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【小説】土のうつわ

 帯に書かれたそのキャッチフレーズを、わたしは小さな声で読み上げる。『米谷瑞穂のおいしい家庭料理』というタイトルの下で、瑞穂は、両手で鍋を持って立ち、カメラに向かって笑っている。白を基調にしたカントリー調の台所。この写真を見た人は、瑞穂の料理を楽しみに待っている幸福な家族を思い浮かべるだろう。
――おいしい料理はひとを幸せにする。
 ひととおりぱらぱらとめくってから、本を飾り棚に戻す。視線を店内にめぐらせる。
 隣のテーブルでは、女ふたりが向かいあって瑞穂の料理を食べていた。わたしと同じくらいの年齢だろうか。ひとりは長い髪をゆるくサイドで束ね、ひとりは頭の高いところで小さくまとめている。化粧も服も爪もアクセサリーも、隅々まで注意が行き届き、精巧な細工のように美しく整えられているのに、次々と食物を口にくわえこみ、口を動かして咀嚼し続ける彼女たちは、どうしようもなくだらしない。幸せそうに細められた目。ゆがんだ唇。その奥の闇。人はどうして、食べているときはこんなにも無防備になるのだろう。
 ここは、料理研究家でありわたしの母でもある米谷瑞穂がプロデュースした家庭料理の店だ。すべての料理を米谷瑞穂が監修し、プロのシェフに作らせている。しゃれたカフェか気楽なレストランのような垢抜けた空間で、体にもいいおいしい家庭料理を食べさせる店として人気を集めており、ランチのときには行列ができるし、週末は予約を取らないと入れない。
 店内にいるほとんどの客は、米谷瑞穂の熱狂的なファンだ。瑞穂の作る家庭料理に憧れ、それを食べにやってくる。
 バッグからシガレットケースを取り出して、一本くわえる。ライターを探すためにうつむくと、髪の毛が流れてきて、煙草に当たった。普段は、邪魔にならないように縛っているのに。耳にかける。隣の女たちの耳で、光を反射する金属が揺れているのを見て、自分がピアスもネックレスも指輪もつけていないことに、初めて気がつく。久しぶりに東京に出てきたから、それなりに装ったつもりだったけれど、明らかにわたしは浮いている。ひとり、土の匂いを発している。
「申し訳ございませんが、お客様」
 顔を上げると、やせた女の店員がわたしに微笑みかけていた。
「当店では、料理の香りや味を楽しんでいただくために、禁煙とさせていただいております」
 煙草をくわえたままで、店員の顔を眺める。化粧気のない、二十代前半の女だ。この慇懃な言い回しは、瑞穂が仕込んだものだろうか。
「じゃあ、煙は出さない」
 店員は何かを言いかけた唇を引き結び、失礼しました、とお辞儀をした。そして、顔を上げた瞬間、わたしをにらみ、背を向けた。
 くわえていた煙草をケースに戻して、箸を取る。テーブルに並べられた料理はすべて、乳白色の薄手の陶器に収まっている。有名ブランドの量産品だ。料理人の意図に従順で、食べる人たちを圧倒しない、真っ白なキャンバスに料理がそっと鎮座する。飴色の大根。豚肉のソテー。五穀ご飯。煮豆。味噌汁。
 大根を口に入れる。噛み砕き舌を動かす。あごを運動させる。喉を動かして飲み下す。なつかしい、と、わたしは思った。瑞穂の料理を食べたのは十年ぶりだった。米谷瑞穂が料理研究家なんて名乗る前から、わたしはこの料理を知っている。でも、わたしには、この料理がおいしいのかどうか、分からない。料理の香りや味を楽しんでいただくために、という店員の声を頭の中で再生させる。残念だけど、煙があろうがなかろうが、わたしは料理の味を楽しむことができないの、と言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
 突然、味が分からなくなったのは、十度目の転校をした中学二年生のときだった。感じられるのは、冷たいとか熱いとか痛いとか、そういう感覚だけだった。何を口に入れても、物理的な刺激に還元される。
 今まで知っていた食べ物が、プラスチックか金属の得体の知れない塊に思えて、ものを飲みこむのが恐くなった。おいしくない、とわたしが言うと、瑞穂は静かに腹をたてた。反抗期の一種だととらえたのだ。食事を残しても放っておかれた。お腹が空けば嫌でも食べるでしょう、とも言われた。でも、異物を取りこむ恐怖に向き合うより、空腹でいる方が、よほどましだった。そのうち、倒れて入院するはめになった。病院食でもわたしが同じ態度を示してようやく、瑞穂はわたしの言葉を信じてくれた。
 舌の上にいろいろな薬品を落とされた。わたしが味を言い当てれば言い当てるほど、隣に立つ瑞穂の横顔は厳しくなった。
「味覚自体に異常はありません。何か心理的なものかもしれません。心当たりはありませんか?」
 瑞穂は医師を冷たい目で一瞥し、
「心当たりなんて、ありません」
 と、言った。
「ご家庭のことだけじゃなく、学校で何かつらいことがあったとか」
 顔を覗きこむ医師に向かって、わたしも、ありません、と答える。つらいことなど何もない。学校では害のない転校生として、周りから浮かないように、気配を殺して過ごしている。
「お金だけ取って何も分からないなんて、馬鹿にしてるわ」
 瑞穂は憤慨し、車の中で汚い言葉をまき散らした。わたしは、ただ真面目な顔をして聞いていた。もし、そのとき、わたしたちの車を見た人がいれば、母親が娘に何か大切なことを諭しているように見えただろう。
 以来、わたしは食事を残さないように努力した。おいしさという報酬がなければ、食べると言う行為は、単調で繰り返しの多い苦行だった。毎日毎日こなさなくてはいけないつらい業務だった。
 それは二九歳になった今でも変わらない。
 すべての皿を空にして、義務を果たしたわたしは立ち上がる。
 レジには先ほどの若い店員が待っていた。整った声で金額を読み上げ、ありがとうございましたと言いながら、むき出しの憎しみを体中から発し、それを隠そうとしない。怒っているのだろう。自分たちの店の料理がこんなふうに扱われるなんて屈辱だ、と。吐き出せばいいのに、と、わたしは思う。若いときの瑞穂のように。わたしはそれを受け止めるから。
 店の外には相変わらず、順番を待つ人の長い列があった。入り口にも瑞穂の本が展示されている。写真の中の瑞穂は幸せそうに、わたしではない誰かに笑いかけている。
 店いっぱいに埋まっていた彼女の客たちを思い浮かべて、わたしは微笑み返す。おいしいと顔をほころばせて笑っていた彼らこそ、瑞穂がようやく得た新しい娘たちなのだ。よかった、と、わたしは心から思った。

