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月面ラジオ { 16: "月美の青春の終わり(2)" }

あらすじ:30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。

{ 第1章, 前回: 第15章 }

その夜、月美は決意せざるをえなかった。

いや、だいぶ前から心に決めていたことを思い出し、改めて決意しなおしたと言う方が正確かもしれない。

月美は、自分の思いの丈を彦丸に伝えることにした。
はっきりと本人の前で自分の願いを口にするのだ。
彦丸と一緒にいたい、と。
彦丸がどこへ行こうとも、私も一緒についていく、と。
アメリカでも、月でも、宇宙の彼方でも、インドでも、どこであってもかまわない、と。
彦丸がいなくなってしまう前に、月美は彦丸を自分のものにして、自分は彦丸のものにならなければならない。
もうそれしか生きる目的がない。
そんな風に言い切れる決意だった。

ただ、うんざりすることもひとつあった。
月美の受験勉強だ。
もちろん自分の思いを伝えるにあたって、高校に行ける、行けないは関係ない。
けれど同じ学校に通えれば、二人で過ごせる時間は格段に増える。
ゆるぎない事実だ。

月美はうつ伏せの状態から顔をあげ、机の上に置いた答案用紙をみた。
さっきから模擬試験の問題にとりくんでいるのだがさっぱりだ。

答案用紙の輝くような白さに泣きたくなった。
たかだか紙きれ一枚に、自分はなにも成し遂げることのできない人間だと告げられているようだ。
自分はいまも昔も努力が足りないのだろうか? 
努力をしているつもりなのに、結果はどこを探してもついて来ない。

どうしよう? 
このままでは落ちてしまう。
月美は泣きそうだ。
こんなにつらい思いをしているというのに、その努力がすべてムダになってしまう。
お父さんやお母さん、それに陽子、彦丸、子安くんが月美のことを応援しているのに、その期待に応えられなかった自分の姿を想像するといたたまれなくなる。
すべてを投げ捨てて逃げ出したいと何度願ったことだろう。

月美は石でも詰まったような胃袋をさすった。
お腹がいたい。
吐きそうだ。

まさか受かるとは思わなかった。
案外やってみるもんだな。

昨日の雨の水たまりがまだ残っていたけれど、月美はそれを大胆に飛びこえて道を走った。

「知らせなくちゃ。」

そんな使命感だけを胸にして。

青野邸へ向かう道中、いつもと同じ朝のはずなのに、この日だけは違うように見えた。
コートの上から感じる日差しはわずかに春を帯びていた。
街を囲む常緑の森は昨日よりも確実に緑を増し、踏みしめるアスファルトの道はたくましかった。
自動販売機でさえ、なにやら立派な人のように思えたものだ。

朝がこんなに明るいものだったなんて。
勉強のしすぎで月美の眼球は濁っていたのだろう。
でも、そんなことはもうどうだっていい。
通いなれたこの道のりなら、目をつむっても歩けるという自信がある。

月美は、朝焼けの中を駆けぬけた。

「ねぇ! うかったよ!」

彦丸の部屋に入るなり月美は告げた。
でも月美の喜びの声は、おどろきと呆然の声にとって代わった。
彦丸の部屋には、たしかに彦丸がいたけれど、それ以外の何もかもがなくなっていたからだ。

いや、「何もかも」というわけではなかった。
ひとつだけ例外があった。
二年前に月美たちのつくった手作り望遠鏡だけが部屋のすみに残されている。

ただ、それ以外の何もかもが、ほんとうにないのだ。
あんなに大切にしていた本も綺麗サッパリ消えていた。
掃除も済ませているようで、部屋にはほこりひとつ落ちていない。
天体望遠鏡があり、その横に彦丸が立っていて、それだけだ。

もともと物の少ない部屋ではあったけれど、家財一切の消えた空間は不気味だった。
彦丸でさえ幽霊のように思えた。

「どうしたの?」

月美は恐る恐る部屋の中に入った。
木の床がきしみ、イヤな音をたてた。

「部屋の模様がえにしては大胆だね。いろいろなくなってるし……」

「引っ越しの準備をしていたんだ。」
 彦丸は言った。
「あとは、あの望遠鏡を子安の家に届けにいくだけだ。それでほんとうにすっからかんだ。僕も望遠鏡もここから消えてなくなる。」

「うそ……」

それ以上言葉が続かなかった。

「僕はアメリカに行く。明日、出発だ。」

「そんな……急すぎるよ。」
 月美は言った。
「学校はどうするの?」

「もう辞めたよ。」

「おじいさんは?」

「草葉の陰で応援してるってさ。」

「ひとりで行くの? どうやって生きていくつもりなの?」

「住む場所だけは確保した。この前、アメリカによってアパートを借りたんだ。世界一周するついでにね。父さんの昔の友人に会って、部屋探しを手伝ってもらった。僕はアメリカの社会保障番号を持っているし、後見人もいたからすんなり決まったよ。家以外は……まあ、向こうについてから考えるよ。」

