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【エッセイ】神様に会いにいく Vol.1 はじめに

2016年から約1年間ウェブマガジン「Kossmag,」さんにて連載していたエッセイを許可をいただき再掲載することになりました。古事記の神様の物語を軸に京都のいろいろな神社を紹介していきます。カメラマンも編集者もモデルの同行もなし、ひとりで全部やるエッセイ。自撮りの技とともにお楽しみください。
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1.はじめに

数年来の友人であるK氏が「今度、おとながーるのためのウェブマガジンKossmag,を立ち上げるから、京都の寺社仏閣についての記事を書いてよ」と言うので、「書く書く」と、わたしはふたつ返事で引き受けた。

「観光案内的なことは他のライターさんが書くから、寒ちゃんは、ご祭神やご本尊について、分かりやすく書いてほしいんだよね」

なるほど、そこまで知るのが、おとながーる! 面白い! Kossmag,の目指すところが、ちょっとわかって、わくわくするわたしなのでした。

それから、1か月が過ぎ、Kossmag,がオープンした。可愛い記事や通な記事がずらりと並んでいる。が、わたしはいまだに書きあぐねていた。

なぜ時間がかかっているのかというと、この題材が面白かったからだ。まずは神社から始めて、古事記に出てくる神々の物語を読んでいった。すると、個性豊かな神々が、奇妙で魅力的なエピソードを残していて興味深い。しかも、それぞれのつながりが見えてくると、ますます面白くなっていく。クリエイターの性である『こだわり』と研究者の性である『解明したい』が、がっつりとタッグを組み、神話の森から出られなくなってしまった。いや、正確には、出たくなくなってしまった。何これ、面白い。もっとここにいたい。

科学の知識にまみれたわたしは、この神話をそのまま信じることはできないけれど、昔の日本人はこんなふうに想像していたのかと考えると、なんだか胸の中を矢で貫き通されるような不思議な気持ちなる。気が遠くなって、いにしえの時間につながるような思いがする。しかも、神々の物語には、道徳的な判断がない。本当に起こり得るかどうかという判断も行われない。ただ、あるがままに世界をとらえている。

なんだかかなわないなあ、と、うらやましくなる。今のわたしたちにはとうてい持てない、大らかで巨大な想像力。言葉には力が宿ると信じて、物語の神々とともに生きていた古代の人々は、わたしたちが今使っている5つの感覚器官に加えて、6つめのいわゆる第6感を持っていたのだと思う。わけのわからないものを、わけのわからないまま飲みこみ、わからないまま解釈する力。(わたしなんか、ちょっとわからなかったら、ネットで調べてしまうのに)。

そして現代のわたしたちが、そういう物語をバカバカしいと切り捨てていないことが逆に不思議で、とても嬉しく頼もしいことのように思える。まだ完全には、第6感は失われていないのだ。神様の名前や由緒は知らなくても、身の回りに神様がいることを当たり前として生きている。それには神社の力が大きい。あちこちに神社があって、そこで儀式や祈りが日々行われていて、そういう行為が大事にされているから、今のわたしたちは日本の八百万の神々を信じることができるのだろう。

ところで、神社の由来を調べていくと、日本の歴史をひもとくことになる。歴史の勉強が苦手で理系に逃げこんだのに、ここに来て必要になるとは思わなかった。

ああ、でも歴史を知ることこそが、「大人」になるということなのかもしれない。自分ひとりだけで生きているような気持ちでいるときはまだ「子供」で、今の自分がどれだけの人のつながりの上に生きているかを知って初めて「大人」になれるのかもしれない。

しかし、応仁の乱ってなんだっけ……桓武天皇って誰だっけ……と、ぶつぶつ言っているこのわたしが、どうやってわかりやすいコラムを書けるのか。わたしには無理なんじゃないか……と頭を抱えていましたが、さっきひらめいた。

一緒に学んでいけばいいんです! 詳しい人が一気に教えるよりも、一緒に悩みながら学んでいった方がわかりやすい場合だってある。きっとコラムの連載が進んでいくと、わたしもみなさんも徐々に「大人」に近づいていくはず!

……ほらそこ、見切り発車とか言わない。

 次回から京都の神社を取り上げて、由緒や祀られている神様をわかりやすく語っていきたいと思います。お楽しみに。


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