手紙なる一族 5 (全6回)
あらすじ: マクレター家には、300年前から受け継がれる手紙がある。その受取り手である「私」は、マクレター家の現当主から手紙にまつわる話を聞くことに……
◇
ラセル・マクレター(先代)
ラセルがその屋敷を訪れて最初に思ったことは、「ここはまるで夢の世界だ」だ。奇妙なカーブを描く革張りのソファー、自分の家にある服をすべて重ねたとしても敵わないほど分厚い絨毯、過去も未来も決して薪を絶やすことのない暖炉、その上には熊よりも大きな鏡、天井には城のようなシャンデリア、壁には絵画、ランプ、タペストリー……見たことないもの、触れたことないもの、あるいは名前すら知らなかったものが、この部屋に溢れかえっているのだ! そして、この応接間と呼ばれる場所ですら、屋敷に数ある部屋のうちのひとつに過ぎないことにラセルは目を回した。
執事に案内されるままラセルはソファーで待っていた。ソファーで待つと言っても、とうてい座る気になれず(万が一にも傷つけて損害を請求されたら、ラセルは首を吊る他なくなる)、ただその横に突っ立っているだけだった。自分の靴の泥が絨毯を汚していたらどうしようと心配になって、片足を上げて確かめていたちょうどその時、屋敷の主人が応接間に入ってきた。
表面に油でも塗っているのかと思うくらい艷やかなガウンをまとった白髪の老人だった。彼の名は、マリオン・マクレター。とうてい信じられぬ話だが、ラセルの祖父であるらしい。マリオンは、杖をつきながらゆっくりラセルのもとへ歩いてきた。
ラセルは、まるで紙切れのような自分の帽子をつかみ取って、挨拶をしようとした。ただ、つい昨日まで赤の他人であったはずの肉親との初対面にふさわしい言葉なんて見つかるはずもなく、「あの……」とか、「その……」とか、情けない声が漏れてくるだけだった。
「座れ。」
マリオンが言った。
ラセルはソファーを見つめた。座る? ここに? 尻を乗せる場所が、尻のように盛り上がってるこの真っ赤なクッションに?
「いいから座れ。客人が座らねば、主は座れぬものなのだ。」
ラセルはあわててソファーに座った。思いの外、体が沈みこんだので驚いてしまった。
老マリオンは、暖炉のそばに腰掛けた。杖をわきに置き、しばらくしてから尋ねた。
「年齢は?」
「十五です。」
ラセルは答えた。
「ヤスタスは……おまえの父は、この家のことを話さなかったのか?」
「父さんは三年も前に死にましたが、一度たりとも……その……家族について話しませんでした。」
「そうか……ならば、わしのことを知っているか?」
「はい……あ、いえ、詳しくは……」
「その様子なら、街でわしの話を聞いてきたようだな。」
マリオンは言った。
「わしに関するうわさ……金に固執する守銭奴、血も涙もない冷血漢、金の亡者の権化……すべて事実だ。」
「僕はいったいなんで呼ばれたんですか?」
ラセルは我慢しきれず尋ねた。
「その質問に答える前に、まずは例のものを見せてもらおう。」
マリオンは言った。
「例のもの……?」
ラセルは、懐に手を伸ばしながら言った。
「これのことですか?」
ラセルの手元にあるのは、宛名のない手紙だった。ボロボロで、しかも封には血の跡がついていた。
◇
「僕がこの手紙を受け取ったのは、父さんが死んで半年後のことでした。」
ラセルは語った。
「父さんは、先の大戦で戦死しました。敵国への上陸作戦のさなか、銃弾が腹を貫通したそうです。この手紙は、遺品として僕と母のもとに届きました。」
「そうか。やつは戦争で死んだのか。」
二十年も前に家を出たきりの息子の死の報告に対し、マリオンは新聞の訃報記事を読んだくらいの反応しか見せなかった。もっとも、この人は孤児となった孫のラセルを何年もかけて調査して見つけたくらいなのだから、父ヤスタスの死もすでに知っていたのだろう。
「続けてくれ。」
マリオンは言った。
「僕は、父さんの最後を看取った人から話を聞きました。この手紙も、その人が届けてくれたのです。」
ラセルは続けた。
「父さんは銃弾を受けた時、その場で倒れたそうです。もしすぐに治療を受けていれば、助かったかもしれません。ですが、父さんは治療を拒否しました。その場に衛生兵が駆けつけ、応急処置をしようとしたにもかかわらず……衛生兵は、傷口の消毒のため、まずジャケットをハサミで切り裂こうとしました。そのとき父さんは、絶叫してそれを拒否しました。衛生兵は、父さんを抑えて処置を続行しましたが、激しい抵抗を受けてついに断念しました。」
「ま、まさかそのジャケットに……」
マリオンは呆然としながら言った。
「手紙をしまっていたのです。手紙を切り裂いてしまうのを恐れ、父さんは応急処置を拒否したのでしょう。治療を受けていたら助かったのかどうかはわかりません。あるいは助からないと、父は理解していたのかもしれません。その衛生兵は、そんなふうに僕と母に語りました。」
「つまりその衛生兵というのが……」
