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月面ラジオ { 23: "宇宙" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美はついに宇宙にやってきました。

{ 第1章, 前回: 第22章 }


「コズミックライン一七二九便、当機は高度二十万メートルを超え、衛星軌道に入りました。乗客のみなさま……宇宙へようこそ!」

機内の緊張は、まだほぐれてはいなかった。
なにしろ上空三万メートルでいったんジェットエンジンが停止し、ロケットエンジンに切り替えて再加速したのだから。
「いったんエンジンを止めます」と、空の上で説明されておどろかない人はいなかった。

ロケットエンジンが旅客機を宇宙まで運び終わると、パイロットの快活なアナウンスが鳴った。
乗客たちは安堵のため息をつき、それからいっせいに泊手をした。

「当機は第一宇宙速度を保ったまま、これより『ラグランジュ城』へと向かいます。航路には雲も気流も見当たらず、安定した旅路となることうけあいです。」

本場のコズミック・ジョークに乗客の何人かがニンマリとした。

「まもなく乗務員が華麗な無重力遊泳をお見せしながら、座席まわりの点検を開始いたします。安全を確認したら、みなさまを椅子に縛りつけているシートベルトの着装サインが消灯します。するどい方なら、となりの人の髪の毛が『十年モノの寝癖でもこうはいくまい』というほど逆だっているのでお気づきでしょう。そうです。当機は無重力状態となりました。シートベルトサイン消灯の後、目的地に着くまで快適な無重力遊泳をお楽しみいただければ幸い……と、申し上げたいところですが、先立って注意事項がございます。あまり『羽目をはずしすぎない』ようお願い申し上げます。切実にお願い申し上げます。」

ほんとに哀願しているような声だった。

「宇宙にお越しになるお客さまの半数以上が、航行中に吐き気やめまいといった症状に見舞われます。気分のすぐれない方は決して動き回らず、着席したまま近くの乗務員に声をかけてください。病気や怪我ではございませんので、まずは冷静になりましょう。また、概ねではございますが、無重力ではしゃぎまわるお客さまのまわりで、それまで胃系統に滞在していたモノが漂う傾向にあることを強調しておきます。吐瀉物の匂いが次の嘔吐を誘引し、さらなる災害が発生することもございますので、まわりのお客さまの迷惑も鑑み、ご自愛、ご自重いただくようお願い申し上げます。」

「それではみなさま、決して快適なだけではない宇宙の旅をお楽しみ下さい。本日はコズミックライン一七二九便にご搭乗いただきまことにありがとうございます。機長のチリ・ゴンザレスでした。」

おどろきの早さで季節がうつりかわり春となった。
月美は宇宙にやってきた。

いまのは宇宙名物「ゲロアナウンス」だ。
高高度旅客機の乗客は、初めて宇宙にやってきた人がほとんだ。
そんな初心者たちに「興奮して、子供のように動き回らないように」と戒めるためのアナウンスだ。
この世界には宇宙酔いという特別な症状がある。
人は初めての無重力体験で、視覚と体感がうまく噛みあわなくなる。
すると脳が情報処理をたて続けにトチり、ついには頭痛や嘔吐をひき起こすというものだ。
要するに乗り物酔いに近い。
かつては宇宙飛行士だけが発症し、彼らのためだけに名前をつけられた症状ではあるけれど、今の時代、月美のような渡航者も宇宙酔いの洗礼を受けることになる。
どんなにたくましい人でも、たとえレーサーやパイロットでも宇宙酔いになってしまうそうで、宇宙旅行の通過儀礼とさえ言われている。

「宇宙での思い出は?」とたずねられ、ひと言「ゲロ」と答える宇宙経験者はたくさんいる。
自分が嘔吐する羽目になるのもイヤだし、近くにいる他の乗客が吐きだしても悲劇だ。
なんとなれば無重力空間では体だけでなくゲロも浮く。
あらかじめ渡された紙袋に受けとめきれず、豪快に吐瀉した場合は阿鼻叫喚だ。
きっと世界中の言葉で罵倒するのが聞こえるだろう。
機長のゴンザレスが警告したとおり「もらいゲロ」ということも十分ありうる。

宇宙酔いはひどければ数日続くこともあるそうだ。
たとえ宇宙ホテルに宿泊しても、滞在期間中ずっと体調をくずし、寝こんだまま地球に帰還する人も中にはいる。
そんな「失意の旅程」に落ちいりたくなければ、まずはおとなしくして体を宇宙に順応させなければならない。
それがコズミックライン一七二九便の機長の言わんとするところだ。

それでも、だ。
機内の興奮は徐々に徐々に高まっていた。
髪の毛どころか、心臓までが浮かびあがっている。
血管の隅々までが無重力にいることを感じとっている。
なのに椅子に縛られたままおとなしくしていられる人は、果たしているのだろうか? 