    2

 工房にこもっていると、誰にも会わずに一日が終わる。土を練り続けるだけの日々。もうずっと、自分の声を聞いていない。
 二年前、宇都宮のはずれに納屋付きの貸家という物件を見つけて借りた。土地勘も縁もない場所だったが、東京から車で三時間という距離が気に入って即決した。
 大家と交渉し、納屋を工房に改造させてもらった。電気窯の電源を引き込む工事をし、土を乾かすための棚や作業テーブルを自分で作り、椅子と蹴ろくろを持ち込んだ。照明を調節し、隙間風を防いで壁を補強した。古い納屋が、立派な工房に生まれ変わった。
 引っ越してからしばらくの間は、近所の人たちがかわるがわる工房を覗きに来た。彼らはみな、陶芸家の仕事に興味があって見学に来たのだと言うのだが、そのわりには、作業の内容を説明しても、上の空できょろきょろしている。そのうち、彼らの本当の目的は、近所に引っ越してきた陶芸家が、煙をまき散らしたり火事を出したりしないかということを、自分の目で確かめることだと分かった。そういうことなら、長々と説明する必要はなかった。工房の窯を見てもらえさえすれば、納得してもらえる。なぜなら、わたしの窯は、炎も煙も出さないからだ。
 巨大な冷蔵庫のような電気窯の扉を開け、電熱線が張りめぐらされた内部を覗きこむと、見物客はみな、拍子抜けしたような顔をした。このあたりに住む彼らにとって、陶芸といえば、益子焼だ。石で組んだ窯に薪をくべて、何日も火を焚いて作品を作るイメージが自然に浮かぶのだろう。薪窯には薪窯の良さがあるが、電気でしかできない表現もある。
 一か月もすると、見物客はひとりもいなくなった。安全を確認できたら興味は失せたのだ。それでようやくわたしは、ひとりで落ち着いて作業に没頭できるようになった。余計な関心など持たれたくない。わざわざ知る人のいない土地に越してきたのだから。嫌われず、好かれもせず、ひとりで生きていければそれでいい。
 手がオレンジ色に染まっている。顔を上げると、西日が窓から差して、工房の中を照らしていた。
 ろくろの上の、うつわになりそこなった形を引きはがして、台にたたきつける。再び土の塊に戻す。体重をかけて素早く練りあげる。今日はまだ納得できる形が現れていないのに、もう夕暮れだ。
 土の種類、水の配合、釉薬の調合率、焼成温度。うつわができるまでに関わる要素はたくさんあるけれど、形だけは、数値やデータでコントロールできない。同じ条件で土を練り上げて、同じようにろくろを回しても、説明できない何かがそこに宿らない限り、うつわは生まれない。形は、わたしの中には存在しない。外にある。土の中にある。蹴ろくろを土の息遣いに合わせて回し、指を純粋にする。土の声に耳をすませる。自ら生まれるのをひたすら待つ。
 その瞬間は、突然訪れる。土と指の呼吸が、ぴたりと重なり合い、耳が聞こえなくなる。澄んだものが体を支配し、わたしの輪郭が消滅する。土が命を持ち、立ち上がる。伸びやかに呼吸し、世界を侵食し、内に秘めていた力強い形を現し始める。
 指を離すと、目の前には、回転の余韻で投げやりに回るろくろと、その上で息づくひとつの形があった。少しずつ息を吐きながら、ろくろを蹴って回転させる。糸を両手で持って目の前で張ると、形に近づける。高台から、うつわの形を切り出して、作業台にそっと置く。
 あたりは暗くなっていた。その薄闇の中で、生まれたばかりのうつわは、ほのかに白く光って見えた。

