文芸とは何か―『吃音 伝えられないもどかしさ』(近藤雄生・著)を読んで

今日はわたしが非常勤講師をしている大学の入学者説明会と、読書会。チーム・パスカルの一員としてお仕事を一緒にしている先輩ライターの近藤雄生さんのノンフィクション本『吃音 伝えられないもどかしさ』を取り上げさせていただくのです。

吃音 伝えられないもどかしさ』近藤雄生(新潮社)

文章を書きたいと思って文芸コースの戸をたたく人の多くは、小説やエッセイを念頭に置いてて、ノンフィクションやルポタージュというジャンルがあることに気づいていない場合が多いと思う。どこかで読んでるはずなのに、忘れているというか。表現したいことがあったとき、その表現の手段はいろいろだ。ノンフィクションという手段もあって、それがこんなに豊かで切実でひりひりして心に迫るものであるということを文芸を学んでいく方々に知ってもらいたいなあと思って企画しました。

ノンフィクションはわたしにとっては、とても恐ろしい分野。自分の欲望が露出する小説よりも恐ろしい。小説は自分だけを生贄にすればいいけれど、ノンフィクションは相手が存在する。

ライターのインタビューでは大抵、相手の良い面にしか触れない。でもジャーナリストやノンフィクションは、もっと踏み込む。その、踏み込み方が恐ろしい。

踏み込んで荒らし回って無責任に去っていく人たちもいる。日々、流され、忘れられていくニュースやワイドショーの数々がそうだ。でもそうじゃない人たちもいる。この本は、他人に踏み込んだだけ、著者自身も読者に開いてみせる。取材相手だけを晒し者にしないという覚悟。良いとこだけを切り取って安易な感動話にまとめたりもしない恐いくらいの覚悟。そして取材相手への敬意と友情。

覚悟の分だけ小説にはない重みと切迫感と力がある。
読み終えて感動して、でも、小説の存在意義が問われるような気がしてそわそわした。小説にだって、小説の覚悟があるけれど。ここまでできているだろうか。負けてはいられない。

小説家になりたかったわたしの動機は、自己顕示欲や承認欲求に端を発している。でも、小説を書き続け、小説家になってみた今気づいたことは、自己顕示欲や承認欲求は物語をつむぐのに邪魔でしかないということだ。作者はどこまでも物語に仕え身を捧げる従者でしかない。身を投げ出してでも伝えたいことがあって、それを伝えることがよいことだと信じる強い思いがないと、こんなことはできない。

わたしの中で、これは文芸だなと思う文章と、文芸ではないなと思う文章がある。その区別がどこでされているのか、言語化したことはなかった。文章の雰囲気なのか、運び方なのか。

でも、いま分かった。文芸とは、不特定多数の読者に向かって自身を投じる献身的な行為なのではないか。自身を投じるのは恐ろしい。踏みつけられたり刺されたり罵倒されたり丸めて捨てられたりすることもあるけれど、そうしないと届かないことがある。もし届かせることができたら、深く深くつながれる。だから書き続けるのだと思う。

書きあぐねていた長編小説がようやく始まった。小説を書きつづける人生を選んだのだから、書けることに感謝してがんばろうと思います。

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