≪ondo galleryにて開催の庄司理子氏個展「朽ちゆく日々の名残」を巡る問題について≫

ondo gallery、庄司理子氏、大槻香奈(私)を巡る問題において、それが明らかになった当初、ondo gallery が3者の見解を取り纏め発表するとしていましたが、後日 ondo gallery よりその意思はないとの連絡があったため、本記事にて大槻の見解を記述いたします。

2020年3月5日~15日 ondo gallery にて開催された庄司理子氏の個展「朽ちゆく日々の名残」において、大槻が自身の2010-2012年の制作技法・スタイル・パターンを盗用したかにみえる作品群を確認し、本展企画である ondo gallery に問い合わせました。
しかしながら、ondo galleryからは誠実な返答・対応が得られなかったと考えたことから、自身の作家性を守るために、3月13日に大槻香奈のTwitterアカウントにて自身の見解をTweetしました。以下内容のTweetを添付いたします。(ツリーでの言及になります)


【1】https://twitter.com/KanaOhtsuki/status/1238430204625739778

【2】https://twitter.com/KanaOhtsuki/status/1238656411019513856


本題に入る前に、当該Tweetにおいて使用している「盗用」という言葉の意味する領域について、今一度明らかにしておきます。
本件においては「意図や動機が見えない形で大槻の表現をなぞり続けている」上に、「年々元ネタに寄せてきているような明らかな不自然さ」があると考えています。特に当該個展にて発表された作品に顕著です。単なる影響の範疇を超えて、作品表現として不誠実な形での引用に至っているという実感がありました。(その根拠となる具体的な詳細については後述いたします。)

「盗用≒盗作」と一般的に表現されることもありますが、「盗作」は著作権法上でも保護された領域を中心としながら、法的・社会的ペナルティの伴う範囲で限定的に使用される場合がほとんどです。
対して「盗用」という言葉はより多義的であると考えています。学術論文における剽窃行為を示す場合もあれば、それと同時に美術用語では「アプロプリエーション」の日本語訳として、技法的・思想的な面で肯定的に使用されることもあります。

本件は現行の著作権法によって保護される範疇ではないものの、庄司氏の行為には不適切かつ不透明な形での大槻のコンセプトの流用や引用行為が見受けらると考えています。これは「盗作」ではありませんが、単なる影響の範疇に収まるものではありません。

実際、庄司氏の作品における画面の世界観、作品タイトル、pixiv FANBOXにて全体公開されていた記事内容(https://shojiriko.fanbox.cc/posts/836563)を読む限り、制作の動機に至るまで大槻の作品のコンセプトに酷似しており、また検証の為に過去作品を調べたところ、数年にわたって時系列的に大槻の作品展開をなぞっているように見受けられ、偶然と見過ごすにはあまりにも共通点が多く、数点の作品のみがたまたま類似するものではなく、作家性の中心にあるコンセプトを流用しているものと考えています。

このような領域を表現するのに最も近しい言葉として便宜的に「盗用」と述べています。

以上のように、本件は著作権侵害にあたる「盗作」として主張しているわけではありません。そもそも「盗作」という言葉はこちらが主張したものではなく、庄司氏の主張内にて初めて出てきたものであり、大槻の主張とは異なります。大槻が当初 ondo gallery に問い合わせた際やondo galleryとのその後のやり取りにおいても、著作権侵害の問題ではない旨を伝えています。

しかしながら、大槻としては作家生命に関わる問題ですので、本記事にて自ら見解と詳細を示すほかない状況だと考えています。なお、大槻による3月13日のTwitterでの投稿は主にテキストベースでの指摘に留まっているので、自身の主張の誠実性を明示するために、改めて根拠の資料をまとめ、以下に添付いたします。

[作品比較表]
https://drive.google.com/file/d/13Q26xAckfhVFoja5DHlpTLkBvhbBeyrl/view?usp=sharing

[時系列比較表]
https://drive.google.com/file/d/1NvyjrNLtwhK5zHUfI5T-txZiNsdM_7_4/view?usp=sharing

以上の比較資料は、対話用に大槻がondo galleryに提出し意見を求めたのとほぼ同じものですが、主に青字(赤字)の部分は、引用元など正確性のために本記事用に追記したものです。根拠の裏付けとして、当該個展に出展されていたもの以外の作品も含んでいます。大槻による主張の動機となった作品は上記資料に挙げたもの以外にも多く存在しますが、数が膨大なため一部のみとしています。

一見して分かりやすいものは[作品比較表6/9]の左下と右下の絵かと思います。この「君の夢を、いつか私に教えてね」と大槻の「意思を持つ器」の類似性は分かりやすいものではないかと思いますが、その他の作品についても説明をしていきます。

