読了にともなう寂寥

読書が好きです。
といっても、そんなにたくさんの作家さんを知っていたり、月に何冊も読むわけではないのだけれど。

本を読むということは、その本の終わりを迎えるということでもあります、もちろんのことですが。
映画にも音楽にも、あらゆる芸術作品には終わりというものがあるのだけれど、読了時に感じる寂しさはひとしおだなあと思うのです。

左手で支えるページの厚みが少なくなってくると、ああついにここまできてしまったと、なんだか長い旅の終焉を迎えたような気持ちになるのです。
たとえそれが短い小説だとしてもそんな、こみ上げる気持ちが芽生えてきます。

そして、作者があきらかに物語を締めようとしていることに勘づいてしまい、私は、もう少し、もう少しだけと祈るような気持ちで恐る恐る次のページをめくります。
まるで、目の前で心拍数が下がっていく老人を見つめるような気持ちです。

捲った先に、無情にも空白だけが残されている場合もあれば、まだ文字で敷き詰められていることもありますね。
まだ続くと分かった時には、心からほっとして、切れかけていた緊張の糸をなんとか結び直してもういちど集中を高めます。
そして、またその糸が切れかけた時に、物語が終わりを迎えてくれると、それはとても心地のいい読書経験になるのです。

よい終わりを迎えられるかという問題は、自分の中の集中の具合であったり、感情の高まりに左右されると思います。
僕は上で書いたように、一度焦らされたのちにスッと終わっていく小説が好きなのです。

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そしてやはり終わりに裏切られることもあります。
村上春樹著の「騎士団長殺し」を読んでいたときの話です。
僕はなぜかこの作品を三部作だと勘違いしていて、下巻の本来のクライマックスシーンを「あれ、これ終わりそうやけど、三部どうなるんやろう!」とわくわくしながら読み進めていました。

まもなく、作品は終わってしまい、あれ?そういう変わった構成なのかな、なんてことを思いましたが、後になって真実をしり、心からがっかりしました。
せっかくの村上作品を、初読を、このような形で終えてしまうなんて非常にもったいないことをしたと。

それからの僕は、きちんとある程度の下調べをして(本来そんな必要はないのだけれど)、これまでより一層物語の終末を意識して本を読むようになりました。
いい勉強になったのかもしれません。

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今日は谷川俊太郎著「ひとり暮らし」というエッセイを読んでいます。
詩作で有名な谷川さんですが、エッセイもものすごく面白い、彼が見ている世界というものはなんというか、とにかく特殊であるなあとしみじみ思います。

みなさんも、そろそろ夏になりますが、夏こそ本を読みましょう。
楽しく、時には苦しく本を読みましょうね。


おわり

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