見出し画像

〈雑記〉野球と小説

 はい。こんにちは。
 今日はお話を書く体力が無いので雑記です。

 僕にとって、小説を書くという行為は、投手として試合のマウンドに上がるのと一緒だ。感覚的にとても似ている。今日はただそれを整理せずに、僕の脳内の思考回路だけで書く。たぶん、理解される気も無い。
(タイトルには小説とか入れましたが、読み返したら野球の話しかしてません。なんか、ごめんなさい。僕にとっては全部が、小説の比喩なんです。)

 
◆僕にとって、一編の小説は一試合に相当する。

 マウンドに上がって、投手として投げる一試合と丸々同じ感覚だ。
 次の試合に自分が投げると分かれば、イメージトレーニングをし、大体どのような組み立てで投げるか想像しておく。
 特に天候などには注意をし、縦割れの変化球主体で緩急をゆさぶりとして使うか、ストレートとツーシームやスライダー主体の手元の変化に重きを置くかなど、大枠の投球術は決めている事が多い。
 直前の練習での変化球の調子や、ストレートの走りに依存して決めることもある。それに、試合相手が前回対戦があるかどうかも関わってくる。

 ただ、いくら事前に決めていても、試合直前の投球練習の調子で、その日の組み立てを変えることもある。また、試合中に微細な組み立ての変化も発生する。しかし、トータルしてみれば、僕は自分の使える投球術を使って、一試合を投げ抜かなければならない。

 僕の手から放たれるボールは、僕が力を伝える瞬間には他の誰からも阻害されない。腕の振りから、指先にひっかかる瞬間まで、全てが僕の動作による投球である。


◆僕にとって、小説の一文は一球に相当する。

 ストレート、スライダー、スローカーブ、ツーシーム、シュート、シンカー、パーム。この辺りが、僕の使う球種だ。
 これらを組み合わせて、打者と対戦し1試合を投げ抜く。大枠での投球の組み立ては決まっているが、確定している球種の順番なんて無い。

 投手は、投げる球種を予想されてはならないが、ある程度打者には予測されなければならない。打者の予測があるからこそ、予測が外れ、空振りや凡打となる。
 
 単純な話だ。
 如何に偉大な投手でも、全球ストレートをど真ん中には投げ続けない。そんなことをしたら、トレーニングを積んだ打者なら簡単に打ち返してしまうし、観客としたら、見ていてもクソつまらない。
 いくらプロでも、1試合丸々全球ストレートなんて試合をされたら、僕はもう途中で帰るかもしれない。というか、たぶん、その投手はボコボコにされると思う。

 投手目線から言えば、全球ストレートなんて投げてられない。
 練習で同じ球種を繰り返して投げることはあるが、それは練習だからであって、試合中にストレートのサインが5球以上連続すると、ちょっと指先がぞくぞくしてくる。
「あれ? スライダーってこうだったけな?」と、多少の不安が伴うのだ。不思議なモノで、何百球も練習している変化球でも、試合中に謎の現象が起きて、不安になるときがある。
(ちなみに、そういうときは、ランナーがいると助かる。牽制球を投げることができるからだ。指先の感覚遊びにちょうどよい。)
 
 僕が次に投げる一球は試合の行方を左右するかもしれない。恐怖と勇気と度胸と練習の成果と、その他の説明のつかない憎悪や、女子にモテたい心。それらが、僕の指先から放たれたボールに、僕の動作のみで作用する。


◆僕にとって、小説の文の組み立てとは、球種の組み立てに過ぎない。

 次は一例だが、試合中に投げている時の脳内にある一球一球の思考だ。
・インコースに目線を動かすストレート
・スローカーブを遠目に
・ストレートの軌道に似たツーシームでファールを打たせる
・もう一度ツーシームをボールゾーンに投げて、バッターの狙いを探る。
・食いついてきたからスライダーを遠目に
・投げていなかった高めのストレート
 ・
 ・
 ・

という感じだ。もちろん打者は毎回違う人間なので、それによって投球の中身を変える。
 例えば「スローカーブの後のツーシーム」が定石っぽく見えるように試合の序盤で立て続けに使うが、打順が2巡目に入ってからは「スローカーブの後の高めのストレート」などと変化がある。