   3

 わたしにうつわを作ることを教えたのは、瑞穂の十一人目の恋人だ。
 瑞穂は男が変わるたびに、引越しをした。相手の家に転がり込むこともあったし、男と一緒に新しい部屋を借りることもあったが、未成年だったわたしは、母親である瑞穂の付属品として、一緒に引っ越さなくてはいけなかった。そのせいで、わたしは転校ばかりしていた。
 十一人目の恋人の家は、都会からずいぶん離れた山奥にあった。引っ越しの日、わたしたちは、瑞穂の運転する車で山道を登った。夜だった。ヘッドライトの照らす光が狭い道路を照らし出し、瑞穂は危なっかしいハンドルさばきで、その道をなぞっていった。
 これが瑞穂につきあう最後の引っ越しだ、と、わたしは思っていた。そのときわたしは中学三年生で、推薦入試で、入る高校ももう決まっていた。寮のある高校だった。もう瑞穂に人生を振り回されるのはたくさんだと思ったから、家を出る方法を必死で考え、自力で勝ち取ったのだ。
 最後だからどこへでも連れて行けばいい、と、投げやりな気分で暗い道を見つめていたわたしは、車が止まった場所を見て少し慌てた。建物や人の気配がない、まったくの暗闇だった。もしかして瑞穂は、わたしをひとり、ここに捨てていこうとしているのではないか、という考えが頭をよぎったとき、視界の端にちらちら動く明かりが見えた。カンテラの光だった。どんどん近づいてくる。
「田舎道は暗いだろう。危ないよ。昼間に来ればよかったのに」
 男が持っているカンテラは、まぶしいくらいに強い光であたりを照らした。わたしは、手を目の上にかざして光を遮りながら、男を観察した。無精ひげを生やした細身の男。今までの男たちとは雰囲気が違う。お金も地位もなさそうだ。恐らく瑞穂より若い。
「だって、早く会いたかったから」
 瑞穂は女の声を出した。男がわたしを見て、目が合った。
「陶子、こちらは飯沼さん」
 それ以上の紹介はなかった。でもわたしは、飯沼が瑞穂の新しい恋人で、これからしばらくの間、一緒に暮らすことになる相手なのだということを理解していたから、充分だった。わたしは一応、お辞儀をした。お互い干渉せずにやっていきましょう、という挨拶のつもりだった。
 顔を上げたわたしの肩を抱いて、
「これがわたしの娘。陶子」
 と、瑞穂は続けた。ふたりきりのときには決してやらない、親愛のポーズ。肩に瑞穂の体温が当たるのが心地悪くて、わたしはそっと肩をすぼめる。
「陶子のトウは、陶器の陶よ。あなたにぴったりの名前でしょう?」
 瑞穂は、飯沼に媚びるように笑った。浮かれているのだろう。引っ越しの初日はいつもこうだ。
「ぴったりって?」
 わたしは、瑞穂ではなく飯沼に尋ねた。飯沼は微笑み、
「明日になれば分かる」
 と、言った。低い静かな声だった。飯沼が瑞穂ではなく、わたしに向かってしゃべってくれたことが嬉しかった。明日が来るのが待ち遠しかった。
 その日は、瑞穂と同じ部屋に布団をふたつ並べて寝た。飯沼はどこにいるのか分からなかった。わたしはすぐに眠りに落ちた。
 明るくなってから外を見てみると、車や歩行者が道を行き交っていた。人のいない山奥だと思っていたけれど、民家や段々畑があって、バスも走り、スーパーマーケットもある。
 飯沼の家は、わたしが今まで見たこともないくらい古かった。引き戸も、汲み取り式の便所も、靴が必要な土間も、初めて経験するものばかりだった。
 家の隣には工房があり、大きな窯が据えてあった。それでわたしは自分の名前が飯沼にぴったりだという理由を理解した。どうやって知り合ったのか分からないけれど、瑞穂の十一番目の恋人は陶芸家だった。

