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痛みを希望に変えてゆく

ちょっと気を緩めると乱れそうになる呼吸を、なだめようと息を吸い、メガホンをぎゅっと握った。なのに、吐いた息とともに、ぼろぼろ涙がこぼれ落ちてきた。


雪の香りが近づいてきた晩秋、完成したばかりのピカピカの食品加工所を前に、私は涙が止まらなかった。握るメガホンの向こう側に、みんながいる。
これは夢なんじゃないか?

✳︎ ✳︎ ✳︎

挑戦ってなんだろう。

名の知れた企業に就職してく同級生たちを尻目に
大学を卒業して、そのまま新潟に移住して就農したこと自体は、私にとって「挑戦」ではなかったのかもしれない。


中越地震のボランティアで出会った世界有数の豪雪地であり、限界集落。
そこで「集落を存続させたい」と夢を語りながら生きる農家さんの、痛みを希望に変えていく生き方が眩しかった。そして実際に、集落は限界集落から脱した。

こんな大人になりたい!
私は広告代理店の内定を断り、2011年に就農した。

私の背中を押したのは、
「農業に女男は関係ない。気持ちがあれば、女だって農業できる。おらが応援する」という師匠の言葉だった。師匠と一緒に農業を繋げたい、そして農業が生む目に見えない価値を届けたい…!

ふたり小

始まった新生活は、毎日めちゃめちゃ楽しかった。
ダイナミックに変化する、美しくも力強い大自然、知らない世界をたくさん教えてくれる大好きな師匠、ワクワクする毎日。
住まいも最高だった。
なんせ山の上の、

廃校になった学校の、

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理科室が私の部屋だった。

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空き家がここしかなかった。
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そんな就農する直前まで女子大生だった私。当たり前に、うまくいくことはほとんどなかった。例えば

耕作している棚田の、早朝の水管理。

棚田なので、階段のように上から下へ水路に水が流れていく。なので、よく上の田んぼで草刈りした人の刈り草が流れてきて、下の水路で詰まってることがある。


その日もそうだった。


ゴボゴボと水路が詰まっている様子だったので、いつものように「あぁまた草が詰まってんな」と腕まくりをし、水路にザブンと手を突っ込んで草を取ろうとした。
ところが私の手が掴んだのは

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ヘビだった。

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こんなドッキリ、お笑い番組以外でも体験するなんて……


こんなこともあった。
四国出身の私にとって、雪国の「冬は野菜を貯蔵」「ひたすら塩に漬け込む!」「干す!」「毛布で包む!」などの食文化は頭になく、収穫した秋野菜を体育館に放置していた。結果、

全て腐らせた。

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まだある。なんの信用もない私に、ナスの契約栽培をしてくれたお味噌屋さん。
これだけでも涙が出るのに、


意気込んで栽培したはいいが、


ちゃんと確認したはず。
慎重に計算して、液肥配合したはずなのに、翌朝。


生い茂っていた葉が全て落ち、全滅(地獄絵図)。

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大トリはやはりこれ。

ある日、師匠からお借りしたトラクターで畑を耕運し、意気揚々と師匠の車庫へ戻っていた。トラクターは気持ちい。言わばオープンカーで、春の柔らかな空気と、空から降る鳥の鳴き声をBGMに、高級車にも勝る体験ができる(高級車には乗ったことないので、当社想像比)。

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この日もいつもと同じだった。
いつものように車庫へ戻し、いつものように帰ろうとしていた。


しかし、自分の軽トラへ向かおうとしていたその時。

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背後から、ドーーーンという地響きのような音がした。

「地震かな?」いやいや。
ちょっと嫌な予感がした。
車庫に戻った。すると、

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置いたはずのトラクターがない。


いやいやいや。なんでや。
何が起きたのか全く理解できない。
増幅する嫌な予感を抑えつつ、周りをウロウロしていると

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車庫裏の崖下にトラクターが落ちていた。

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いやいやいや、なんでや。(2回目)
全く理解できない!誰の仕業や!!

