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『三代』

 ここの所、まともな外出をしていない。髪も3ヶ月は切っていない、髭もしばらく剃っていない。爪は、高校野球で投手をしていた頃からの習慣できちんと整えている。硬いボールを、一週間に何百球と投じると、爪に負担がかかってくるのだ。短すぎても、長すぎてもいけない。大学に入学し、お遊びの軟式野球部を引退した今でも、その習慣は続いている。

 というのはただのタテマエで、女の子にいつ誘われてもいいように、爪だけはキチンと整えている。大学4年生の青年男子たるもの、可愛い女の子を抱くための準備を常にしておくのは当然のことだ。とはいえ、ここしばらく女を抱いた記憶は無いのだが。

 このままでは僕の大事なジュニアは、自らの慰めだけで、擦り減ってしまいそうだ。

 ◆

 夏、同窓会のお知らせが携帯に届いた。

 それならば、自分のジュニアを一人で磨いているだけでなく、外見も多少なりとも磨かなくては、と思い立ち、髪を切った。伸ばした髪を切るきっかけなんて、男の場合、大層な理由でなくていいのだ。

 洋服も新しく買い溜めした。僕はモノ持ちがいい方なので、この服たちとはこれから長年の付き合いになるだろう。そういえば、寝るときは未だに高校野球の練習用Tシャツを着ている。

 風呂にも朝と晩の二度入る習慣を付け、ジュニアの清潔を保った。ちなみに髪を洗うのは夜だけだ。「適度な油分を頭皮に保っていないと、早くハゲる」と信頼する友人から聞いたので、僕はそれを忠実に守ることにした。

 ただ、アゴ髭だけは伸ばしたままにした。

 さすがに伸び放題はマズイな、と思って形を整え、毛先も切り揃えた。中学、高校と、毎日髭剃りをする必要がある程の髭は生えなかった。男が成長するにあたり、シェーバーを使い始めるタイミングが"この日"というのは判別が難しいのかもしれないが、僕は"その日"を大学入学の日と決めていた。そして、大学に入学して以降は、髭を剃るという生活習慣が身についた。

 しかし、今の僕は違う。髭の伸びるペースが固まってきたということは、髭を伸ばして蓄えておく、という次のステップがある事に気づいてしまったのだ。

 このアゴ髭は、僕をもう一つ上のステップに登らせてくれるに違いない。

 ◆

 同窓会の日が近づく。

 同級生の女の子達は、(僕の記憶では)可愛い子が多かったので、僕はジュニアと共にその日を待った。準備は万端である。

 あの胸の小さかった初恋の子はどうなったのか、お尻がプリッとしてたあの子は何をしてるのか、期待に胸を膨らませて、大学のある街から地元に帰った。期待ほどの事が起こる確率は低いのかもしれないが、最低でも、僕に告白してきた女の子も同窓会に来ると聞いている。(いや、自身の考えが最低なのは100も承知だ。しかし、一年間も燻らせたジュニアが黙っていないのだ。)

 野球部で丸坊主だった僕が、整えた髪型と、新しい洋服と、変わらずヤスリで磨き上げた爪と、成長した証であるこのダンディなアゴ髭を蓄えているのである。これで、『暴走"したい"機関車』である僕のジュニアの機嫌を直してやれる可能性は、確実に上がっているだろう。

 同窓会の前日には帰省し、一泊することにしていたので、まずは実家へと向かった。朝早くからバスに乗り、駅からは徒歩で帰宅した。僕は大人になったので、一人でバスにも乗れるし、迎えも必要ないのだ。

 ◆

 到着すると、実家のリビングには人気がなく、しんとしていた。

 奥の納戸から祖父が現れる。禿げ上がった頭には白髪のみが生息している。30年前に、川柳で賞を貰い、新聞に掲載された事だけが、唯一の世間に向けた祖父の自慢だ。その時の賞状は、僕が幼い頃には居間に飾ってあった。リフォームを終えたこの家のリビングにはもう賞状はない。5年ほど前に、祖父は47年間勤めた会社を定年退職した。

 祖父は夏場には一日中、甚平を着て過ごす。

「男には、髭を蓄えたくなる時期が、一生に一度はあるものだ。」

 僕の顔を見るなり、川柳の五七五を用いるわけでも無く、雰囲気だけは説得力のある声で祖父はそう言った。

うーん、と唸って、また奥の納戸に消えていった。だから、父も祖父も、うちの家には髭を持つ男性がいなかったのか、と僕なりに解釈し納得した。昼まで宙に浮いた少しの時間を、そのままリビングに寝転んで目を瞑った。

 ◆

 僕が大学生になった今でも、父は休みの日は昼まで寝ている。その父が起きてくる足音で僕は目覚めた。

イノシシが走り回った畑のような乱雑な髪型で、父は現れた。よれたTシャツからは、御多分に漏れず、張り出した腹部が見え隠れする。寝ぼけ眼で、あくびのついでのように無駄口を叩く。

「おおあ。帰ってたんか。」

父の顔の鼻の下には、形の整った口髭が鎮座する。

ああ?髭だと?待て。父よ。なぜお前が髭を生やしている。しかもそんなにも形を整えて。そして、髭を蓄えているのは人生で初めてか?それが一生に一度の髭なのか?祖父は、父にも僕と同じさっきの言葉をかけたのか?

僕は刃物を求め、洗面所に向かった。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。