 また、僕の投球の癖だけでなく、一般的な投球術も忘れてはいけない。打者は、僕という投手を知っているのではなく、野球というスポーツの投球の定石を知っていたりするからだ。 
 この一般的な投球術と、僕自身の投球術を織り交ぜないと、打者の予想は予想たり得ないし、打者の予想の範疇が僕には想像できない。

 小説はまさにこれである。
 論理立った投球の中でこそ、打者と投手の駆け引きは成立する。
 やけくそストレートは、試合中になんの意味もなさない。むしろ、やけくそストレートのあとの数球はめっちゃ悩む。


◆僕の文体は、アンダースロー文体である。

 自分でも何を言っているのか、正直よく分からない。

 とにかく僕は、アンダースローの投手である。(絶滅危惧種なので、一応説明しておくと、野球の投手は上から腕を振り下ろすのが一般的で『オーバースロー』と呼ばれる。僕の場合は、極端に言えば下からボールを投げる。これを『アンダースロー』と言う。近年ではソフトバンクの高橋礼さんが有名だ。)

 アンダースローの投手の短所を挙げてみよう
・とにかく球速が遅い。(重力を利用できないので、物理的に当たり前である)
・一球を投げるのに使用する体力は恐らく多い。
・フォークボールを投げるのが難しい。
・アンダースローを指導できる人物が少ない。
・ミスるとめっちゃ腰を壊す可能性がある。
・左打者と対戦するのは基本的に苦手。
・身体を大きく倒すので、コントロールが横ブレしやすい。(デッドボールを当てる回数が増える)
・試合前に投球練習をしていると、相手チームに「は?」って言われるのが遠くからでも聞こえる。


 次に、アンダースローの投手の長所を挙げてみよう
・横に動く変化球の習得が容易。特に利き手側に曲がるシュート、シンカーはかなり投げやすい。
・肩の可動範囲が後ろに柔らかい僕にとっては投げやすい。
・体格に恵まれなくても投手になれる。
(僕は170cm、56キロだ)
・球が遅いのに空振りを奪ったときの快感がすごい。
・打者にとっては普段見慣れていない。
・試合前に投球練習をしていると、相手チームに「は?」って言われるのが遠くからでも聞こえる。


 あ、思ったよりどっちもあった。
 そして、小説の話はどこにいったのだろう。

 とにかく僕は、アンダースローの景色から見える斜めの角度の世界が大好きだし、毎回同じような試合をするのはクソ面白くないし、一球一球を考えて投げるのが好きだ。

 アンダースローなら、170cmの身長でも空振りを奪える。アンダースローでも、一試合を完投したこともある。僕はそれをよく知っているから。また、投げると思う。


 そういえば、僕にとって偉大な打者が昨年引退した。名前を挙げてもおそらく知る人は少ないので、あえて書かない。
 彼とは練習試合で当たっただけだが、僕は2本のホームランと2本のツーベースを打たれた。彼と対戦した時の事は鮮明に覚えている。僕が投げたボールが、彼のバットに当たった瞬間ホームランと分かった。ボールが跳ね返る軌道のほんの30cmも見ていないのに、ホームランと分かった。

 後に、彼はプロに入った。「やっぱプロは違うな」と今でもその映像を思い出す度に思う。それと同時に、僕はホームランを打たれる前の一球で、彼から空振りを奪った。この映像も僕は鮮明に覚えている。気持ちよかった。本当に。


 あ、そうそう。
 打者としての立場から見る小説、というのもあると思う。
「ホームランが打ちたい」という感情で、小説を書くのもそれはそれでいいんじゃないかな。


 それと、僕はなんか暇だから小説を野球に例えたけど、世の中なんでもかんでも、何かの比喩だと思っている。構造なんて大して変わらないし、なんでもいいのだ。

 
 なんの話をしたいんか忘れた。
 とにかく、僕にとって、小説ではない文章は、雑記に過ぎない。ただの野球の練習と同じである。
 
 ここまで読んでしまったあなた。
 僕の練習に付き合ってくれてありがとうございました。

 僕は今でも野球ボールを握ると、変化球のことばかり考えている。
 こうだったっけな? ああだったけな? こうするとどう曲がるかな? あ、握り変えてみよう。僕はアンダースローだから、こんなことばかり考えている。





(おしまい。またね。)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。