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見えない不自由があっても生きづらくない社会って実現できるのかしら

先日SNSを見てて

「明らかに妊婦さんが目の前に立ってるのに、優先席に座ってる若い人が無視して座り続けていた、そういうの許せない」

的な投稿を目にして、それがそこそこ発言力のある人のツイートで、また、その意見に賛成するこれまた発言力ある人たちのコメントがあり、それらを見ててちょっともやっとしたので書いておこうかな、と思って書いています。(わたしのTwitterとか見てる人は何度も言ってるからまたこの話か、て思うかもしれませんが)

不自由は必ずしも第三者から目に見えるわけではない。

いわゆる「優先座席」を他者から譲ってもらえる人というのは「目に見えて不自由な人」だということ。

目に見えて不自由っていうのはわかりやすく、誰かが手を差し伸べてあげられるチャンスがあります。ただ、この社会には、「外見から判断できない不自由な人」も目に見える不自由を持った人と同じかそれ以上に存在してる。そのことをもっと理解できる人が増えたらいいのに、と思っています。

たとえ身体障害手帳を持っていても、外見からは判断できない若くて元気そうな人だっています。

障がい者として生きていない人であっても、一時的に骨折してて電車で立ってられない人だっているし、妊娠してなくたって、体調が死ぬほど悪くて立ってられない状況の人だっているし、つまりは「この人は思いやりをもって接する方が良いかどうか」を外見だけで判断できるのってごく一部なんじゃないの?ということ。

私はラベリングされることが悪いことだとは思っていません。それによって生きやすくなる人、救われる人が生まれるのであれば、です。
一方で、ラベリングされない/ラベリングできないことによって、利益を享受できない人がたくさんいます。(優先座席の問題はその氷山の一角でしかないです)

もちろん、その妊婦さんの目の前に座ってた若い人は、果たして若くて元気で、不自由もないのに思いやりがなくて傲慢に座席に座り続けていた人なのでしょうか。思いやりのない自己中心的な人の可能性もありますが、そうとも言い切れないと私は言いたいのです。

そこの真偽は定かではありませんが、外見だけで判断できないことってあるよね、ということは伝えていきたいなと思いました。「見た目で判断できることはごくわずか」ということを少しでも頭の片隅にとどめている人が増えれば、正しさを振りかざして目の前の人を圧することがなくなると思うんですよね。

最後に、わたしのここ数年の持論は、不自由の可視化ではなく、思いやりや善意の可視化をしていく方がいいのではないか、とずっと思っています。

たとえ善意があったとしても自ら席を譲ったり、お手伝いしましょうか?を伝えることだって勇気がいりますよね。善意を提示することに躊躇する人がいるように、不自由がある側が「助けてほしいです」を提示するのも、結構勇気のいることだったりします。

もし「助けてあげられますよ、気軽に声かけてくださいね」という気持ちが見えるならば、少しは「お願いできないでしょうか?」と助けを求め安くなると思うんです。見えない不自由を可視化するのではなくて、むしろ善意をもって接することができますよ、という人を可視化できる社会にしたいと思っていて。

マッチングは、片側だけが発信を頑張っても成立しません。
お互いに意思表示をしあえた方が絶対に効率もいいし、優しい気持ちでいられると思います。

優先座席は、健康だったり不自由がない人が座ってはいけない席ではないと思っています。困っている人に「どうぞ」と言える人が座れる場所としてみんな堂々と座ればいいし、たとえどんな人がそこへ座っていても批判されなくなる社会になればいいなと思うこの頃です。

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