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わたしがnoteに何か書くまでの「思考の通り道」

今朝からいまに至るまで、気に留めたことってどのくらいありますか?それって思い出せますか?
例えば今朝の私。信号待ちで目の前にいたサラリーマンの香水の香りに気づき、「どこのブランドの香りだろう?」から始まり、「この人はなぜ香水をつけているのか、そもそも柔軟剤の香りじゃなく香水の理由は?体臭対策なのか、女にモテたいからなのか、単にオシャレが好きすぎる人なのか、もしかしたら外国育ちなのか?!」と一人妄想を繰り広げておりました。
人が作ったもの、人の行動に関することには何かしら理由があるし、自然に関することでも取り上げられるトピックになりうるネタがたくさんある(ハズ)。目に映るもの全ては、ネタである。自分の視点に気づくことが「書く」の第一歩だよねと思いっていました。

最近わたしは毎日書いています。それも、日記とかのレベルじゃなく、わりかししっかりテーマがある内容で必ず2000字くらいのボリュームで書いてしまいます。自分でも「よくもまあ、こんなに書くことあるな……」と思ってて、不思議でなりません。

昨晩、いつもわたしと仲良くしてくれてる僧侶女子あずみちゃんから、どうやって物事見てるんですか?!(正確には多分違う……汗)と問われたので、考えてみることにしました。
多分特別な視点はありません。

心配性で小心者なので、情報収集と万が一の保険プランの準備に余念がなく、自身で決断したものは選んだ理由をいちいち語れてしまう

多分わたしの場合はこれに尽きる気がするんですが、情報収集段階で目的があることが多く、いかに損せず、自分に利益がある形で決定を下せるかにかなり心血注いでしまう性格で、それはもう入念に検討してしまうんです。
その結果がわたしの行動であって、その行動一つ一つに理由があることが多く、「なぜ?」を問われても答えられることが多い気がしています。

頭が暇な瞬間は、常に直近の行動を思い返し、それの解説を考え始めてしまう

自分の行動に背景や理由が明確にあるケースが多いので、「なんでそうなっちゃったのか」と振り返れば、大抵理由が見つかります。
暇になるとよく、自分自身の行動を振り返って言葉にすることで、どこにいても何もすることがなくても、常に自分が話し相手。一人遊びが得意になってしまいました。
大抵なんかしらぼんやり考えていられるのでありがたいです(笑)
そして、日頃あまり人から褒められなくて寂しいので、「自身を認められるのは自分のみ!」の精神から、選んだものや下した決断に確固たる言い訳を用意したがり、行動を正当化し、それを自分自身へ説明している気がします。

それがうまくいくと、すぐ人にも教えたくなるのでツイッターに出力し、言葉を整理している感じなのかな、と。

自意識の部屋に閉じこもる瞬間を知ってる

また、わたしが思考を整理しやすくなっている時間も明白。
自分自身との対話に集中してしまうのは、「無意識に手足を動かし、外側からなんらかの刺激を受けていられるとき」。つまりは通勤中、散歩中、シャワーを浴びてる間、ご飯を食べてる最中。
慣れた場所や、慣れた行動をしているとき、意識しなくてもできる行動をとるので、肢体やそれに付随する感覚が一旦封印され、使える器官が限定されます。
限定されたインプット可能な感覚が敏感になる一方で、その瞬間感じたことを一度は言葉にしようとしはじめる。自分の意識が自己の部屋に閉じこもるのがなんとなくわかるというか、意識が特定の感覚に集中して向くタイミングであり、色々閃くように思います。
この時間があれば何か考えが浮かぶのも知ってるので、意図的にこの状況を作ることである程度出力に近づけています。

「手で書き出す」が頭を整理する

ここまでくると、わたしの頭の中に、キーワードがかかれたメモが散乱して、出口付近に蓄積してしまっている状態。こっから外へ取り出して目に見える形で整理しないと、そもそも何をどう考えていたのかがわからないまま見失うか、「文章」として構成されない文字列に……
簡単な相関図を書いたり、言葉の語感を確かめたりしてメモに残しておきます。

このときのメモ置き場は主に「手帳」とスマホのメモアプリ。常に持ち歩いているので暇になったら「昔どんなこと考えてたっけ〜」とペラペラめくって過去の自分の思考と再会したりしています。ネタに困った時もめくればネタが出てくる出てくる。この時間が案外楽しい。
そして、文字にすると大したこと考えてないな、ってことにも気づかされます笑