この瞬間、農業生命の終焉を悟った。
ここは山地。どこも坂道。なんでも「P(パーキング)」に入れないと、ずるずる落ちてしまうんだったなフムフム……私のせいやないか……。
と冷静になってる場合ではない、これ絶対村八分案件や……(半泣き)


こんな感じで、1年目はひたすら謝るばかりの1年だった。
ただでさえ移住者はみんな、やらかさないように慎重に賢く生きている。ちょっとした失敗ややらかしで、信用を失って地域を出たり、田んぼを貸してくれなくなったり、いろんな噂を聞いていた。
なのに、不器用でぼうっとしがちな私は、通常運転モードでやらかしまくっていた。


しかし、失敗して謝りに行ったとき、やらかしてしまったとき、いつも師匠から同じ言葉をかけられていることに気づいた。

「おい、失敗してよかったじゃないか」


「たくさん失敗するからホンモンになるんだよ」

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「条件が毎年違うんだから、農業は毎年1年生だ!」

お借りしていたトラクターを崖下に落としたときなんて、もう絶対ここでは生きてはいられないと青ざめながら師匠のところに行って

「あのっ、とっ、トラクターが…!!なんというか…崖の下に…!!!(息切れ)」

と、しどろもどろで話したとき

「まぁまぁ、泡食うなって。お茶でも飲んで、ゆっくりどうするか考えようて」と、私を家に入れて薪ストーブの前でコポコポお茶を入れてくれたのだ。


えっ。


……失敗してもいいの?


何が起きているのか、理解できなかった。


思えばずっと失敗しないようにしないように生きてきた。
あるいは、失敗したらそこで諦めて、自ら試合を終了させていた。
私は痛みから逃げていた。
小さなチャレンジたちを継続せず、諦め続け、そうしたら目の前には勉強しか残っていなかった。

結果が出やすい勉強に熱を入れるようになり
高校受験、大学受験では脇目もふらず勉強した。
少しでもいい就職先に行けるように、ボランティア活動に難民支援、アフリカでの勉強と、大学時代もモリモリにいろんなものを詰め込んできた。

それは心からやりたかったことから発露する努力というよりも、社会にとって良さそうなことであったり、少しでも人生にほころびが出ないように高みを目指しておく、みたいな感覚だったのかもしれない。

そうでなくても、学校の外に目をやれば、テレビでもSNSでもちょっとした失敗が誰かの好物になっている場面を目の当たりにする。


こわ。

だから、不完全であることが、怖かった。


なのに私は、就農してから、ほとんどがうまくいかない。師匠はこんな私を諦めないでいてくれる。そして「さぁ、次はどうする」と膝付き合わす。

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何が起きているのだ?

失敗、してもいいの?
失敗しても、怒らないの?

それから、少しずつ「挑戦」というものを意識するようになった。失敗を受け止める覚悟のある一歩一歩が、私にとっての「挑戦」かもしれない。挑戦しよう。地方の過疎高齢化の課題を解決し、持続可能な地域や里山農業のために、本気で農業を事業にしてくのだと。


しかし、ソーシャル全振りで一歩踏み出した私は、やっぱり甘かった。

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「村の承認を得ずに!」
「村んしょはほとんど反対している!」
「もう帰る!話にならない」

1人は席を立ち、集会所のふすまをドンっと閉め、ドタドタと階段を降りて行った。会場はしん、となった。
「おめさんが、村を分裂させたんだ」
「なして、そうなるとい」
また賛成派と反対派で言い合いが始まった…。

移住して7年目、新しく作る干し芋加工所についての地域説明会での出来事だ。

師匠が栽培していたさつまいもがめちゃめちゃ美味しかった。もっとたくさんの人に届けたいと、私も一緒に栽培し続け、2013年から委託加工で干し芋販売を始めた。

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ECサイトを見よう見まねで手作りし、

出張販売や、地元販売を重ね直販を増やし、売り上げがどんどん伸びていった。販路も、さつまいもを栽培してくださる契約農家さんたちも年々増えていった。

「干し芋は地域の農業を支える、特産品になれるかも!」

委託加工ではなく、この地域に加工所を作れる可能性が見えてきた。
地域に加工所ができ、農家にとって長年の課題である冬の仕事が生まれる、稲作以外の収入が生まれる、地域に定住者を増やすためにも、(私がやらなくとも)以前から求められている案件だった。

指導

1年かけて、関係者にも話し、何度も集会所で相談、説明してきた。

さつまいもを作ってくださっている農家さんだけに合意をもらってもダメ。
関係してない農家さんや、農家でもない人たち、つまり住民全員から合意をもらわないと、地域では何もできないのだ。