ベルトなんて野暮なものは取っぱらって上も下もない空間を泳ぎまわりたい。
乗客はみんなうずうずしているはずだ。
月美もそのうちのひとりだ。
いろいろな国の言葉で「まだかな?」、「早くしろ!」と言う声が聴こえる。
英語以外の言葉はわからないけど、それ以外に今言うべきことがあるのだろうか? 
椅子から飛び出して天井に手を合わせたいのを我慢するのはたいへんだ。

大気圏からの脱出は、月まで行くための第一歩だ。
十九年ものあいだ願い、努力しつづけ、やっと踏みしめた足跡だった。
シートベルトにしばられて打ちあげられただけにせよ、この達成感はなにものにも代えがたい。

重力から開放されたこの瞬間を噛みしめながら、月美は宇宙へ行く準備にあけくれた冬のことを思い出した。
忙しかった。
まずなによりも引っ越しの準備だ。
引っ越しと言っても、やるべきことはたったのふたつだ。
つまり、持っているものを「捨てる」か「他人に譲る」かのどちらかだった。
家財一式をたずさえて宇宙に引っ越すというわけにはいかない。
重力をふりきり、乗客と荷物を宇宙まで打ち上げるには、莫大な燃料が必要だ。
たったの一グラムでもとにかく重量を減らすんだという行為が切実に求められていた。
安全管理の面からも乗客の荷物は少ないほうがよい。
事故を起こせば全滅するかもしれない宇宙では、マッチ一本すら凶器とみなされるのだ。
乗客は荷物をきびしく制限され、せいぜいボストンバッグに入るくらいの物しか持ちこめない。
人によっては体重の減量さえ強制される。
宇宙に行ってしまえば重さはなくなるというのに、だ。
荷物を余分に持ちこみたいなら、その分の費用を払わなければならない。
一リットルの牛乳パックを持ちこむだけで、月美の月給がまるごと吹き飛ぶらしい。

そんなわけで数少ない月美の財産は、ほぼすべて放棄するに至った。
家具も服もティーカップも、飲みきれなかった紅茶や緑茶のコレクションもだ。
借家ずまいのつらいところだった。
とくにアパートへ引っ越した時に買った昭和時代のビンテージ冷蔵庫はなごり惜しかった。
月美は缶ビールと食べ残しの缶詰をしまったくらいだけど、芽衣がキャベツの大玉やミリンの大瓶を勝手に入れていた。
そのことを思い出し、ついこのあいだまで芽衣と一緒に暮らしていたのが懐かしくなった。
他にもボロボロの座卓と座椅子と座布団、使った記憶のない鍋、買ったばかりの白熱電球も捨てなければならなかった。
十九年間使いつづけた洗濯機は最後の最後でついに壊れた。
今ごろはスクラップ工場へ運ばれているのだろうか。

大学の同僚や教授、それと博物館の学芸員たちが、中華料理のレストランを借りきって盛大なお別れ会をしてくれた。
みんなと思い出を語っているうちに、ガラにもなく泣きそうになった。
かつて共同研究をしたこと、学会のあとで飲み明かしたこと、博物館の公開講座に二日酔いのまま登壇して、ひんしゅくを買ったこと……

一番うれしかったことは、子安くんがお祝いの言葉をくれたことだ。
ほんとうにうれしかった。
月美は結婚を断ったというのに、子安くんは心の底から月美を祝福してくれた。
空港まで見送りに来てくれた。
贈り物もくれた。
その贈り物は、月美が宇宙に二つだけ持ちこんだ私物のうちの一つだ。

