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月面ラジオ { 22: "空港" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) おとなになった月美は、研究者にりました。研究者として、月を目指しています。

{ 第1章, 前回: 第21章 }

「なんで、わざわざ現地まで行くんだ? 大学の入学面接なんて、自宅でも受けられるだろ?」

「これだけ技術が発達しちゃうとね。現地で面接するのも、仮想空間で面接するのも、ほとんど変わらない。でも仮想空間で話すのと、握手したあとに話すのとではやっぱり印象がちがうの。さすがに月にいる面接官とは握手できないけどね。」

「それならいいけどさ……」
 月美は口をすぼめた。
「それよりも、どうして面接のことを教えてくれなかったんだ? しかもケープカナベラルでだなんて……」

「月美ちゃん、学会の準備で忙しそうだったから。気を使わせたくなかったの。」

「そうか……」

これから芽衣は、月面大学の編入試験の面接のためにケープカナベラルまで赴くらしい。
一方の月美は、研究成果を発表するため東北の温泉地で開催される学会に参加する。

「先に言ってくれれば、推薦状だって書いてやったのに。」
 月美は言った。

「ううん、遠慮しとく。月美ちゃん、絶対ろくなこと書かないから。『生まれてからこのかたずっと禁煙を成しとげるという脅威の経歴を誇る』みたいに……」

「賞賛に値すると思うんだ。」

芽衣はなにも答えなかった。

出発の日の朝、月美たちはアパートの前に立っていた。
ふたりの暮らすオンボロアパート「月見荘」の前に。

「夏の盛りは緑の盛り」といった具合に鮮やかだった植木の草花も、秋が深まると色あせた。
お隣のおばさんが気でも触れたかのように栽培している無数の朽ちかけた植物は、赤錆びた階段に彩りを添えていた。
このアパートだけはまだ古い時代の風が吹いていた。
生まれた家と同じくらい月美はこのアパートが好きだった。
けれど、いつまでもここに留まっていられないという思いは日に日に増している。

タオルを干している物干し竿が、二階の廊下に並んでいた。
一階は自転車だらけで、放置自転車か住民のものか区別がつかなかった。
入居者募集の看板は、いつもおなじ場所、つまり二階の廊下の手すりに掲げられている。

「ああ、月見荘、いつまでも変わらぬ六畳一間。昭和の家よ。」
芽衣が初めて月見荘にやってきた時に作った歌の一節だ。

「子安くんとはどうなったの?」
 とつぜん思い出したかのように芽衣が尋ねた。

「返事はしていない」
 月美は答えた。
「月はあきらめたくない。だけど結婚を断ることもできなかった……月に行けなかったときの逃げ道をつくっているみたいだ。私を卑怯だと思うか?」

「卑怯じゃない。」
 芽衣は言いきった。
「とっても大切なことだからゆっくり考えればいいと思う。むしろちょっとくらい卑怯なほうがいいかもね。」

月美は、芽衣の言葉になぐさめられた。
たまに芽衣の方がおとなに思えるのだから情けない。

月美は死ぬほど迷っていた。
子安くんといればきっと幸せになれる。
あんなにいい人はいない。
こんなダメ人間を好きだと言ってくれた。
でも子安くんと一緒にいるということは、月へ行くことを諦めることでもあった。

考えるのはよそう。
月美は心の中で首をふった。
いま悩んでもしかたないことなのだから。
これから学会が控えている。
そっちに集中しなくちゃな。

今回の研究には自信がある。
電磁誘導の力を利用し、筋組織の運動と血流を補助する医療応用研究だ。
実現すれば、事故でケガをした人や心臓病の患者の負担を軽くできる。

月でも電磁誘導の研究は活発に行われている。
月美の研究が認められれば、企業や研究機関から声がかかるはずだ。

月面都市は、今や世界最大級の学術都市でもある。
最大、最新、そして最難関の大学、通称「月面大学」を有している。
低重力建築、レーザー送電、レールガン・シャトルなど独自の研究が、月面大学で行われている。
月美も芽衣も月面都市に身を置きたいと、十年以上も前から望んでいた。