「私は聞いてない」という人が出てしまった時点でゲームオーバーで、もう取り戻すことはできないのだ。それがルール。

そのルールを外さないように気をつけていたつもりだった。
しかし、時間をかけても、建設賛成派と反対派で、分かれたままだった。

出資をしてもらってるわけでもない。
事業に関わっているわけでもない。
そういう人たちの「事業に対して」ではなく、「私個人に対する」個人的な感情のせいで、本当に頑張ってくれているさつまいも農家さんたちの願いや希望が、踏みにじられるようで、悔しかった。

発言や行動を切り取られ、違った風によその地域にも噂が広がり、正しい情報を説明するのにも疲れてきた。
現場の農作業と、加工所計画や資金調達と、子育てでいっぱいいっぱいだった私は、全く太刀打ちできなかった。(そう、この時私には3歳の娘がいた)

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対話をする中で反対派からは、いろんなことを言われた。


「この集落に住んでいない奴が、地域を語るな(結婚を機に別の集落から、通いで農業を続けていた)」
「おめさん(私)が地域を活性化させた感じになってるのが気に食わない」
「子育てしながら、事業ができるわけがない。農業辞めて子育てに専念しろ」
「結婚したんだから、農業辞めて旦那さんの仕事(家業)手伝え」
「補助金を使って建てるのが気に食わない」
「静かに暮らしたいのに、パートさんが行き来して賑やかになるのが嫌だ」
「こんな山地で加工所や干し芋事業なんかできるわけがない」

勘違いも中にはある。とんでもない言葉の暴力や、嫌がらせやパワハラもいただいた。

移住し、就農した当初から言われていたものもある。
だから、どうってことない。容易じゃないことは百も承知。
「女でもできる。気持ちがあればできる」という、かつて師匠からかけてもらった言葉をお守りに、自分が選んだ道を信じて農業を続けてきた。
しかし、今回浴びせられる言葉は、きつかった。


なぜなら、いつもその場に娘がいたから。

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あんなに袋叩きにされている私は、この子のお母さんです。


娘に怖い思いをさせてしまっている……。
私が感じてきた自然とのワクワクを子どもたちとも楽しみたい、そう思っていたけれど、畑に行くたびに胸がざわざわするようになり、こどもたちも連れて行かないようになってしまった。


これが、私がしたかった農業だったのか?
私が子どもに見せたかった現実や未来はこれなのか?

このあたりから、よく過呼吸になり、眠れなくなり、震えと涙が止まらなくなった。対話が通じないこと、対話さえ拒否されることの繰り返しに疲れてしまった。


ある夏の日の夕暮れ。師匠から電話が来た。
いつもは「あれができてないぞ!」「この作業が間に合ってないぞ!」と厳しい師匠だが、この日はまろやかな声だった。そして「あの件はどうすることにしたんだ」と言った。

ひぐらしの声が高まる。

ハッキリ答えられずモゴモゴする私に、師匠の語気は強くなった。
「大丈夫だよ、やろうと思ったときに、すぐやらなければ、ずっとやれないんだから」「頑張ってチャレンジしてみれ、大丈夫だから」
一言一言、強く、びりびりと電話口から届いてきた。

「そうですね……なんとか」

そう言って電話を切った。
けれどその1ヶ月後、とうとう心と体を壊してしまった。


着工直前にして、加工所建設計画は中止となった。

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「やっぱり正しかったんだって、見返すために、頑張りましょうよ」と行政の方から言われた。「はぁ……でも、もういいです」と力なく答えるしかできなかった。見返す力があるなら、その力を、もう社会の課題や地域のためにではなく、本当の自分の幸せのために使いたい。

誰かのために生きるなんて、しんどい……。

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「なぜこうなってしまったのか」
時間が経って、心も落ち着き、失敗を分析できるようになってきた。

失敗の大きな原因は、私のコミュニケーション不足だった。

経営、栽培、人、もの、お金の管理に、子育て…キャパオーバーだった。
当時いろんなことを言われたが、おそらく彼らが一貫して訴えていたのは「もっと私(俺)を重要に扱ってほしい」ということだったのかもしれない。

少しずつ、出来事を俯瞰して見れるようになり、自分に足りないものが分かってきた。……かと言って、まだまだ、再チャレンジする気は起きなかった。
なぜなら、今まで仕事にフルコミットでワーカホリックだった私は、娘にも同じようなことを言われていたから。
「お母さんは、いつも仕事ばかりだね」と。