出発の前日、月美は空っぽになったアパートの部屋を見わたした。
日没の陽が、カーテノンのない窓を通って畳を焼いていた。

ここに引っ越して来たころのことを思い出した。
学生のころ、つまり気が遠くなるほど大昔だ。
その時も部屋は空っぽで、六枚の新品の畳だけが財産だった。
この畳の上で月美の旅が始まったのだ。
そしてたった今終わりを告げた。
次の旅を始めるために。

「どんなに楽しい旅もいつかは終わるんだ。じゃないと次の旅には出られないからね。」

昔、彦丸がそんな風に言っていたことを思い出した。
そのころ彼はまだ十七歳だった。

月美は畳の上に寝転がって夜をあかした。
今年はとくに陽気で、春先でも布団なしで過ごすことができた。
興奮して眠れないことはわかっていたので、どっちにしろ布団はいらなかった。
行ったことのない場所やどこか遠い場所に出かける時、月美はいつも眠れない。

興奮だけじゃない。
不安も頭の中をぐるぐると回った。
私を月に招待したのは、どんな人なのだろうか? 
いい人だとよいのだけど……
どうして私を呼んでくれたのだろう? 
果たして月美は月で成功するのだろうか? 
それとも、箸にも棒にもかからない成果をたたき出し、負け犬として国へ帰るのか? 

月の街はどんなところなのだろう? 
月面には未来の都市があると聞いた。
かつて映画の中で二十三世紀の技術として紹介されたこと全てが実現しているらしい。
月面都市での新たな生活が待ちきれない。

芽衣ともまた会える。
面とむかって話すのは数ヶ月ぶりだ。
またいっしょに料理をしたい。
芽衣のことだから月面料理のひとつでも作れるようになっているはずだ。

それに、なによりも、だ。
私は青野彦丸と再会できるのだろうか? 
いつものことだけど、彦丸の顔を思い浮かべるだけで、懐かしくて泣きたくなる。
鏡工場にこもって望遠鏡をつくったこと、廃墟の天文台を工事して復旧させたこと、彦丸の家で宿題をして、おじいさんの焼いたチェロスを食べたこと。
夏の出会い、冬の別れ……
思い出が胸をしめつけ、月美は身もだえしながら夜を過ごした。

あのころと比べて自分は成長したのだろうか? 
ビールとタバコを好きになったし、人間としてダメな部分もできたけど、あまり変わった気がしない。
こどものままだ。
彦丸は月美をひと目でわかってくれるのだろうか。
たぶんわからないだろう。
月美だって大人になった彦丸の姿を想像できない。

「もう一度あの人のとなりに立つためならなんだってやる。」

そう思って月美は努力を続けた。
昨夜はそのことを改めて誓い、畳にねころがって、天井を見つめ、そしていつしか寝入った。
ちょうど二十四時間前の話だ。
それまで湿った畳で寝ていたのに、いまは高高度旅客機のリクライナに寝そべっている。
信じられないことに、貧乏な月美が、宇宙までかっ飛ぶ時代の最先端機に腰をすえているのだ。

月美は機内を見据えた。
うん、褒めるところしかない。
清らかという言葉をそのまま壁紙にして貼れば、こんな場所になるのだろうか。
全面が白色の機内は、乗客を宇宙船にいる気分にもさせるし、歯磨き粉のチューブ内にいる気分にもさせる。
おなじ白色でも、アパート備えつけの便器とは対極にあった。
百年ほっておいても機内にはカビひとつ生えてこないはずだ。
リクライナも白い革張りで、腰から背中まですべて包みこむような座り心地だった。
このまま眠れば、歯医者の診察台で受ける歯肉マッサージの夢を見られるだろう。
足元や天井を照らす浅緑の光の帯は、ミントの香りがしそうだった。

高度四〇〇キロ、宇宙航路アルファ・ゼロを行くこの船は、コズミック・ライン社の一七二九便だ。
百年の開発期間を経て、人類一世紀分の情熱と執念をつめこみ、やっと作りあげた高高度旅客機だ。
飛行機とおなじように滑走路から飛びたち、そのまま衛星軌道まで上昇し、最後は大気圏に突入して帰還するという。
凍てつく宇宙空間も、灼熱の大気も、船の中にいればなんてことない。
まさに「どこ吹く風」だ。