大槻作品は、日本における中心のなさ(空虚さ)から、その独特な精神性を「から」(空・殻)という言葉によって表現し、器的な概念をテーマとして絵画制作を行なってきました。その中で「少女」(蛹の殻に包まれる、生まれ変わる存在の象徴として描いている)や、「家」(蛹の殻に見立てて成長のニュアンスを含む、しかし中身のわからない空き家にみえる外観を描いている)をモチーフとしてきました。
「少女」に関しては、大槻は2009年より毎年、自身の代表的作品シリーズとして「少女ポートレート」を制作し続けてきました。時系列比較表に記載していますが、2011年の3.11(東日本大震災)をきっかけとして、2012年より少女に「蛹」のテーマが加わり、2014年からは蛹のテーマに変えて蝶(リボン)をテーマに加えています。その後2016年から2017年にかけて「家」がテーマに加わり、2018年からは「山」(家の背景にあるものとして、日本人の精神性に影響を与えてきたものとして扱う)がテーマに加わっています。各作品のテーマ等については、作品比較表や時系列比較表に記載しておりますので、ご覧いただければと思います。

大槻のオリジナリティの基盤は、これらのコンセプト(制作の動機・思想・モチーフを捉える視点・技法・素材・タイトルの言葉選びなど)の繊細な組み合わせにあります。そしてそれらは自身の作品の未来に繋がるよう考えられています。

庄司氏の作品の多くは、大槻作品の象徴的なポイントをほぼ全ておさえており、[時系列比較表・1/6][時系列比較表・2/6][時系列比較表・5/6-14]のように、表現を比較したとき、庄司氏の作品はその特徴的な顔の造形だけでなくモチーフの組み合わせまで非常に似ていると考えています。
また、庄司氏は2017年頃から、「家」をテーマとした作品を連続して作成するようになり、2018年10月以降は「山」をテーマとした作品を連続して発表しています。そして、作品比較表にて説明しているように、庄司氏の作品は単にモチーフが類似しているだけではなく、そのコンセプトも大槻のコンセプトをなぞるように変化していると考えています。
そのため、大槻としては、庄司氏がどの部分を独自性として、またどこへ向かおうとして描かれていたのか、作家の意図するところが不明瞭であると考えております。

大槻はもともと庄司氏のことをあまり認知しておりませんでしたが、2017年頃より一般の方から「大槻作品を真似しているのでは」との報告があり、それで何となく存在を知ることとなりました。当時、そのような類の報告は庄司氏作品以外にも大槻の元にいくつか届いており、いずれに関してもどう対応すべきなのかわからず、また自身の多忙を言い訳にして「周りは気にせず新作を描こう」と切り替えることで、一時的に何とか忘れ、心の折り合いをつけようとしていました。

しかしその後も何度か「絵の見た目もタイトルも非常に似ている」「大槻と視点が同じすぎでは」との声が届きましたので、改めて気になり庄司氏の作品をWebで確認すると、特に『からっぽの日』という作品が目に止まりました[作品比較表・4/9参照]
こちらは一瞬大槻自身の作品に見えてしまい、タイトルも含めて大槻作品のコラージュのようなことをされている印象で、非常にモヤモヤしました。2018年頃のことだったと思います。その時、過去に庄司氏が ondo gallery と関わりがあったことを何となく知ることとなりました。

この問題とどう向き合うべきか悩む度に、大槻自身がかなり多忙を極めていたことと、庄司氏と直接仕事で近い距離になることも無かったので、いつも半ば見過ごしているような状態でした。何より大槻自身、現に関わりのある企画ギャラリーとの信頼関係が厚く、日々作家性を守って頂けている実感にありましたので、企画ギャラリーのキュレーションが最低限きちんと成されていれば、展示として公には問題ないものが発表されるはずですし、大槻としてはそこまで心配する必要はないだろうと考えていました。

ところが2020年3月6日、当該個展の宣伝Tweetの流れで、庄司氏の『ひとりぼっちで生きられる』[作品比較表・5/9]が大槻のタイムラインに流れてきたとき、これまで以上に大槻作品と酷似したビジュアルと、それが大槻を取り扱う ondo gallery での展示であると知って大変ショックを受けました。また完全なオリジナルとして発表されていたことで、これは見過ごせない問題であることを確信しました。更に他の出展作品を調べると、同じくこれまで以上に影響の範疇を超えたとみえる作品が散見されましたので、すぐに ondo gallery への問い合わせに至りました。その後の ondo gallery のはっきりしない返答も後押しとなり、そこで改めてコンセプトを「盗用」された実感を強めることとなりました。

それからまた、庄司氏の作品をWebでなるべく沢山拝見しましたが、その実感は揺らぐことがありませんでした。
庄司氏は3月14日投稿のpixiv FANBOXにて「横に並べて写したり意図して真似をした訳ではない」(https://shojiriko.fanbox.cc/posts/890679)と発言されていましたが、これまで取り上げた作品群に加えて、[作品比較表・6/9]のように、大槻作品の「反転」にみえる作品も存在していることから、その主張は受け入れ難いと感じました。もしその行いに何か必然性をもった意味があるのであれば、教えていただきたかったです。