 バスで一時間かけて学校から帰ってくると、瑞穂はたいてい仕事に出ていて、飯沼だけがひとり、工房にいた。
 工房から外に続く戸は閉められていたが、わたしのものとしてあてがわれた二階の部屋の窓からは、飯沼の背が見えた。台の上にかがみこみ、一心に何かを作っている。何を作っているのか見たかったけれど、飯沼の体に隠されて手元は見えない。
 ある日、わたしは、戸を少しだけ開けて工房の中を覗いてみた。そこからは、飯沼の横顔が見えた。ろくろの上で土が回転し、長い指に包まれて、塊がするすると上に伸び上がっていく。塔のようにそびえた先端を指で包むとつぼみが開き、次第にうつわらしい形になっていく。昔、理科の授業中に見た、植物の成長記録の高速映像のようだと思った。
 回転が止まって、飯沼が振り返った。気づかれていたことに驚いて、体が震えた。
「おいで」
 と、飯沼は言った。逃げようと思ったのに、その声に抗えなかった。気がつけば吸い寄せられるように飯沼の前に立っていた。
「邪魔だった?」
 わたしの口から出てきた声は、かすれていて低く、怒っているみたいだった。飯沼と面と向かって話すのは初めてで、どんな顔をしていいのか分からなかった。
「邪魔じゃない。陶子がいてもいなくてもこれは失敗した」
 ろくろの上には今つぼみを開いたばかりの花のような、繊細なうつわが載っている。どこが失敗なのか、わたしには分からなかった。
「失敗したのなら、それ欲しい」
「駄目だ」
 飯沼は、あっさりと花をつぶした。彼の手の中で、みるみる土の塊に戻っていく。
「欲しければ、ちゃんと作ったのをやる」
 飯沼は無言で土を練り続ける。わたしは黙って、近くの椅子に腰かけた。見ていても、とがめられなかった。力強く動く飯沼の手のひらや指は、泥に塗れて白かった。バン、と土を作業台に叩きつける音が響く。いつまでもこうしていたかった。学校にいても、ひとりで家にいても感じたことがない穏やかな気持が体の中に満ちていく。
 瑞穂さんがさ、と飯沼は言った。
「おいしくないなら食べなくていいって言ってただろ?」
 ああ、と思って、わたしは視線を足下に落とす。昨夜の話だ。瑞穂はずいぶん機嫌が悪かった。わたしがいつものように夕飯を食べていると突然怒り出し、おいしくないなら食べなくていいと叫んだ。飯沼は何かを言いたそうに、わたしと瑞穂を見ていたが、わたしはダイニングを出て行ったので、そのあとどうなったのか分からない。
 瑞穂は悪くない、と、わたしは飯沼に言いたかった。自分の食べ方がどれだけ人をいらだたせるか、もう分かっていた。しかも、瑞穂は料理を作ることを仕事にしているのだ。わたしは毎日彼女を傷つけている。
「あれ、違うと思うよ、俺は」
 土に体重を載せながら、飯沼は言った。こめかみから汗がしたたって、作業台にぼたぼたと落ちた。
「おいしくてもおいしくなくても食べなきゃいけない」
 飯沼は手を止めて、わたしを見た。
「瑞穂さんは分かってないかもしれないけど、陶子はそれを分かってる」
 わたしは動揺して黙った。まっすぐに向けられた飯沼の目は、わたしを子供ではなくひとりの対等な人間として認めていた。
「作ってみるか?」
 唐突に、飯沼が言った。わたしはうなずいて、明日から、とだけ言うと、急いで工房を出た。
 外に出るとすぐに頬を涙が伝い落ちて、止まらなくなった。これからもわたしは、周りにいる人たちを不快にし、大事な人を傷つけながら、何遍と口を動かし、体に異物を取り込み続けないといけない。その絶望を、飯沼は分かってくれていた。温かいものが胸の中に湧き出て、苦しかった。
 飯沼と暮らしたのは、中学三年生の秋から卒業までの、四か月だけだったが、そのことが、わたしの人生を決めてしまった。

