「複合汚染」有吉佐和子著

感想を書きたい本はいくらでもあるのだけれど、日々のこともあるのでぼちぼちやっていきます。

同じテーマを1話-10話みたいに更新していけるのが理想ですが、まだまだ日々のコマ切れ時間を使って文章を書いているし、暮らしの記録が目的で始めたので、リアルタイムに自分の周りで起こることから、過去の知識へ結びつけて記事にしていきたいと思います。そのうち、情報がたまってくると思います。

今回は書評というより、ある出来事からこの本のことを思い出したのでリンクしておきます。

有吉佐和子著「複合汚染」

子どもの食の安全や、農業に関して調べ始めた初期の頃に手に取った本です。

私が生まれる前の本です。なのに今なお、食や安全を語るならこの本を読むべき、というバイブルの一つになっている。

レイチェルカーソン著の「沈黙の春」なども、基本中の基本の手引書です。

この本も、時代が進むにつれ整合性がとれない箇所などは多少出てきたそうですが、それにしても35年も前の本だとは思えないくらい、今の社会に符号する点が多すぎる。環境問題というのは最先端の学問のようでいて、実はとても歩みの遅い分野だというのは、自分が暮らしの中で常々感じていることなのですが、すでに示唆されていた方向から全く変わっていない。

当時はさらに、この本の内容のようなことを生活の中で危惧していた人がどれほどいたでしょうか。

まだまだ高度経済成長の余韻が残り、バブルがはじける前の時代のことです。

私たちが30年後をいかに予見できるでしょうか。

農薬や除草剤、食品添加物が人体にどんな影響を与えるか、人間の寿命は短いとはいえ数十年あり、生活の中での人体実験とも言える、化学物質の浸透は眼に余るものがある…。

ただ、前職で最先端の農業に触れさせていただいていたので、現代の農薬は、もはや無害といってもいいくらいのレベルに安全になっているということは新たに言えます。

植物が自らを守るときに作る防衛物質の方が、人体に影響が多い場合もあるといわれるほど。

技術の進歩はめざましいのです。だから、一口に「農薬=危険」とは言わなくていい。それをもっとたくさんの人が知って、妥協できる部分、絶対に許してはいけない部分の見極めが必要になっていくと思います。

この本を思い出したある出来事とは。

私は染色もやるのですが、ワークショップで藍染めをするときは、インド藍での染め液を用意します。このときには、いくつかの薬剤を使用します。

そのうちの一つが最近、劇物指定となりました。

今後、その薬剤を購入するときは、希釈されたものを買うことになります。現在保管してある薬剤についても、希釈して、保管庫に入れておかなければなりません。

染色したのちに繊維に残るわけではなく、排水が環境を汚染するというわけではありませんが、保管するときの濃度によっては劇薬指定になるものはあります。

手作り石鹸を作るときに使う苛性ソーダもそうです。アルカリ反応が終わってしまえば無害ですが、購入するときは劇薬です。身分証明書と判子を持って行って薬局で買います。

劇薬というとびっくりすると思うけれど、しっかり用法を守って使用すれば問題ありません。使用する状態で強アルカリなので劇薬になっているだけです。毒と劇物は混同されやすい。私もちゃんとした違いはわかってませんが、わかりやすいサイトがあったので載せておきます。

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危険物取扱者を目指す方必見

毒も劇薬も致死量がありますが、劇物には刺激性の強いものも該当します。苛性ソーダは触れると手や目に強い刺激があるので、取扱には十分注意の必要な薬品です。

残留性があるかどうかでも違いますよね。

使うときに無害であればいいのか、少量でも触れ続ければ害が出るのか。

排水は汚染されてもいいのか、いくら海で薄まって無害に近くなるとはいえ、川の魚たちなどは高濃度の汚染にさらされるのか。

いずれ自然に還るのか、残り続けるのか。

いろんな問いがありますが、ルールが作られるときは杓子定規なので、そしてまたそうしかできないのも重々わかりながら、いろんなことを考えてしまいます。

染色だって手作り石鹸だって、もっと手軽にいろんな人が楽しめればいいのに、自分で手作りすることはできないと思い込まされて、みんな既製品を買っている。

確かに薬局に身分証を持っていって薬品を買うというのはかなりハードルの高い行為かもしれません。でも、料理の材料を買うのと同じことです。

いざ手作りをはじめると、道具さえあればとても簡単なものが多い。揃えるまではちょっと大変。これが昔だったら、家にあったもので全部できちゃったんだろうなと思います。

最近は、買った方が安いなんていう逆説が当たり前みたいですけど、その安さの対価は誰が払っているのか、ちょっと考えればすぐにわかることです。

中には「これはもう買うべき!作ってる人尊敬する!」なんていうものもあったりします。

私にとっては、それが食品でいえば豆腐。1丁100円とかで買えちゃうけど、あれは手作りしたら1000円くらい出したくなるほど手間がかかる。道具もいる。時間もかかる。

だから昔はお豆腐屋さんってのがいたんだなと、深く深く納得しました。

味噌や醤油のように一度仕込んでいつまでも食べられるものじゃないし、毎回手作りできるほど簡単じゃなかったからなんだと思います。大量に作って売る。

私たちの親世代が、買うことがステータスだったために「作る」ことを疎かにしたという一面が、今の時代に暗い影を落としている気がします。

私がそう勝手に判断したのではなく、お年寄りや、親世代からの話を聞くにつれ、何となくそう思い始めたのです。それは年配の農家さんなどと話をしたとき、そして最近は聞き書きをはじめて、ますます思うようになったことです。

私たちの祖父母世代と親世代の価値観に、底が見えない深い谷が横たわっているような気がします。

そして、疑問を持たずに親の価値観を受け継いできた私たちが、昔の世代との深い断絶に「なんか違うんじゃないか?」と思い始めたのが、現代なのではないかと思っています。なので私はお年寄りに聞き書きをしています。

「作る」を日常から手放せば、自分が使っているものが何でできているか、どうやって作られたかがわからなくなります。そこを人の手に委ねれば、作り手は効率化だけを求めるようになります。判断基準は見た目や味しかなくなるのだから、使う人の安全が二の次になるのは当然です。

すごく大切なんだけれども、日常レベルで手作りをしていくしか、今のところ私には解決法が見つからない。

こうやって少しでも伝えていくことかな。最初は手応えがなくても、種まきから。

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