大気圏からの脱出を可能にさせるのは、機体の後方にあるふたつのエンジンだ。
高高度旅客機はジェットエンジンとロケットエンジンを切りかえて宇宙まで達する。
ジェットエンジンは地上から空まで行くのに必要だ。
ロケットエンジンは空から宇宙まで行くのに必要だ。
お尻に二種類のエンジンがついている乗り物なんてそうはないだろう。

一七二九便のクルーたちが、安全点検のため客席のあいだをすべっていった。
ほんとうに体が浮いていたのでおどろいた。
髪の短いアフリカ系女性のクルーが、天井に沿って滑空している。
座席のあいだに浮遊物がないか確認しているのだ。
月美が食い入るように見ていると、クルーと目があった。
クルーは微笑んだ。
海の底で寝転んでいたら、マンタが真上を横切ったような、そんな気持ちになった。

とてもなめらかで冷静な無重力遊泳だった。
体が浮くという異常事態にも「私はもう慣れていますよ?」といった具合で、誰も彼もがほこらしげだった。
みんな濃い青の制服を着ている。
地球の海のような服だった。
乗客は何も言わず、その様子を見まもった。
静かな……とても静かな時が流れた。

乗務員たちが視界から消えると、間もなくシートベルトサインも消えた。
空気が爆発した。
「待ってました」とばかりに、カチリ、カチリと、ベルトを外す音がなった。
通り雨がトタンの屋根を打ちつけたかのような音だった。
月美も急いで硬いベルトを外して、雨のひと粒に加わった。

魚の群れがいっせいに水面を飛びはねたみたいに座席から乗客たちが飛びだした。
それから歓声が聞こえた。
月美も笑いたくなった。
なにしろ自分の体が宙に浮いているのだから。

それからは大混乱だ。
みんな無重力で遊び始めた。
東南アジアから来た女の子同士が手で押しあって、二人ともとんでもない方向へ飛んでいった。
スラブ系の青年がコマのように回転し、止まることができずに助けを求めていた。
人生初の宙返りに挑戦しようとして、そのまま天井に衝突したアホもいた。
ぶつけた頭を抱えながら月美は自分の席に戻った。
みんな腹を抱えて笑っていた。

一方で、迷惑そうにしている人たちも少なからずいた。
彼らがどういう人なのかピンときた。
「自分たちは子供っぽくはしゃぐ必要はない」と余裕の態度でその貫禄を示している彼らは、きっと宇宙旅行の経験者なのだろう。
月美の隣りにいるアフリカ系の男性もそうにちがいない。
悠然とリクライナに座り、ニュースを読みふけっていた。

肌の黒い大男だった。
黒に近い濃紺のジャケットに、白い光沢のあるシャツを着ていた。
ジャケットはシルク入りのウールで、靴も律儀そうな黒の革製品だ。
ただ、ネクタイだけは南アフリカの派手な国旗柄だった。

この男の宇宙訪問の目的はビジネスなのだろう。
ほかにもあきらかに観光目的でない者は何人もいたし、なんなら、くたびれたジャケットを着た町工場のおやっさんのような人(月美は鏡工場を経営する父親のことを思い出した)もいたが、彼らはみんな一様に静かだったし、周囲にも静かにして欲しいようだった。
月美もひねりを入れながら宙返りをして、天井で最高難度の着地を決めようと構えてはいたけれど、となりの大男がわざとらしく咳払いをするので諦めざるをえなかった。

一七二九便のクルーたちも、無重力ではしゃぐ乗客たちに呆れていた。
ただ、クルーたちは慣れた様子で(きっと毎度のことなのだろう)、平泳ぎしていた大学生をきつく注意したり、どこかに行ってしまった乗客の指輪を探したり、空宙で慌てふためく人を降ろしたりして、事態の収拾を図っていた。
それでも乗客のひとりが、これまでだれも思いつかなかったような回転を加えて宙返りをしているうちに、ついに宇宙酔で体調をくずしてしまい、あたりはいっそう混乱した。

あまりにも騒がしいせいで、チリ・ゴンザレスのアナウンスを聴き逃してしまった。
機長はプラネタリウム・モードに切り替えるだのなんだのと言っていたけれど、月美にはよくわからなかった。
さすがにはしゃぎすぎだと、月美は思った。
けれど、ある出来事によって混乱はいっきに収まってしまった。