   4

 大きなレンズが横に移動して、カメラマンの顔が現れた。
「緊張してる? 普段みたいに笑ってくれたらいいよ」
「普段も、笑いません」
 わたしの答えに、カメラマンはぷっと吹き出した。
「何かおかしいですか?」
 思わずわたしは抗議した。森川と名乗ったカメラマンは、ひょろりと背が高く、大学生のような格好をしている。もらった名刺によると、わたしよりも五歳年上だったが、そうは見えなかった。大きなカメラを首から提げていなければ、アルバイトの学生にしか見えないだろう。
「さっき、先に撮ってきたんだよね、うつわの方を。で、どんな人が作ってるんだろうと思ってたら」
 言葉を一度切って、森川は再びカメラを構えた。
「あなた、そっくりだ。うつわと」
「どういうことですか?」
 むきになって聞き返した。相手のペースに乗せられていることが分かっていても止められなかった。
「どういうことか口で説明できたら、俺はこんな重い機械をぶらさげてないよ」
 シャッターを押さずにカメラを下ろすと、森川は、うーん、とうなって首をかしげた。
「よし、あなたの工房で撮ろう。俺、ちょっと編集長に交渉してくる」
 止める間もなく森川はさっさと部屋を出ていった。わたしは途方に暮れて、緊張して座っていた姿勢を崩す。テーブルにひじをつく。取材なんて受けなければよかった。
 わたしの目の前には、作品が配置されている。手をのばし、小皿をつまみあげてみる。触れた瞬間に、その皿を引いたときの情景がありありと思い浮かんだ。主張が強い土だった。扱いに困って、何度もやりなおした。当時はとても満足していたその皿も、今は何となく物足りない。今ならもっと、土の声を引き出せるような気がする。いらないものをそぎ落とせる気がする。
 うつわにそっくり、という森川の言葉を、悪くないと思った。このうつわは、わたしと飯沼の子供たちだ。
 本当は、人前に出て、写真を撮られたり何かを語ったりするのは好きじゃない。でも、雑誌に掲載されれば、飯沼の目に留まるかもしれないと思ったから引き受けた。
 わたしが中学を卒業して一か月も経たないうちに、瑞穂は飯沼と別れた。飯沼が今どこで何をやっているのか、瑞穂も知らないと言う。あの工房には、今はもう誰も住んでいない。
 この記事が掲載されるのは陶芸の専門誌ではなく、ライフスタイルを提案する女性向けの雑誌だから、飯沼が手に取ることは期待できないだろう。でも、可能性が少しでもあるなら何でもしたかった。
 ばたばたと足音をたてて、森川がようやく戻ってきた。
「さあ、日が落ちる前に、移動しよう」
 生き生きと目が輝いている。さっきまでと別人のようだ。
「工房で撮った写真を掲載するんですか?」
 工房はお世辞にもきれいとは言い難い。ほこりっぽくて、飾り気がない。そんな場所で土まみれになって作陶している女の写真なんて、この雑誌には似合わない。
「いや、掲載はされない」
 わたしは混乱して、森川を見つめた。
「勝手にやれってさ。陶子さんの許可が出たらね。だから、さっさとこっちを済ませて移動する」
 森川はてきぱきと動いて照明を調整していく。
「許可を出した覚えはないです」
「大丈夫。あなた、工房で撮ったほうが絶対いいから」
 会話がかみ合っていない。どう反論しようか迷っていると、森川がカメラを構えて、真剣な顔をした。とたんに空気が変わった。
「その姿勢でいい。少しあご引いて、端に置いてあるお皿を見て」
 言われたとおりに視線を移動する。さっき自分で載せた皿の位置が少し歪んでいた。あ、と思ったらシャッターを切られた。
「そのまま動かないで」
 何度かシャッター音が鳴り響いた。
「はい、オッケー」
 と、言って、森川はカメラを降ろした。あっけなかった。
「これでよかったんですか」
「ばっちり。ばっちり。あなた綺麗だから絵になるよ。こういう撮り方ならいくらでもできる」
 じゃあ行こうか、と、森川は大きな鞄を重そうにかつぎ上げた。
「どうして」
 わたしは尋ねた。そのあとの言葉が続かなかった。
「撮りたいものに久々に出会ったから」
 と、森川は答えた。ふたりでエレベーターに乗りこむ。森川はうっすらと汗をかいていた。どこかなつかしい匂いがした。飯沼とふたりで工房にこもっていたときのことを思い出した。