自己との対話ではなく、他者とのエア対話に集中する機会がある

日々の生活を営むことで自然と言語化される行動が多い一方で、通勤中や移動中によくやってしまうのが、意味もない情報収集。
わたしは情報収集がめちゃくちゃ好きで、役に立とうが立たまいが、とにかく目に触れたら対象として取り込んではそれが持つ見えないストーリーやバックグラウンドを想像して一人ニヤニヤするという趣味?があります。(ヤバいやつですかね……)
そこに目の前の他人の人生を感じたり、社会問題を汲み取ったり、企業のマーケの意図を読んだり、過去や未来を想像する(もはや妄想レベルだけど)。そういう遊びを繰り返していると、色々と語りたいネタにぶち当たったりしてきました。
この記事は通勤電車での気づきが文章になったもの。


第三者の視点。自分の感情が揺れる瞬間を自身の感情として表現しない。

実はわたし、主観に寄り過ぎるのが苦手で、自分の感情の解説があまり得意ではありません。エモいと言われる文章がかけるタイプではないので、まず自分の感情を他人や特定のペルソナに置き換えて考え、自分の感情は一度排除して客観的に解説してみたりします。
この時役立つのが「ドラマ視点」
わたしは毎クール、アホほどドラマを見るんですが、感情を扱う文章を書くときは大抵脳内でドラマ化したらこんな映像、みたいなのを想像しながら書いてみたり。

そして、なぜだか自分でも良くわかんないんですが、なぜだか時折目に映る景色が映画やドキュメンタリーの動画を見てるような感覚で目に映り、頭の中でナレーションつけたりしてます。大抵このときに「美しい」ものを見つけている気がします。

このとき、どんな解説つける?って考えるのが結構楽しくて、目に映った対象物を分析し始めるんですけど、考えの糸をたぐり始めると「あ、これ書けるわ、そういやあのネタと一緒にしたらいいかも」とどんどん繋がっていくことがよくある。

結論、自己と自分以外の世界を反復して、見える世界をアップデートしていくことで自分の視点の多様さに気づく気がする

どう頑張ってもわたしはリア充にもパリピにもなれないので、彼らの見てるもの、感じている感覚は知り得ません。
そのかわり、わたしが考えたこと全てはわたしの視点であって、その一つ一つを丁寧に分解していくとそれは「わたし」という究極のマイノリティの視点になります。

それがつまらないものなのかどうかは、他人が決めることだから、考えたことは一度表現すれば良いと思うんです。
ただ、その内容の「深度」は、やっぱり他の世界が見えていた上で描写していると、より説明に深さを生むことができるし、説得力がある。
例えば、沖縄で「海が青い!」と思っても、青の色を1つしか知らない場合と、5つ知ってる場合では色の説明の仕方が変わりますし、見たことがある海の姿も雨の日、晴れの日、太平洋、日本海、瀬戸内海、砂浜からのビューと船上からのビューなどを知っていれば、自分の中で「海」という存在がモンタージュされて言及できることが変わってくるはず。

芯を掴むには「過ぎたる」方がいい

いかに説明対象のサンプルを持つかということなんですが、そのサンプルの輪郭を明瞭にするには「同じものの過剰摂取に尽きる」という私なりの結論にも辿り着いています。

先日、「過ぎたるは及ばざるが如し」とかなんとか書いたけれど、結局はサンプルをいかに体内に蓄積するかってことはかなり重要で、「やり過ぎる」というのは実はとても重要な癖なんじゃないかなと思っていて。
何事もウンザリするまでし尽くさないと、何が普遍、何が芯なのかわからない。サンプルの過剰採集は芯を掴みに行く準備のひとつなのです。

同質か異質、まずはどちらかにフォーカスしてみる。

最後に、日常で発見をするには、「何が同じで、何が昨日とは違うか」を意識してみるということ。みんなが「何か書けるような出来事が無い」と思っている日常においても、毎日同じ基準や同じ対象物を見ていると、同じことの中にも差分はあることに気づきます。100%同じ生活をできる人なんてこの世にいないですし、自分以外の世界なら尚更、自分のコントロール下にありません。

それは天気かもしれないし、自分の気分かもしれない。道で出会う人かもしれないし、食べたご飯かも。
「そんなこたわかってるけど、面白い視点に気づけないよー!」という人は「同じ」を意図して作ってみればいいんです。毎日同じデザインの服を着て、同じ道を通って、同じものを食べる。そうしたら簡単に日々の違う部分(差分)があぶり出されます。

何一つ同じはない、でも差分の中で重なる同じに芯があり、真理があり、普遍がある。そこを見つけると「面白い視点」になるんだろうなと。私ができてるのかというのは棚上げですが。

長くなりました、なんの話なんでしょうね?笑
明日は晴れたらいいなあ。

(雨の続く関西にて)

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