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第35話 終わりと始まり|2024年5月

 幸彦の左の薬指には指輪が光っている。指輪をつける習慣なんて今までなかったから最初のうちは慣れなかった幸彦だったが、今はもうつけていることを忘れるくらいだ。結季と籍を入れて一緒に暮らし始めてから四か月が経ったけれど、もう四か月かという気もするし、まだ四か月かという気もする。何だか中途半端な気分だった。
 それなのに、いまだにいろいろな人に「おめでとうございます」と言われて、こそばゆい。室田の撮った幸彦たちのウェディングフォトが写真の賞を獲ってしまったものだから、会社の人たちだけでなく取引先の書店員や著者にまで、幸彦が「新婚」であることが知れ渡ってしまったのだ。しかし当の本人は、どうも自分が結婚しているという現実にピンとこなくて、上手く応えられない。何だかへらへら笑ってやり過ごしたりしてしまう。
 しかも、先月で、幸彦は30歳になった。30歳、既婚、出版社勤務の男性……というのが今の幸彦の客観的な説明になるが、何だかやっぱりしっくりこない。
 幸彦は空を見上げて目を細めた。ついこの間まで冬だと思っていたのに、夏のような日差しだった。通りに植えられた桜の樹も、うっそうとした緑の葉に覆われている。桜が咲くのを楽しみにしていたのに、結婚と引っ越しと仕事でバタバタしていて、春を味わい損ねたことを、少し後悔する。
 優柔不断でぐずぐずしてようが、先のことも考えられないくらい目の前の仕事に追われてようが、時は着々と刻まれる。未来は現在になり、現在は過去に塗り替えられていく。きっと来年の今頃には、今よりは平気な気持ちで、30代既婚男性をやっているのだろう。
(過ぎてしまえば、何でも当たり前になっちゃうんだよな……)
 幸彦はつぶやいた。ある意味、暴力的ともいえる問答無用の時の流れを、頼もしいと思えばいいのか、もったいないと思えばいいのか、幸彦にはまだわからなかった。

 外での打ち合わせから会社に戻ってパソコンのメールをチェックした幸彦は、小さくため息をついた。今日はのんびりできると思っていたのに、担当している著者からお怒りの長文メールが届いていた。数年前なら震えあがっていただろうが、今は動揺しない。良い本を作ることが編集者の仕事なのだから、それを遂行するためにどうするかを考えて、その手段を講じるだけだ。
 電話か、会いに行くか、必要最小限のメールだけ返して少し時間を置くか……。何にせよ、幸彦が今プライベートで抱えている問題よりは気が楽だ。
 幸彦は今、「家族のごたごた」で悩んでいた。そんなものにこれまではまるで無縁だったツケが回ってきたかのように、一気に来た。

 果穂と、果穂の父親(幸彦にとっては祖父)である正三が大喧嘩をしているのだ。喧嘩の原因は、正三が生前葬をすると言い出したことだ。それに対して果穂が真っ向から反対しているので、計画は進まない。その生前葬のコーディネートを依頼されたのが幸彦の妻の結季なので、計画が進まなくて結季も困っている。
 正三は葬式さながらの生前葬をやりたがり、そんなことは縁起でもないと果穂が大反対し、喜寿のお祝いか何かで集まればいいじゃないのと代替案を出したが、正三は絶対葬式じゃないと嫌だと譲らない。正三は一度言い出したことは変えないし、果穂も頑固だ。そういうところは、親子そっくりだった。
「困ったなあ」
 思わずつぶやいたら、通りすがりの編集長に聞かれてしまった。
「何だ? 例の先生か?」
「いや、仕事なら何とかできるんですけど、プライベートが……」
「仕事と同じようにやればいいんじゃないか? 編集者のスキルって意外に使えるんだぞ。あ、そういう本、出そうかな。敏腕編集者が教える人生を編集する技術」
「絶対売れませんよ、それ」
 クールに言い放ちながら、幸彦は編集長の言葉を反芻してみた。
(編集者として解決か。それならできるかもしれない)
 何だか光が見えてきた。だてに8年間、編集者やっていない。無駄に年を重ねたわけじゃないんだなあと、幸彦はまるで他人事のように自分に感心した。

