikuizumi.amebaownd.com/