いきなり電灯が消え、機内は白から黒になった。
ミントグリーンの補助灯だけが残っていて、それ以外はなにも見えなかった。
乗客たちはおどろき押し黙った。
月美もリクライナの手すりを強く握った。

灯りだけではない。
壁も天井も消えた。
高高度旅客機が姿を消してしまったのだ。
月美は機体から放りだされたのかと思った。
じっさいは、機内全面の壁紙スクリーンが周囲の世界を映しているだけだ。
周囲の世界、つまり宇宙空間だ。
なるほど、これがプラネタリウム・モードだろう。
乗客たちをおとなしくさせるための「とっておき」にちがいない。
まるで夜の船の上にいるみたいだった。

もはや暴れている場合ではない。
目と鼻の先に死の世界が広がっていて、それは誰にとってもそうであるように衝撃的だった。
宇宙はこれ以上ないほど暗く、恐ろしいところだった。
目を固くつむったて、これよりかは明るく、楽しげだろう。
またたく星々は、人が想像したどんな地獄をもしのぐ灼熱の天体なのに、ここまで届く光は頼りない。

月美の視界には、南アフリカの国旗ネクタイをつけた黒人がいた。
男は、この状況にもいっさいの関心を示さず、リクライナに寝そべったままだ。
ほんとうに宇宙空間でくつろいでいるように見えた。

乗客の大半は、月美と反対側を見つめていた。
月美がそちらに目をやると、夜の地球が映しだされていた。
濃紺の絵の具のようなオホーツク海が見えた。
夜空の下では、ロシアの港町が小さな光を放っていた。
そのはるか向こうでは、シベリアが地平線を描いている。

地球が丸いということを初めて実感した。
すごい迫力だった。
地球に吸いこまれて、落ちてしまわないのが不思議なほどに。
地球を見ながら涙する者もいた。
恐怖、感動、あるいはその両方の感情が体の中でまじって収まりがつかないのだ。

クルーたちは、おとなしくなった乗客たちを座席までおろし、シートベルトを締めた。

さて。
さっきまでのバカ騒ぎもなんのその、高高度旅客機は一様に静まりかえっていた。
ため息や静かなおしゃべり、それとたまに呻き声が聞こえるくらいか。
宇宙酔いが蔓延しはじめたのだ。
初めて宇宙にやってきた乗客たちは、青ざめながら自分の座席にしがみついていた。
地面をなつかしむ声がもう聞こえてきた。
クルーたちはせわしなく乗客たちの間を行き来して、強力な酔い止めと水を配っていた。
国旗ネクタイの男は、そんな様子をあきれながら一瞥した。

一方で月美は変わらず元気いっぱいだった。
月美は、宇宙の洗礼「宇宙酔い」を受けないで済む数すくない例外のひとりのようだ。
天井に映しだされた地球の海をリクライナで優雅に眺め、それでいて、ちょっとした優越感にひたることもできた。

月美たちはすでに南大西洋の上にいた。
昼の海は、まるで覚醒したかのような青だった。
ついさっきまで夜のオホーツクにいたはずなのに、いつの間にか地球の裏側まで来てしまったのだ。
ただ座っているだけだというのに、こんなに興奮する旅は初めてだった。
でも、こどもの時からずっと疑問に思っていたことだけど、楽しい時間ほど早く終わってしまうのはなぜなのだろう。
もう目的地についてしまった。
乗客たちがざわめきだした。
月美は旅客機の進行方向に目をやった。
乾ききった荒野の中で、隠された城塞を見つけてしまったかのような驚きだった。

ふしぎな建造物が浮かんでいた。
地球では考えられないほど巨大で、しかも細長い建物だった。
青白いロウソクのようにも見えた。
建物には大きなガラス張りの区画があった。
宇宙を臨む展望台にちがいない。
先に到着した旅行者たちが月美たちの到着を見守っているのだ。

旅客機は減速しながらロウソクの底まで回りこみ、建物が備える宇宙港へと慎重に進入した。
ここはラグランジュ城。
衛星軌道上にある唯一の観光施設だ。


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