■□

 週末、果穂は幸彦から「見せたいものがある」と呼びだされた。場所は、幸彦の実家であり、果穂の姉である真紀の家だった。生前葬を焚きつけた張本人である結季も集合する。
(これはみんなでわたしを説得するつもりだな……)
 果穂の心は警戒心でいっぱいだった。姉のおいしい料理を食べても、多勢に無勢で説得されても、絶対に流されないぞと決心する。むしろ全員を説得して、こちらの味方を増やしてやる。「決戦」に集中できるように、果穂は繋を剛に預けてひとりで出てきた。そのくらい本気モードだった。
 だが、家のドアを開けると何だか様子が違っていた。ソファーや食卓にみんなが座っていて、手に紙の束を持ってそれをにらんでいた。まるで会社の会議室のようだった。
「えっ? 何?」
 果穂の口から思わず気が抜けた声が出た。
「企画会議。資料そこにあるから座って」
 と、幸彦が言った。ひとりだけ立っている。果穂は結季を見た。結季の方は座って大人しく資料を眺めている。
「幸ちゃんがやるの? 結季ちゃんじゃなくて?」
「結季の仕事は、クライアントの希望をかなえる企画を立てることだけど、俺の方の企画会議は八割方、没にされる企画をプレゼンする仕事だから、果穂に納得してもらうには俺の方が向いてるかなと思って」
 果穂は幸彦と手元の資料を見比べた。資料はとてもわかりやすかったし、幸彦は何だか頼もしく見えた。
「なんか、幸ちゃん、会社員みたい」
「……みたいじゃなくて、もう8年くらい会社員なんだけど?」
 幸彦が不満そうにむくれる。幸彦ももう30歳だ。小さな子どもではないと、頭でわかっていても、果穂の中で幸彦はいつまでも幸彦は子どものままだ。真紀が笑った。きっと果穂と同じことを思ったのだろう。幸彦の父、果穂の義兄も面白そうに幸彦を眺めている。

「これが終わらないと夕飯始まらないから、簡潔にやるね。なぜ、じいちゃんが葬式さながらの生前葬をやりたいのか、いくら聞いてもまともに答えてくれなかったから、過去の原稿を探してきた。資料3ページから7ページね」

 果穂はソファーに腰を下ろして、急いで手元の資料をめくる。文章のコピーの一部が、いくつも貼られている。蛍光マーカーが引かれているものもある。出版社に寄稿したエッセイや論文の一部、ネット上の記事もあるし、インタビューもある。果穂にとって初めて見る文章ばかりだった。
 自由気ままで、何を考えているのかよくわからない父だった。いつも書斎にこもっていて、長い会話をしたこともなかった。だが、文章を通して見えてくる父は饒舌で繊細で生き生きとしている。
「よく探したね、こんなに。編集者ってすごいのねえ。ストーカーみたい」
 真紀が変な感心の仕方をしている。
「特に見てほしいのが7ページ目で」
 幸彦の言葉を聞くまでもなく、果穂はもうそのページを眺めていた。そこには、正三の最初の妻との思い出が書かれていた。正三の最初の妻、つまり真紀の母は、正三が三十四歳のときに病死している。 
 幸彦の手によってマーカーが引かれた文章を、果穂はゆっくりと心の中で読んだ。

(物事にはすべて終わりがある。それを認められなかったせいで、私は、彼女に話すべきことを話せないまま永遠に別れてしまった。今もずっと後悔している。もうこんな思いをしたくないし、誰にもさせたくない……)

「そういえば、お父さん、わたしに、母さんは絶対に治るって、ずっと言い続けてたなあ」
 と、真紀が言った。
「もうすぐ死ぬなんて、絶対認めないって」
 真紀が果穂の顔を見て、くすりと笑った。
「今の果穂、そのときのお父さん、そっくり」
「まだまだ死なないと思いますけどねえ、正三さんは」
 のんきな声で義兄が言った。
「生前葬のススメなんて本を書いて、ベストセラーになったりして」
 結季が言った。
「あの、俺、まだプレゼン終わってないんだけど。その次の資料には、生前葬を行ったことで心の整理がついて、第二の新たな人生を楽しく歩み始めた事例が……」
 幸彦が喋り続けているが、もう果穂は聞いていなかった。正三の書いた言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。

(物事にはすべて終わりがある)

 それを受け入れることができたら、この世界をもっと深く知ることができるのかもしれない。そうして、そんなふうに受け入れてもまだ時間が残されていたとしたら、これまでとは違うつながり方ができるのかもしれない。
 物事の終わりのあとのことなんて、恐ろしくて想像したくなかった。でも、もし、覚悟を決めてそれを覗き見ることができたら、新しい何かが始まるのではないだろうか。不安と希望に満ちた未知の世界。それを想像すると果穂は、もう一度、この世に生まれ落ちたような気持ちになった。まっさらで無防備で可能性にあふれる、新たな始まり。

(……終わりの先に、始まりがある)

「わかった、もう反対しない。盛大にやろうよ、生前葬」

 果穂が言うと、幸彦がよっしゃっとこぶしを挙げた。

(つづく)

※次回、最終回です。


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