うまくいかない理由は分かった。でもどうしたらいいか、わからなかった。

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社員はいなくなった。
取締役も解散させた。
私ひとりぼっちになった。自由だ。

自由にだけれど、何も決められないままだった。
しかし、手放すもの手放したら、新しいものがひゅうと入ってきた。

ごったくさん親子だった。
農家である二人は、私の事務所に訪ねてきた。

「女性農家がチャレンジできる加工所を作りたいと思ってて、かなちゃんがやろうとしてた加工所について話を聞かせてほしいんだ。」

「もしよければ、干し芋加工もそこで一緒にやってみない?」
そう言われたが、当時は(いや、もう農業自体、辞めようと思ってるしな)と斜に構えた。


2人が帰ってから、作り笑いをしてパンパンになった頬がゆるんだ。
「人に会うって疲れる……でも久しぶりに、女の人と話したかも……やっぱり女の人が挑戦するって難しいことなんだ……」
ごったくさん親子には、私が移住した当時からお母さんのようにとてもお世話になってきた。農業をやめるかもしれないけど、でも今まで私が積み重ねてきたものが役に立つなら。
……女性農家がたくさんチャレンジできる地域を作りたい。そう言うごったくさん親子と一緒に、ちょっとだけ考えてみようかな……。


そうして、女性農業経営者の相互扶助コミュニティ「women farmers japan」を一緒に立ち上げた。心の中に、女性農家特有のそれぞれの形のしこりや痛みを抱えた、同じような女性農家のメンバーたちと交流していくことで、辛かった出来事が私だけのものではなくなっていった。

自分の夢を叶えながら、家族としあわせに生きたい。
みんなで、どうやって解決していくか、考えていくようになる。
冷たくて静かな冬の土の下で、少しずつ何かが動いていく予感がした。

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2020年春。
加工所失敗から2年が経った。

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やっぱり私は、農業を続けるかどうか、決めかねていた。
畑に行くたびに胸がざわざわする。軽トラのハンドルを握る手が震える。あんなに楽しかった農業が、辛い。
「でも……」今まで応援してくれた師匠や地域の方の顔が浮かび、はっきり決めることができないでいた。

そんな気持ちを引きずったまま、新しい生産者さんの所へ畝立てに行った。
昭広さんという、50代の兼業農家さんだ。

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加工所計画の時から気にかけてくださり「自分も作ってみたい」と声をかけてくださった。


嬉しかったけど、私は正直に今の気持ちを言わねばと思った。
でないと、また前みたいに、みんなは私に絶望する。

「あの……栽培してくださって、本当にすごく嬉しいんですが、実は、干し芋自体、私も農業自体辞めようか悩んでいるところで…。正直これからどうなるか、分かんないです」

あぁ、こんな私に、きっとまたガッカリするだろうな…私に近寄る人は、結局私を嫌いになって離れるんだ…。心臓がバクバク高鳴った。

「まぁ、そういう気持ちになるよね!」


昭広さんの言葉は明るく、サクッとしていた。

「うーん、分かりました!じゃあ、続けるかどうかは置いといて、まずはこの栽培シーズンが終わった年末とか、みんなで慰労会しましょう!生産者みんなで!

そこでさ!みんなに、夢を語ってくださいよ!大丈夫ですから!」

夢……。
こんな私に語れるのか?
分からん。でも、分かった、ひとまずそこまで走ってみよう。
春のはじまり、そこかしこから溢れ出る雪どけ水の鈴のような音が聞こえていた。

その頃から、風向きが変わってきた。


バイヤーからお声がかかり、干し芋に大手の販路がつき始めたり
干し芋のデザインがアジアのデザイン賞を取ってしまったり

women farmers japanのメンバーからもさつまいもの栽培がしたい、加工所で働きたいと声をかけていただいたり。

「事業を一緒にやろう。かなちゃんの味方だから」
そう何度もごったくさん親子に言葉をかけられ、少しずつ気持ちが前に向けるようになってきた。

私は立ち止まったままのに、風が、干し芋を続けなさいと言っている。
そう感じた。
それは「あなたは、もう少しここで生きてみなさい」というメッセージと同じだった。


みんな私に構わないでほしい、と思っていた。
仲間を持つことは怖い。
いつか裏切ってしまうかもしれないし、彼らは私に絶望するかもしれない。
でも……もう一度、頑張ってみたい。移住してからずっと、誰かのため、何かのために頑張り続けていたけど、初めて「自分のために」生きよう。