「この手紙を届けてくれました。なぜ父さんが治療を拒否したのか? それが気になった彼は、戦闘終了後に、父さんの遺品を調べてくれました。そして、この宛名のない手紙をジャケットのポケットで見つけたのです。宛名をまだ書いていないというだけで、家族に宛てた手紙だと思ったそうです。」
「なるほど、そんなことがあったとは……」
マリオンは言った。
それから……この老人がまさかこんな顔をするだなんてと、ラセルは驚いたくらいなのだが……急に何かを恐れる表情になり、目を見開いたままラセルに尋ねた。
「その手紙を開けたのか?」
「開けていません。」
ラセルは首を振った。
「手紙のことを知っていたのか?」
「はい。父さんは、この手紙をずっと大切に持っていました。それこそ肌身離さず……酔った時などたまに見せてくれましたが、そのたびに『この手紙を決して開けてはいけない』と僕に言い聞かせました。でもなぜ開けちゃダメなのかは、教えてくれませんでした。この手紙を受け取ったとき、ほんとうは何度も開けようとしました……でも結局できませんでした。僕も、母さんも、開けるのが怖かったのです。」
それからラセルは尋ねた。
「この手紙は、いったいなんなのですか?」
「その手紙は、我がマクレター家で250年も前から受け継がれる手紙だ。いまから十数年後、この世に生まれるであろうある者に渡すために……」
マリオンは言った。
「かつてヤスタスは、手紙を受け取ることを拒否したのだ。ヤツがこの街を出る前日、わしは手紙を持って牢獄を訪れたのだが……追い返された。しかたなく看守に金を払い、ヤツの眠っているすきに上着の内ポケットに手紙を仕込ませた。ヤツは、そのことに気づかず街を出ていったわけだ。」
それから老マリオンは、手紙にまつわるマクレター家の歴史を語った。手紙の中を知りたくて発狂しかけた者、手紙が呪われていると思い込みキャビネットに封印した者、失われた手紙を生涯かけて取り戻した者、手紙を受けいれ孤独のまま生きた者……
ラセルは、話の半分以上を理解できなかった。数百年前から受け継がれる手紙? いったいなんのために? わけもわからないまま預かってきた手紙の話をやっと聞けたというのに、さらにわけがわからなくなった。
「なぜ開けてはいけないのですか?」
たまらず、ラセルはたずねた。
「開けてはいけないと言われたからだ。」
マリオンは答えた。
「そのことを疑問に思うな。心が壊れるぞ。」
ラセルは、今しがた知ったばかりの祖先たちのことを思いながらうなずいた。一族の話を聞き、この手紙の重さに恐れおののいていた。
「その重さを受け入れることこそが、おまえを一族として受け入れる条件だ。」
老マリオンが言った。
「ど、どういうことですか?」
「わしは、いつか帰ってくると信じてヤスタスに手紙を託した。だがついぞ帰ってくることなくヤツは死んだ。おまえを残して……おまえに手紙を託して……つまりそういうことだ。」
ラセルは何も言えず、口をあんぐりと開けたままだった。なにか言うべきだと思ったものの、体が震えてしゃべるどころじゃない。祖父の言わんとすることはわかる。でも、それはとうてい信じられないことだった。だって、父を失い、それから間もなくして母も失い、天涯孤独となって今日まで社会の底で生きてきた僕が、まさかこの家の……
「おまえはマクレター家の跡取りとなるのだ。」
マリオンはついに言った。
「この屋敷に住み、わしの事業を引き継ぎ、そして残りの50年間、手紙を守り続けるのだ。」
信じられなかった。いっかいの機械工の息子として生まれ、ススとホコリにまみれながら働いてきた自分が、今日からこのお屋敷に住めるだなんて。尻の下にあるクッションですら、マリオンが今の勤め先で、たまに殴られながら生涯働いたところで買える代物じゃないというのに。
でも、どうしてだろう……ラセルは、気が進まなかった。当初は、こういう事態が起こるのではと密かに期待していたはずなのに。見知らぬ大富豪、マリオン・マクレターに招待されたとき、ラセルはまるで宝くじにあたった時のような異常な興奮を覚えていた。この屋敷の門をくぐった時、ついに絶頂に達したその興奮も、今となっては食べわすれたパンのように冷めていた。
そんなラセルの内心を見抜いたかのようにマリオンは言った。
「そうだ。財産の相続が、降って湧いた幸運とは限らないぞ。受け継いだものを守るのは尊いことだが、同時に辛いことでもある。それは相続した者にしかわからん。とくにマクレター家の場合はな。ここで暮らせば、おまえの父がこの街を出た理由もわかるだろう……」
親なしの貧乏生活を抜け出せるならなんだってやれると思っていた。それなのにラセルは、手紙を捨て、今すぐこの屋敷から飛び出たいと思った。それほどまでにこの手紙に何かを感じるのだ。恐ろしげな何かを……有り体に言えば、怨念のようなものを。
ラセルは、あらためて手紙を眺めた。赤い封蝋に押してある雄牛の印が、暖炉に掲げられている家紋とまったく同じであることに、今さらながら気づいた。家紋のまわりには無数の肖像画がかけてあり、そのうちの幾人かは、この手紙を受け継いだ祖先にちがいなかった。
僕は、この家でやっていけるのだろうか?
