はっちゃんのお弁当

私は今妊娠5ヶ月。体調と職場との兼ね合いで仕事量を減らしたため時間はある。空いた時間に夫の部屋にあった前田裕二さんの『メモの魔力』を読んだ。
特別付録の『自分を知るための【自己分析 1000の質問】』をやってみようと取りかかった。
体調も落ち着いてきて出産までまだまだ時間がある。何より出産後の自分の仕事や生活(大きく言うと人生)をどうしたいのかを見つめ直したいと思ったのがきっかけだ。
この1000の質問は、1個の質問につきノートを見開き1ページ使って答えを書き出すと言うもので、とても時間がかかる。
しかも、幼少期の記憶を思い出ししたりしなければならず、覚えてなくて答えの書けない質問もあった。
早くも3問目位で、「こんなんやる意味あるのー?時間の無駄になったら嫌だなー」なんて思った。
でも、ここで辞めたら結局何も続けられないままの自分が残るだけ。今は意味がわからなくても、とにかく頭と手を動かして続けてみようと思い書き進めた。

30問目の『高校 理想の食生活は?』の答えを書いているときに、今まで忘れていた思い出がリアルに蘇ってきた。それがはっちゃんのお弁当だ。

私の家は母子家庭で母は朝から夕方まで、郵便局やスーパーでパートをしていた。当時の鹿児島の田舎のパートの時給は680円とかだったので、時々電話や電気が止まることもあった。
父は養育費をあまり払ってくれていなかったので、生活費や教育費が足りないときに祖母に援助をお願いしている母の姿を何度も見た。
母は夜に介護の資格を取るために勉強し、その合間に家事をやってくれていた。
ギリギリの生活の中で3つ上の姉と私を育ててくれて、口には出さなかったがとても感謝していた。
しかし、私は中高生くらいの頃に母の作る料理があまり美味しくないと言うことに気付いてしまった。
ほとんどの料理は素材をそのまま焼く、煮る、茹でるだけで、味付けは塩コショウor醤油+砂糖。もしくは味のついていない出来上がった料理に調味料を各々かける。調味料は塩、醤油、マヨネーズ、ケチャップの4択だ。
ハンバーグやロールキャベツなどの手のかかる料理は成形済みの焼けば(煮れば)OKな商品を買ってくる。もしくはお惣菜か冷凍食品。
18才のときにお土産で貰ったもんじゃ焼きセットを母と作りその美味しさに驚愕し、大学受験で上京したときに初めて食べた松屋のトマトハンバーグ定食の美味しさに感激した。
それくらい母の手料理はあまり美味しくなかった。おそらく母は料理自体がそんなに好きではなかったのだ。
しかし、仕事や勉強をしながらギリギリの生活をしてる母に「ごはんが美味しく無い」とは言えなかった。もし言ったとしても、ひょうきんだが気が強い母は「だったら食べるな」とガチギレしたと思う。
私も時間がある時は料理を作ったりもしたが、当時はネットなんて無かったので、図書館の本を参考に作った。本のレシピは本格的で難しくて全然うまく出来なかったので、結局は母の料理のコピーのようなものしか作れなかった。

私が中学生の時、毎日働きづめで夜は資格の勉強をしている母は高校生の姉のお弁当作りがとても辛そうだった。朝からめちゃくちゃ不機嫌な感じでお弁当を作っていた。
私が高校生になった時、姉の時よりも早い時間(6時〜7時)に家を出なければならず母にお弁当を作ってと頼めなかった。私も24時過ぎに寝て5時半〜6時に起きる生活だったため、お弁当を作る余力がなかった。
なので、私はほぼ毎日コンビニか購買でパンを買い食べていた。パンは美味しかったけど少し味気なかった。
そんな私の姿を見ていたクラスメイトのはっちゃんが、ある日私の分のお弁当を持って来てくれた。
はっちゃんは部活も同じ吹奏楽部で、小柄で、明るくておもしろくて、マリンバの上手な子だった。お家にも何度か遊びに行っていた。
はっちゃんがお母さんに、私が毎日パンを食べていることを伝えたら、私の分のお弁当を作ってくれたと言うのだ。
しかも、このお弁当でよければこれからもはっちゃんのお母さんが作ってくれると。ひとり分作るのもふたり分作るのも変わらないから手間も全然かからないし、お金もいらないよと言ってくれた。
せっかく持って来てくれたお弁当を受け取らないわけにはいかず、ありがたく頂いた。
はっちゃんのお弁当はお母さんお手製の三色弁当だった。卵とそぼろとインゲンの三色弁当。一口食べると、めちゃくちゃ美味しかった。何で味付けしてるのかわからないくらい美味しかった。
それから2〜3回、はっちゃんのお弁当をもらったが、なんだか、はっちゃんやはっちゃんのお母さん、そして私の母にも悪い気がして、それ以降は遠慮させもらった。
とても優しい友人の料理上手なお母さんの、美味しい手作り弁当を無償で食べ続けることに罪悪感を感じてしまった。
お弁当を食べ続けると、不器用だけど私と姉を育て、必死で生きている母のことを否定してしまってるような気がしたのだ。

母と姉のことは嫌いではなかったが、ギリギリの生活を続けていると、感情の起伏が激しくなる。私は3人での生活にこれ以上耐えることが出来そうもなかったため関東の大学を受験し、進学と同時に実家を出た。
授業料免除申請や奨学金やバイト代と少しの仕送りを駆使して、大学生活を謳歌した。この時も貧乏生活だったけど全然楽しかったし、そもそも貧乏という事に気付いてなかった。
大学卒業後は正社員で音楽系の仕事に就いた。とにかく経済的に自立したいと強く思っていた。楽しくやりがいもあったが7年半で退職した。嫌だと思うことを極力しないで生きていこうと決心した。

そして、実家を出てから15年経った。70近い母は介護の仕事をしながら鹿児島でくらしている。実家近くに姉がいるため私は安心して生活できる。
犬猿の仲だった姉とは、ここ数年でぐっと仲良くなってきた。
姉にはふたりの子どもがいる。
母の料理エピソードを笑いながら話せる夫がいる。
私は今年母になる。
人数は少ないが、かけがえのない友だちもいる。
1000の質問のうち30問しか答えていないけど、今が自分の人生史上一番幸せな事に気づけた。これってかなりの大発見だと思う。
残り970問、、、先は長いけど、大事なことこそ丁寧に継続しようと決めたのでやりきろうと思う。

#大人になったものだ

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