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『朝』

 彼女はいつもの場所に座っていて、この教室での今日が始ったことに気づき、少しだけ表情を崩して言う。

「おはよう。今日も早いね。」

「はい。おはよう。それは君に言われたくはないな、君は早すぎるよ。まるで、朝ごはんの時間を毎日のように間違えて、毎日のように夜明け前に僕を起こしてくるうちの飼い猫みたいだよ。」 

「うーん。朝から例え話が長い。今日は65点ね。」

彼女が朝早い時間のバスに乗って登校するのを知っていたから、その時間に合わせて僕も登校している。彼女が教室に着くであろう時間のほんの少し後になってから、僕も同じ教室に入る。必要な分だけの勉強道具を運ぶための鞄を置いて、幾分かの取るに足らない言葉を彼女に残して、僕は朝練のグラウンドに向かう。

 彼女は日中の教室では女友達の中心で喋っているし、放課後は部活仲間と可愛い汗を流して帰る。彼女が唯一、一人になるのがその時間帯だった。

 田舎の学校だったので、彼女のように遠方から通う生徒が利用できるバスの時間は限定されている。否が応でも、その時間に登校するしか彼女に術は無かった。夏には、じんわりと始まる熱気の袂の中を、冬には、薄暗くて今日は休校なのかと勘違いしてしまうくらいの静けさの中を、彼女は駅から独りで歩いて登校していた。

 僕は徒歩での通学だったので、朝練の開始に間に合う頃、学校に着いていればそれでよかった。でも僕は、季節の音と一緒に歩いてくる彼女と、毎朝二人しかいない教室で「おはよう」を言いたかった。そして、朝早く学校に着いて部活の朝練をする、というちょうどいい言い訳も僕は持ち合わせていた。だから、僕の密かな楽しみは彼女には気づかれていないと思う。

 僕たちが朝早くからボールを追いかける姿を、彼女が教室から見ているのも知っていた。彼女にとってそれが、楽しみなことだったのかどうかは知らないけれど。

 ◆

 僕はこの会社の社内システムを管理している。朝は社員の誰よりも早く出社し、メインシステムが正常に動作しているかを確認する。実際の所、この時代のシステムなんて朝は自動で稼働を始めるし、日ごろの管理さえしっかりしておけば、おぞましい量のエラーを吐き出さない限り、無理してこの時間に出社する必要もない。

 別に好きな人が社内にいるわけでもない。

 ただ僕は、この会社を支えているメインシステムに毎日「おはよう」を言いたいだけだ。あとは、たまに少しの愚痴を聞いてもらうくらいだ。駐車場の柵の根元に溜まる落ち葉みたいな、取るに足らない少しの愚痴だ。そのうち風が吹いてどこかに散らばって飛んでいってしまう程度の。

「おはよう。」

それじゃあ、今日も世界を回そうか。世界の隅っこでな。いくら世界の隅っこでも、僕らは正常に動いている必要があるんだってさ。さて、今日も二人で働こうじゃないか、回してやろうじゃないか、世界を。

  

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。