「ほら、さっさといけ。飛行機に乗り遅れるぞ。」

「月美ちゃんこそ。遅刻生命体なんだから。」

「そんな生命体はない。」
 月美は言った。
「学会は、国内開催なんだ。汽車に揺られながらゆっくり行くさ。」

「わかった。」
 芽衣はうなずいた。
「気をつけてね。」

芽衣は空港行きのバス停に向かって歩きだした。
月美はアパートの前で芽衣を見送った。
秋風が吹いた。
月美はきびすを返し、地下鉄の駅へと向かった。

そしてひと月が経った。
秋の夜長、月美が自室の畳の上で力尽きた虫のように転がっていると、芽衣が乱入してきた。

「どうしよう! 月美ちゃ……ん……えっ?」

月美が寝転んだままなんの反応もしなかったので、芽衣はあらぬ誤解をしてしまったようだ。

「こんな暗いところで寝ころがらないで!」
 月美の生存を確認すると、芽衣は声を荒げた。
「死んでると思ったよ。」

「死にたい気分だよ。」
 月美は転がったまま言った。

「いったいどうしたの?」
 芽衣は電気をつけながら尋ねた。

「どうもしないんだよ。」
 部屋が急にまぶしくなったので、月美は顔を腕でかくした。
「何も起こらない。論文発表の反応はよかったよ。企業のリクルーターと名刺交換までしたのに! でもそれ以来、音沙汰なしだ。私の力は宇宙では必要とされていない。それがよくわかった一日だった。」

「それは残念ね。私、出直したほうがいいみたい。」
 芽衣は申し訳なさそうに部屋から出ていこうとした。

「待て。なんか用があったんだろ?」

「うん。たいしたことじゃないんだけど月面大学に合格したの。」

「そうか。おつかれ。」

「うん。」

「ん? いまなんて?」
 月美はあわてて体を起こした。

「合格したの。」
 芽衣は言い直した。
「月面大学に。」

次の瞬間、月美たちは手を取り合い、近所の壁を叩くほどの声で叫んだ。

「陽子にはもう言ったのか?」
 ひとしきり祝福の意を伝えると、月美は息を切らしながら尋ねた。

「あぁ……」
 芽衣はスイッチを切ったみたいに急におとなしくなった。
「えぇと……それはまだみたい……」

「どうしたんだ? はっきりしないな。」

「うん、これから伝えるよ。」

芽衣は、はっきりしない声で応えた。
月美は少し面食らったけど、それ以上は追求しなかった。

「とにかく、おめでとう。これから月行きの準備で忙しくなるな。」

「うん、ありがとう。」
 芽衣は笑いながら言った。

「どういうことだ? 見送りに来たのは私だけか?」

あたりを見まわせば、スーパーマーケットに並ぶ野菜を片っ端からまぜて作ったサラダのようにたくさんの人種、民族、国籍の人たちが行き交っている。
それなのに、芽衣の知り合いは月美だけという有様だった。
ふたりは空港のロビーのど真ん中に立っていた。

「誰もいないじゃないか! 友だちを呼ばなかったのか? これから月に行くってのに?」

てっきり友人と親戚一同が集まって、万歳三唱しながら芽衣を見送ると思っていた月美は拍子ぬけした。

「見送りなんていらないもの。私に必要なのは『さよなら』や『お元気で』みたいな挨拶じゃない。『次は月の上で会いましょう』という約束よ。」

「わるかったな。」
 月美は口を「へ」の字に曲げた。
「見送りに来ちまって。」

「うそ。冗談だよ、月美ちゃん。」
 腕をいっぱいに広げてから芽衣は力いっぱい月美に抱きついた。
「見送りに来てくれてありがとう。」

芽衣に抱きつかれるのは初めてのことだった。
月美は驚いたけれど、やがて背中に腕をまわした。
こんな風に抱きあうのも空港ではどうということのない光景なのだろう。
だれも二人のことを気に留めない。
でも月美にとってはこれ以上ない特別な瞬間だった。
芽衣との思い出が胸にこみ上がってきて泣きそうだ。