 一ヶ月後、雑誌が届いた。一風変わったデザインの食器が並ぶテーブルの向こうに座り、いとおしそうな目で作品を眺めて微笑んでいる女性。それが、わたしだった。笑った覚えなんてないのに、騙されたみたいだった。
 工房で撮った写真は、しばらくあとに、森川から直接送られてきた。薄暗い明かりの中で、一心に作陶する姿は鬼気迫っていて、何かにとりつかれているかのようだった。まるで飯沼みたいだと思った。
「この写真を公募の賞に送っても構わないかな」
 電話をかけてきて、遠慮がちに、森川は言った。
「入選するかどうかは分からないけれど、納得がいくものが撮れたから」
 構わない、と答えて、写真に目を落とす。この写真を飯沼に見てもらいたい。賞を獲れば、目に触れることもあるかもしれない。
「ところで、編集長がまたあなたを特集したいと言っていた。先月の記事が好評だったそうだ」
 そういえば、問い合わせの電話も増えた。作品を卸しているショップからも、追加の注文が相次いでいる。まさか、こんなに効果が出るとは思わなかった。もちろん雑誌のブランドイメージのおかげだが、森川の写真でなければ、ここまで反響は出なかっただろう。あとで知ったことだが、瑞穂の店に置いてあったあの本の表紙も、森川が撮ったものだった。
「編集長があなたのうつわをなんて評価してるか、知ってる?」
 わたしの答えを待たずに、森川は続けた。
「何を載せても合わない」
 思わず、わたしは吹き出した。その言葉は、わたしのうつわの特徴をよく言い当てている。
「それって、うつわとしてどうなんですか、って俺がきいたら、そこがいいのよって力説されたよ」
 熱弁をふるう編集長と、あきれ顔の森川の姿が思い浮かんで、おかしかった。
「笑ってるね」
 電話の向こうで森川が言った。
「今度はその顔を、撮らせてよ」

   5

 森川の予告のおかげで、編集長から電話がかかってきても驚かなかった。でも、電話の内容は予想していたものと違っていた。
「陶子さんのお母さんって、米谷瑞穂だったのね。知らなかったわ」
 編集長の声は、陽気に弾んでいた。
「それでね、もし、陶子さんが嫌じゃなかったら、うちで、親子で特集させてもらえないかな。陶子さんのうつわに、瑞穂さんの料理を載せる、親子のコラボレーション」
「わたしは構いませんけど、母が」
 と、わたしは答えた。母という言い慣れない単語が異物のように舌に残る。
「よかった。じゃあぜひお願いね。実はこの企画、瑞穂さんの提案なのよ。うちの雑誌に載った陶子さんを見て、連絡くれたの」
 驚いて言葉が出なかった。瑞穂はこの企画を断るだろうという確信があったのに、一体、どういうつもりなのだろう。
「あ、ごめんなさい。また詳しいことは後で」
 編集長は、そう言うと、慌ただしく通話を切った。