◇
ワーナー・マクレター(現当主)
「信じられないな。」
ワーナーの話を聞き終え、私は驚きとともに言った。
「手紙のために治療を拒否し、戦死した者がいるだなんて!」
「僕の祖父です。」
ワーナーは言った。
「会ったことはありませんが、立派な方でした。」
「いろいろ気になることはあるが、いちばん気になっているのは……その……」
「遠慮なく、おたずねください。」
「君のお父上は、マクレター家の家督を継いだのだろう?」
「はい。」
「彼は金持ちになった。そして、君はその息子だ。なのに、君は……」
私は、彼のツギハギだらけのズボンに目を落とした。
「どうして貧困にあえいでいるのか……ということですね?」
ワーナーは、私の言葉を引き継いだ。
「父の代で、マクレター家は屋敷も財産も失ったからです。」
「いったいなぜ?」
「この国の歴史を知っていれば、理由もご存知のはずです。」
「まさか……!」
「はい。この国で、ふたたび大戦が起こりました。僕もあなたもまだ子どもでしたが、あの時代を生きたからには想像がつくでしょう? 戦乱の最中、マクレター家は虐げられ、略奪の限りを尽くされました。敵国ではなく、この国の人たちから……この街の住民たちから……その時のことは、今もまざまざと憶えています。すべてを奪われた果てに火をつけられ、燃え盛る屋敷を。」
「なんと恐ろしい……ご家族は?」
「全員無事でした。しかし身ひとつで逃げ出したため、その他いっさいは屋敷の中に残ったままでした。この手紙も炎の中に……」
ワーナーは、手紙を指でつまむと、私につきつけるようにしてそれを見せた。
「な、ならば……」
私は手紙を見ながらツバをごくりと飲んだ。
「これはどうして無事なんだ?」
「手紙が手元にないと気づいた父が、取り戻しに行ったからです! 燃え盛る屋敷の中に! それを追いかけようとする子どもの僕を抑えながら、母は火に飛び込む父を呆然と眺めていました。母は、まちがいなく死ぬと思ったそうです。ですが、父は戻ってきました。この手紙とともに。全財産を失ってしまいましたが、手紙は取り戻せました! 家も金もなくなりましたが、手紙は守り抜きました! ご理解いただけますか? 誇りが残ったのです。その時の父の勇姿を僕は生涯忘れないでしょう。」
「以上が、我が一族とこの手紙にまつわるお話です。」
ワーナーは続けた。
「どうですか? わかりにくいところがあれば、今一度ご説明します。」
「いや、もう十分だ。」
私は首をふった。
「君には悪いが、これ以上聞きたいとは思わない。」
「わかりました。」
ワーナーがうなずくと、その拍子に一筋の涙が目尻から流れ出た。
「では、この手紙を受け取ってください……正当な受け取り手であるあなたが。」
ただの紙切れのはずなのに、ワーナーは重たそうに手紙を持っていた。まるで、手紙が一族の想いをすべて吸収してきたかのように。一切かっさい幸運に恵まれなかったことの顛末を聞くに至り、私は是が非でも手紙を受け取りたくなかった。だが、今や泣きじゃくるワーナーを目の前にして、断ることもできなかった。
しかたなく私は手紙を受け取り、それを開けようとした。すると、ワーナーがベンチから立ち上がった。
「見ていかないのか?」
私はおどろいて手を止めた。
「はい。僕の使命は、手紙を渡すこと……それだけです。」
「冗談だろ?」
と、私は言った。
しかしワーナーは、本当にその場から立ち去ってしまった。