晴れてよかったと月美は思った。
天窓から柔らかな光が降り注ぎ、広大なロビーはどこまでも明るかった。
見知らぬ人々が右へ左へと歩きまわり、みんなそれぞれの目的地を目指している。
太り過ぎた犬のようなキャリーケースを引きずる西洋人のおばさんがいた。
スーパーマーケットのプラスチック・バッグだけをたずさえて搭乗手続きをする旅慣れた人もいる。
帰国の前に最後の買い物を済ませたいアジア人の家族連れ、足を休めるためにカフェを探しまわる老夫婦、さっそく道に迷ったのか同じ場所をグルグルまわっている大学生、旅が始まる前から駆けめぐる子どもたち……
そんな只中に立つと、月美はいつも見知らぬ世界のお祭りに迷いこんでしまった気分になる。
雑踏が心地よい。
旅立ちにはいい朝だった。

月美は芽衣の肩に手をおいて言った。

「かける言葉がないよ。しっかりやれよなんて言わなくたって、お前は私よりずっとしっかりしている。」

「まあね。月美ちゃんはもっとしっかりしなくちゃ。吸殻は毎日ちゃんと片付けるんだよ。それと子安くんへの返事はどうするの?」

「唐突だな。」

「ずっと気になってたんだもの。」

「断ったよ。」

「ほんとに?」
 芽衣はおどろいた。
「ほんとにそれでいいの?」

「後悔してないよ。」

「ほんとに?」
 芽衣はくり返した。

「いや、うそだ。」
 芽衣の「なにもかも見抜いているからね」と言わんばかりの視線につらぬかれて月美は言い直した。
「死ぬほど後悔している。だけど諦められないんだ。月に行くことも。もう一度あいつと会うことも。」

「うん、わかった。」
 芽衣はうなずいた。
「安心した。月美ちゃん、次会うときは月の上だよ。」

「そうだな。」
 月美も小さくうなずいた。
「芽衣、もう行っちゃうのか?」

「うん。宇宙行きは搭乗手続きに時間がかかるの。感染症の検査もあるんだって。」

「だけど陽子のやつがまだだ。飛行機が遅れるのは仕方ないけど、まさか当日ギリギリの便に乗ってくるだなんて。娘の見送りだってのにまさかの現地集合だしな。」

「もう間にあわないよ。」
 なんでもないことのように芽衣は言った。
「しかたないよ、仕事で忙しいんだから。それに、月に行くからって永遠の別れじゃないんだよ? 会えなくたってかまわない。」

「そんなこと言うなよ。別れってのはとつぜんやってくるんだ。」

月美は、自分でもめずらしいと思いながら感情的になった。

「さすが。大失恋した人はいうことがちがうね。」

「うるさいな。さっさと行っちまえ。」

足の裏で蹴飛ばそうとする月美に追い立てらて、芽衣はアーチ型の大きなゲートをくぐった。
月美は出発ロビーの向こうに消える芽衣をその場に立って見送った。
これでお別れだ。
ゲートから先は、宇宙に選ばれた者と、飛行機の搭乗手続きを済ませた者しか行けない場所なのだ。

四時間後、芽衣の乗った高高度旅客機が空の彼方まで消えた。

かつてのスペースシャトルを思わせる巨大な翼をたたえた旅客機だった。
飛行機とおなじように滑走路から飛びたつ。
けれど高度ははるか上をいく。
人が地上から飛行機を見上げるのと同じように、飛行機からさらに見上げるほどの高さだ。
そして成層圏の半ばまで達したまさにその時、ジェットエンジンからロケットエンジンへと切り替える。
そのまま宇宙まで行き、宇宙空間を気の済むまで漂ったのちに、地球へと帰還する。
夢の宇宙往還機だ。
その開発に人類は百年を要した。

月美は空港の屋上からその出発を見送った。
飛行機の影がいつまでも残る雲のない冬の空だった。
けれど高高度旅客機はあっという間に見えなくなった。

月美が子供だったころは月まで行ったことのある人間なんてほんの数十人だった。
今では、努力次第で芽衣のような学生も月にいけるようになった。
そのうち誰でも気軽に月へ行ける時代になるのだろう。
そういう時代は、きっと芽衣みたいなやつがつくるんだ。
もっとも、それは月美がおばあさんになった頃の話だろうけど。

まずい、と思った。
月美はちょっぴり泣きたくなった。
今日は嬉しい日のはずなのにやっぱりくやしいのだ。

月美ももう若くはない。
この前の学会での研究発表が最後のチャンスだったかもしれない。
そんな風に思うと不安で押しつぶされそうになる。

「寒い……」

空港の屋上は、人影がまばらだった。
五年前であれば、高高度旅客機をひとめ見たいとたくさんの人がいたはずだ。
月日が経ち、定期便の一つになった旅客機を見に来る者は少ない。