なお、大槻としては本件は当初から、企画ギャラリーの立場で庄司氏の作品を精査することなく取り扱った、主に ondo gallery の問題として主張しています。Twitterでの投稿の背景には、大槻が ondo gallery の取り扱い作家であり、 大槻の作家活動における主要ギャラリーのひとつだったことがあります。2015年より同ギャラリーにて数回展示を開催していたことや、海外での大規模個展も企画をして頂いていたこと、加えて、作家の歴史を纏めるアーカイブ本シリーズの制作と、それに関するインタビュー記事も作成頂くなど、作家大槻香奈の理解あるビジネスパートナーとして大きな信頼を寄せていました。

業界慣習的には、作家が企画ギャラリーにて主要に取り扱われる際は、その作家性を守るという前提があります。だからこそ作家は企画ギャラリーと関わる意味があり、その責任を放棄すれば様々なトラブルに発展する可能性があります。特に大槻は、もともと「盗用」を発端とする問題に関して長年悩み続けており、実際 ondo gallery と仕事を始めた2015年時点において、大槻自身が過去体験した被害の事例を挙げ、ondo gallery とあらかじめ問題点を共有し、了解を頂いておりました。そのうえで、作家性を守るためにも大槻の過去の仕事記録を纏めるアーカイブ本を制作して頂きたいとお願いする流れがありました。

大槻自身の作家性や作品の中心、心臓にあたる部分はコンセプトであり、時代により意味をもって変化させてきました。ondo gallery は上述した通り、アーカイブ本の制作やインタビュー記事の作成も行っていたので、大槻はその度にコンセプトについて意識的に話してきました。それにも関わらず、作家性の中心にあたる部分と時代による変化の方向性までを、同ギャラリーが取り扱う別の作家によって、動機不明のままなぞられ続けてしまう上に、それが全くのオリジナルであると公式発表されてしまうことは、「同じ企画ギャラリーで意味をもって価値を積み上げてきた自身の仕事を無かったことにされてしまう」と同時に「その歴史が別の作家の仕事としてすり替えられてしまう」危険性があり、強い危惧を覚えました。これらの行いを容認してしまえば、今後において大槻香奈作品の価値を守り高めていくことが不可能となり、自身の美術作家としての生命に関わります。大槻がTwitter上での投稿に至った理由にも、そのような背景があります。

表現の酷似を知りながら庄司氏を取り扱うとしても、企画ギャラリーの立場から、現に並行して取り扱う作家への「作家性を守る」という観点からの配慮、何かしらの工夫がなされることを望んでいました。
大槻がTwitterにて述べた、庄司氏の個展における引用表記なしの指摘に関しては、以上の観点から、両作家リスペクトのもとギャラリーに同時に扱われるうえで必要なこととして、考えられ得るアイデアのひとつを想定してのことでした。よって強要できる類のものではないことは理解しています。
たとえば事前に ondo gallery から大槻に何か説明などあれば、また結果は違っていたかもしれないとも思います。

本件に関し、3月17日に ondo gallery が公式発表したテキスト内では、大槻のTweetに対して「ondoとして全面的に非を認め、謝罪いたします。」「3者の話し合いを経て両者の主張を踏まえ、今回の経緯、結果、理由などを、話が進み次第発表」としていました。
https://twitter.com/ondo_gallery/status/1239860431411273728

しかしその後 ondo gallery は、何度か話し合いの場を設けるも、Tweet前と変わらず大槻の提出した盗用根拠に対する見解は示して頂けず、また今年7月時点においては、前述した通り、見解公表の意思はない旨の報告を受けました。なぜ時が経ったタイミングで当初の約束とは真逆の意思を示されたのか、その真意は不明です。
本来ならば大槻の主張内容に対し、ondo gallery と庄司氏それぞれの返答を頂き、それによって未来の発展的な展開を期待しました。庄司氏に関しては、プロとしてひとりの作家の活動を数年にわたってなぞり続けている意味の見えなさがありましたので、ondo gallery を通して、大槻の提出した資料に対しての見解を求めるものでした。そして何か言葉を頂けるのであれば、作家の考えとして耳を傾ける旨を伝えていましたが、結果的に拒否される形になったため、残念ではありますが、以後対話を続けることは不可能と判断いたしました。

以上のような、表現に関する大槻の主張に対して、ondo gallery と庄司氏の見解は得られないままで、大変残念に思っています。コミュニケーションが成立しない以上、大槻としては本件に関し自己の見解を明らかにしておくべきであると考えました。

本件を経て、大槻は以後 ondo gallery と関わりを持たない意思があること、そしてこれまで ondo gallery にて制作・販売されていました大槻香奈のプロダクトに関しましては、すべて今後販売されることがないよう、お願いしている状態ですのでご報告いたします。

これをもちまして、本件の大槻香奈の見解といたします。

大槻香奈

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