 撮影場所は、瑞穂の仕事場だった。瑞穂はわたしを見ると、久しぶりね、とだけ言った。すぐに作業に戻り、忙しそうにアシスタントたちに指示を飛ばす。森川もすでに来ていて、もくもくと撮影の準備を進めている。
「まずはブツ撮って、それからふたりを撮るから」
 と、森川が言った。彼の顔を見ると緊張が少し解けた。森川がいれば心配いらない。彼が写せば、瑞穂は温かい家族が待つ幸せな母になり、わたしは、母の手料理を楽しみにする娘になる。写真の中でわたしたちは、誰もが認める仲の良い母娘になる。
「お店に食べにきてくれて、ありがとう」
 料理をわたしのうつわに盛り付けながら、瑞穂は言った。瑞穂の顔は、テレビや雑誌で見るよりも幾分老けて見えた。化粧も厚く、目元や首にはくっきりとしたしわが刻まれている。
「お店の子が変な客が来たって怒ってた。話を聞いたら、すぐに陶子だって分かった」
 手を止めて、うつわから顔を離し、盛り付けのバランスを見る。
「まだ治らないのね」
 わたしのほうも、ききたかった。男を変えるたびに住居を転々とするくせは治ったのだろうか。
「あとで連絡先教えなさい。引っ越したんでしょう? わたしが見つけなかったら、このまま音信不通になるとこだったわ。たまには連絡しなさい。二人きりの家族なんだから」
 母親らしいセリフだったけれど、瑞穂には全然似合わない。わたしたちは二人きりの家族なんだろうか。瑞穂はいつもほかに家族を求めていた。わたしは瑞穂の重い荷物だったんじゃないだろうか。
「さすが親子のコラボレーションね。料理がうつわにぴったり合ってる」
 編集長がやってきて、華やかな声をあげた。彼女の言うとおり、瑞穂の盛り付けた料理は、わたしのうつわと合っていた。一緒に作られたひとつの作品のようだった。

   6

 食器棚から飯椀を取り出し、炊き上がったご飯を盛る。おかずは瑞穂に持たされた料理だ。これは「見本」で、明日からは自分で作るように、と、手書きのレシピまでつけてくれた。几帳面な文字で細かく書かれたレシピを眺めながら、箸を動かす。わたしのために瑞穂が考えた料理は、少しでも苦痛が和らぐように、食感が工夫されていた。たぶん、栄養バランスも考えて作られているのだろう。
「これを渡したかったのに、連絡つかなくなるんだから」
 瑞穂は子供みたいに頬を膨らませて怒っていた。
 ご飯を盛った飯碗を眺める。手の中にそっとおさまって、ご飯の温度をひかえめに伝える、肉厚なのに軽い碗。もう十年以上、これを使って、ご飯を食べている。飯沼がわたしのために作ってくれたものだ。
 手を出して、と飯沼に言われて右手を差し出したら、そっちじゃない、と、左手首を掴まれた。飯沼の両手が、成形の仕上げをするようにわたしの手を包み込む。温かく乾いた柔らかさに手が覆われる。しなやかに指がたわみ、わたしの左手はうつわの形になっていく。
「小さいな」
 飯沼がぽつんとつぶやいた。恥ずかしくなって引っ込めようとした手を、飯沼は離さなかった。
「それって、陶芸家に向かないってこと?」
 照れて怒った声が出た。気を張っていないと飯沼にさらわれてしまいそうだった。
「そうは言ってない。いろんなうつわがあるように、いろんな手があっていい」
 裏返し、丸め、にぎって、観察したあとに、飯沼はわたしの手を解放した。そして、わたしの手にぴったり合ううつわを作ってくれた。

「飯沼が今どこにいるのか、陶子、知らない?」
 と、瑞穂が尋ねたとき、わたしは最後の望みを失った気がした。心のどこかで瑞穂は飯沼の居場所を知っていて、わたしに知らないと嘘をついているだけだと思っていた。聞き出そうと思えばいつでも聞き出せると信じていた。それなのに、瑞穂は知らないのだ。
「約束したものをまだ作ってもらってないの」
 何を、と尋ねた声は森川の声にかき消された。
「すみません、ちょっとセットに手間取っちゃって。さあ、撮りましょうか」
 コツツボ、と瑞穂が言った。
 何のことか分からなくて、わたしが振り返ると、瑞穂は微笑んで、
「わたしの最後の家」
 と、言った。
「陶子が作ってくれる? 別に今すぐ死にたいとかそんなんじゃないの。眺めて過ごしたいのよ。最後にその中に入るんだと思ったら安心するから」
 わたしがうなずいたら、瑞穂がほっとしたように笑った。シャッターが切られる。
「陶子、幸せになりなさい」
 幼い子供を諭すような強い口調で、瑞穂がわたしに命令した。

〈了〉

#家族の物語

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