「どうしてそんな大切なことを教えてくれなかったの? こんなに早く行くなんて聞いてない!」

「月美は受験勉強の最中だった。」

「彦丸といっしょにいたかったから……だから頑張っていたのに。」

「言っただろう? 楽しいだけの旅は終わったんだ。宇宙へ行くためには、もう一秒だって時間をムダにはしたくない。」

「ムダ?」

月美は愕然となった。
私は彦丸と大切なことを共有したかっただけだ。
いっしょにお茶を飲むような時間とか、いたずらした秘密とか、そういったとても些細な日常を。
でもそういったものは要らないと彦丸は言い切ってしまう。

「ねえ……どうして、私をそばに置いてくれたの? 私は役立たずだったのに。」

「君が僕を好きでいてくれるからだ。」
 彦丸は言った。
「僕も君のことが好きだ。」

なにを言っているのかさっぱり理解できなかった。
たった今、ひとりで外国に行くと言った男の言葉とは思えない。
大切なことをすべて一人で決め、ただのひとつさえ相談しなかった者の言葉ではない。

「月美……」
 彦丸はただまっすぐ月美を見つめ言った。
「いっしょに来ないか?」

「ふざけるな!」
 気がつくと月美は叫んでいた。
「行けるわけないだろ! 子供だけで! 外国なんかに!」

そばに手頃のものがあれば、それで殴りつけていた。
この部屋が空っぽでなければそうしていただろう。

月美が怒鳴っても、彦丸は黙ったままだった。
沈黙はしばらく続いたけど、月美の興奮は冷めなかった。
心臓が早鐘をうつ。
それを痛いと思いながら、月美は頭のどこかで冷静さを保ちながら言葉をつむいだ。

「ねえ、もし私のことを少しでも大切に思っているなら……ここに残って……まだアメリカに行く必要なんてないはずよ。」

彦丸はただのひとことも答えなかった。

「ああ……」

月美はうめいた。
この時、彦丸との永遠の別れを悟った。
月美は、彦丸のことを知ったつもりになっていたけれど、今この瞬間はじめて彦丸がどういう人間かを理解できた。
彦丸は月美のことを好きだと言ってくれた。
でも宇宙ほどではない。
彼は宇宙にとりつかれている。
宇宙に行くためなら犯罪すらやってのけるかもしれない。

月美はそんなことすらわかっていなかった。
彦丸と私との間には、地球と月の間よりも深い溝があったのだ。
今になってやっとそれを認めることができた。

月美はふり返って彦丸の部屋を出ていった。

次の日、月美は思いがけず彦丸を見かけた。

学校にむかう電車を待っている時だった。
線路をはさんで反対のプラットフォームに電車が到着した。
東京へ向かう電車だ。
そこに彦丸がかけこんで来た。

空がやっと白みがかった朝の時分で、ふたり以外だれもいなかった。
月美は夜に眠れることができず、始発の電車に乗って学校へ行こうとした。

彦丸は、月美に気づいていなかった。
こんな朝早くに人がいるとは思わなかったのだろう。
それとも今の月美が幽霊みたいで目にうつらなかったのだろうか。

他にだれもいないのに、彦丸は車両の壁によりかかって立っていた。
荷物はショルダーバッグひとつだけだった。
出会った時は崩れそうなほどの荷物を抱えていたのに。

プラットフォームに立ちながら、月美は彦丸の顔を眺めていた。
これが最後の時間なのだと思いながら。

電車は駅に留まったままで、しばらくし出発しなかった。
時が止まったような時間だった。

どうかこのまま止まっていてほしい。
話せなくたってかまわない。
私は、大好きだった人の横顔を眺めていたいだけなのだから。

「どんなに楽しい旅もいつかは終わるんだ。」

彦丸の言葉を月美は思い出した。
思い出したとたん、プラットフォームでベルが鳴った。
月美は跳びあがりそうなほど驚いた。
まもなく電車は動き出した。

月美は思った。
いまプラットフォームから飛び降りて彦丸の名前を叫んだら電車を止められるのでは、と。
そうすればまたあいつの横顔を見ていられる。

動け、と思った。
叫べ、と思った。

かきむしりたいような感情の高まりを覚えながら、しかし月美は動けないでいた。
電車が行ってしまう。
ふたりの距離はどんどんと離れていく。

「動け」と月美は願った。

月美は動けなかった。
電車は大きな弧の軌道を描きながら走りさった。
あとは車両が小さくなっていくのを眺めるだけだった。

終わらないでと願いつづけた少女の時代は、あっけなく終わりを告げた。
この日から彦丸とは会っていない。

それから何年かしてあいつが月に行ったことを知った。
それ以上のことはわからない。
知りたくもなかった。


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