「もう帰ろうかな……」

コートに身を包んで白い息をはきながらそうつぶやいた矢先、見知った女性が屋上にやってきた。
陽子だった。
娘を見送るためにはるばるケニアから帰国したのだ。

「ほんとうに月に行っちゃうなんて。」
 開口一番、陽子が感慨深くため息をついた。
「あんなに小さかった芽衣がたったひとりで……」

せめて旅客機が飛びたつ頃には間にあえばと思ったけれど、けっきょくだめだった。
実の娘とこれから何年も会えないかもしれないというのに。

一度月に移住したら、人はそう簡単に地球に戻らない。
移動距離も時間も費用も、何もかもがケタちがいだからだ。
重力差があるので体への負担も辛いものだという。
海外を往復するのとはわけがちがう。

なのに陽子はさみしそうな様子を見せず、むしろサバサバした様子だった。
アフリカから帰ったばかりで、シャツしか着ていない陽子はいかにも寒そうだけど、そんなこと気にも留めていない。

「我が子ながらおどろきよ。私とは似ても似つかない逸材ね。」

「陽子そっくりだよ。」
 月美は言った。
「努力家だ。最近は口うるさいところも似てきた。」

「月美には感謝している。芽衣に色々と教えてくれた。」

月美はうなずいた。

たしかに先生気取りで色々と教えた。
機械工学、ソフトウェア工学、開発手法、言葉や文化のちがう人間との話し方。
スポンジのように吸収する芽衣に教えるのは楽しかった。
教えている自分も有能になった気分だった。

「あっという間に追い抜かれたわけだけどな。」
 月美は自嘲した。

「芽衣が月に行けたの月美のおかげね。」

「それは私への嫌味か?」

「そんなわけないでしょ。心の底から感謝している。月美、私の仕事は知ってるよね?」

「忘れた。」

「人と人とを引き合わせる仕事よ。世界のどこかに自分の能力を発揮したい人がいる。世界のどこかにそんな能力を必要としている会社がある。私の仕事は、その人と会社を引き合わせること。」

「そして人と人がケンカした時は仲裁に入って仲直りをさせる。」
 月美が言葉を繋いだ。
「急にどうしたんだ?」

「月美の能力を必要としている会社がある。電磁誘導の応用研究をしている人間をヘッドハンティングしてくれと依頼されたの。あなたを名指しでね。ほんとはもっと早く教えてもよかったんだけど、どうしても直接話したかった。きっと死ぬほど喜ぶ顔が見られるから。」

「私が……死ぬほど喜ぶ?」

突如、月美の心臓が早鐘を打ちだした。
過呼吸を起こしそうなほどだ。
それでも月美はいたって冷静な様子でたずねた。

「私ほどの逸材を雇いたいってのは誰なんだ?」

「いまのうちに禁煙しておきなさい。あっちに行ったらタバコなんて絶対に吸えないわよ。」

「だからいったい誰なんだ?」
 月美は待ちきれずに言った。

「ムーンスケープ社。」
 陽子が言った。
「宇宙開発企業のね。」

「そ、それって……」
 月美は、言葉をつまらせながらも何とか言い切った。
「月に本社のあるあのドデカい会社か?」

「ええ、なにかの冗談みたいね。」
 陽子も負けず劣らず驚いていた。

「まったくだ。うそじゃないよな?」
 とても信じられない話で、月美は混乱していた。

「来年の春からの契約よ。くわしい話は、家に帰ってビールを飲みながらにしましょう。」

「ほんとに? 嘘じゃないだろうな?」

「しつこいわね。」
 陽子が眉をひそめて言った。

どうやら嘘ではないようだ。
おなじやり取りをあと五回くり返してから月美はやっと確信した。

春! 
月美は空港から飛びだして雄叫びをあげたかった。
春になったら私はあの星の上に立っている! 
夜空にうかぶ、あの黄金色の大地に! 

「芽衣を呼び戻してくれ! はやく教えてやりたい。」

「ムリに決まってるでしょ? もう宇宙に行っちゃったんだから。」
 と、陽子は笑いながら言った。


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