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『真っ白』

 天井が動いている。

 無機質で白い天井には等距離に照明が設置されており、僕の目線の先を同じリズムで通り過ぎる。そのリズムは僕の想像していたよりも速いテンポだった。見る方向を変えるだけで、人の歩くスピードはこんなにも速いものか、と感じる。

 時刻は朝8時半。予定通りに僕はオペ室に運ばれる。ストレッチャーに乗せられ、患者として運ばれるのは、人生初めての経験だ。近頃のストレッチャーは乗り心地が良いし、この病院の床は歪みもなく、スムーズな車輪の動きで僕は運ばれる。仰向けに寝転んで、動く白い天井と逆さまになった可愛い看護師さんの顔が時折見えるだけだ。

 ◆

 半年ほど前、仕事中に心臓発作を起こした。僕の心電図は見たことも無いほど暴れて歪んでいた。その心電図を持った僕を診た医師は「早いところ治療しないと死ぬ」と言った。先天的な心臓の不具合があることと、仕事のストレスと過労によって心臓発作を過度に誘発されている状況、という解説を聞いた。その両立が悪循環を生み出しているが、この心臓を放っておくとそれが原因で死ぬと言われた。

 仕事に忙殺されながらも、心臓の病が発端で死ぬのだと。死の原因が自分の中にあることを直接的に宣告された。

 半年の間で病院に定期的に通い、種々の検査と経過観察、そしてオペに向けての準備が行われた。循環器内科の外来の待合椅子に、20代後半の僕は何度も座って順番を待った。周りを見渡すと、心臓疾患を主にして集まる患者の平均年齢は、僕よりもずっと上なのが分かる。

 オペの前日まで仕事は続けた。

 仕事は相変わらず忙しかった。物理的になんとかなるレベルの忙しさではなかった。そのため、この半年で数回ほど極度の心臓発作に襲われた。だが、処方してもらった薬のおかげで死ななかった。心臓発作を起こす度に、脳に酸素が正常に運ばれなくなり、薄れ行く意識に身を浸すしかなかった。動くと更に酸素を消費してしまい、意識を消失する可能性が高まる。発作で倒れて動けない僕の横に、死は近くで寄り添っていた。でも死ななかった。

 ◆

 朝8時半。予定通りの時間にストレッチャーに乗っている。動く天井と可愛い看護師さんが僕を見ている。意識ははっきりしている。僕は先週、生まれた町に帰って”雪だるま”を作ってきた。僕は冬に生まれ、雪が降る町で育った。生まれた町の路地裏から家の裏山まで、真っ白に染められた雪の景色を一番多く覚えている。これは走馬灯ではなく、僕の純然たる記憶だ。

 動く天井のスピードが緩む。

 オペ室に着いた。頭の上の方で、オペ室の自動ドアの開く音が聞こえる。僕を連れてきた可愛い看護師さんが、オペ室担当の可愛い看護師さんに僕を引き渡す。「よろしくお願いします」の声が身体の脇の方から聞こえた後、僕は奥の白い部屋に吸い込まれる。今度は僕の足の下の方で、扉が閉まる。

 死ぬかもしれないと感じたことは何度もあるが、死ぬ気になったことは無いのかもしれない。僕は死のうと思って、オペ室には運ばれたわけではない。動く真っ白な天井も、白い雪の降る曇った灰色の空も、どちらも僕にとっては生きるための色だ。

 閉まりかけの扉の向こうでは、白い服を着た彼女が手を振っている。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。