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共感はしなくていいが、譲歩はあった方がいい。

わたしは人は分かり合えない、と思っている。

そして、まずは分かり合えないことが前提である必要があると思っている。


わたしの母親は自分の信じる正義が強すぎるタイプで、「家族なんだからこうあるのが当たり前だ」という押し付けがヘビー級だった。おかげで母以外の家族は彼女の正義に苦しめられてきた。私は彼女の押し付けがましい「こうあるべき」に何度怒りを覚えたか……具体的なエピソードを話すと弊家族の不和のヤバさが露呈するので割愛するが、数えるのは無駄でしかないので忘れることにした。

その積み重ねの人生のせいか、個人を尊重できない人からの「あなたのことを思って」という言葉の地雷さにすっかり敏感になってしまった。


それはさておき、犬養毅は「話せばわかる」と言い残してこの世を去ったが、実際、話しても分かりえない人同士が存在するのは確かだ。
(私にとっては話してもわかってもらえない存在の最たるがうちの母である。)

ただ、社会生活を営む上で、一人で生きていくわけにもいかないので、やはり誰かと意見を突き合わせていくことは避けられないのだけれど、そこに必要なのは「共感」ではなく「譲歩」なんじゃないの、と思っているという話だ。

関係性が近ければ近いほど分かり合えないことが前提であった方が最終的に平和でいられるんじゃないか、というのが私の考えである。

家族であっても友達であっても、それぞれ一生物個体として独立した生き物である限り、お互いの考えや気持ちが100%シンクロしてイメージできていることなんてありえない。

いくら気が合う部分があったとしても、全てに於いて「共感」することはとても難しいことなのだと感じている。


ただ、共感はできなくても譲歩はできる。

世の中、何かの意見が通るときは、ほぼ誰かが何かを譲歩している。何か意見が通ったとき、対する相手が表向き反論をしていなくても、たとえ共感していたとしても、割合こそあれ譲歩していることがほとんどだ。


ただし、譲歩をするとき、「力関係」で譲歩する側が偏ってしまうことには留意しなければいけない。

譲歩はいつだって弱い方が飲み込む役回りになってしまう。どちらかが譲るのではなく、どちらも譲る姿勢を第一にできればいい。

弱い一方が譲歩し続けることは、自己効力感の低下に繋がり、円満な状態だとは言い難い。いつしかそれは、譲歩ではなくあきらめに変わってしまい、健全ではない。いつかその関係は綻んでしまう。

お互いの正義(100%)をぶつけ合い、いずれかを決定するのではなく、お互いの20%、50%、80%と少しずつ理解し合える部分を積み上げていったほうが「合意できる部分がこんなにもある」と喜べる気がするのだ。

つまり、わかり合うための共感は実はあまり必要なくて、分かり合えない部分をいかにお互いが譲歩し合えるか、が関係性をうまく作り上げる重要なポイントになるんだと思う。
(※共感を否定しているわけではなく、共感が生む素晴らしい効用や、共感が必要なシーンはある。ただ、一つの決定事項が必要な時に不要だ、という話だ。)

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