私は、自分の挑戦にケリをつけたい。

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そうして、年末がやってきた。

「初めて、生産者さんや関係者が、初めて全員集合して、慰労会をします」
一人一人に案内の電話をした。

そして、慰労会当日の朝。
今年のさつまいも栽培の報告と、昨年度の干し芋加工、販売の実績、そして今後について書かれたデータを印刷し始めた。

このフォーマット、見たことがある。
2年前、何度も説明するときに、使ってきたページだ。
辛かった日々を思い出した。

人を信じることに疲れ、誰かのため、地域のためにはもう頑張れない、頑張りたくないと絶望し、かと言って、生きること、死ぬことも、逃げることも苦しい。うつろな目をしていた自分から、ぽろぽろ流れていた、あの時の涙。

私はコピー機の前で、あの時とは違う涙が、止まらなかった。


向き合うことは、やっぱり怖い。私は弱い。
でも今は違う。
一歩踏み出すのだ。

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「今まで本当にありがとうございました。そして来年こそ、加工所、作ります。これからも皆さんの力を貸してください。いろんな意見や話を聞かせてください!お願いします…!」

そして再チャレンジが始まった。

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新会社にし、資金調達し、大量の書類をさばき、何度も数字と向き合いながら、改めて加工所建設の計画を作った。

その間に、師匠は高齢でさつまいも栽培を卒業した。「加工所、やるようだな」と電話をくれ、改めて家を訪問したとき「おらからの応援だ。事業の足しに」とお札の入った分厚い封筒を手渡してくれた。

「絶対形にします」と約束した。頭を下げた時、泥だらけの師匠の長靴が目に入った。私、走り抜くぞ。封筒をぎゅっと握った。


商品もリブランディングし、生産者さんたちともコミュニケーションをとった。みんなでより美味しい芋の研究をするようになった。

そうしながら、自分でも信じられないんだが、夏に第三子を出産した。

妊娠中も産後も鬼のように働きながら、家族も大事にできたのは、仲間がいたから。「安心して行っておいで!」……それは、3年前と大きく違うことだった。


そしてとうとう、去年の11月、加工所が完成した。

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スタッフが加工所に持ってきてくれたメリー
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私は夢を見ているのだろうか?


これは、夢なんじゃないか。


毎日ピカピカの加工所で、老若男女のスタッフたちが楽しそうに働いている声が聞こえてくる。師匠と作った10kgのさつまいもから始まった干し芋が、たくさんの人のところへ届いている。雪国の農家さんたちの冬の仕事となっている。規格外で畑に捨てられていたさつまいもが、商品に生まれ変わっている。

そして、みんなが夢を語っている……。

✳︎ ✳︎ ✳︎

「私は一度、加工所建設に失敗しました」
竣工した加工所の、見学会での挨拶。
ピカピカの加工所の前で、私は冒頭そう言葉にし、涙が止まらなかった。今も変わらずそばにいてくれた仲間、あの失敗があったから出会った仲間、取引先の方々、そして師匠の顔が、並んでいた。

みんな、やさしい目をしていた。

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私はここに立ち、気づいてしまった。
挑戦にケリをつけようと思ったのに、ここはスタート地点だったと。
私はやっと、スタート地点に立ったのだ。


怖い。


大切なものができすぎてしまった。
大切な人たち、大切な時間、大切な環境。

私は経営者に向いてないのだろう。
胆力もなかったし、人が怖いし、メンタルも弱い。
つまずいた時、いつも腕を引き上げてくれた師匠や、仲間たちがいたから、歩き続けられた。

私たちは、でもそうやって、腕を引き上げ合いながら、ときに待ったり、寄り添い肩を組みながら、大切なものを守るために痛みを希望に変え、挑戦し続けるのだ。それでいいのだ。
そして今度こそ、こどもたちには、ワクワクする今と未来を見せてあげたい。私はこの子たちの母親だ。


これからも、痛みを希望に変えてゆく。
最初から最後まで信じ続けてくれた師匠のように、痛みを経ながらホンモノになってゆく。この道を、歩き続ける。



いただいたサポートは、里山農業からの新しいチャレンジやワクワクするものづくりに投資して、言葉にしてnoteで届けてまいります!よろしくお願いします。