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筋ジス患者である私が出生前診断について思うこと

結婚2年目の27歳。進行性の難病、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィー(以下、FSHD)による全身の筋力低下により、20歳より電動車椅子ユーザー。2020年秋、初の妊娠が分かり、5月に出産予定。
妊娠・出産・子育てについては、病気の進行や子どもへの遺伝など、覚悟が必要なことがいくつかありましたが、長い間悩んで決めました。その過程についてご紹介します。

出生前診断について私が調べたこと

私は病気が遺伝してもしていなくても「産む」という気持ちでいた。しかし、お腹の子が産まれた後のために、遺伝しているかどうかを事前に調べたいとも思った。

そのために出生前診断の情報について、集めたので紹介する。念のため、2020年秋の情報である。

現在、私の病気である、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィー(以下、FSHDと略す)は出生前診断の対象ではない。技術的には可能だが、日本産科婦人科学会では認められていない。

出生前診断の対象となる病気は、重篤と考えられる病気に限定されており、FSHDは筋ジストロフィーの中でも比較的症状が軽度で、平均寿命も病気のない人と変わらないからである。

重篤な疾患に限定されているのは様々な倫理的背景があるが、どんな病気でも出生前診断ができるようになると、リスクの排除に際限がなくなるからという理由がある。

ただ認可外の施設や、海外で診断を受けることはできる。

少し本題から逸れるが、近年、新型出生前診断(以下、NIPT)という検査方法が登場し、妊娠10週という早い時期から、ダウン症や13トリソミーなどの疾患の有無が高い確率でわかる。検査方法は血液検査のみで、母体と胎児のリスクもほぼない。ただ確定診断ではなく、NIPTの陽性的中率は90%前後であると言われている。

NIPTについても、日本産科婦人科学会は、対象に制限を設けている。兄弟に染色体異常の子どもがいる、高年齢出産、など。しかし、認可外施設では対象外の妊婦に対しても多く検査が行われている。

認可外施設での検査については、どんな人でも胎児の情報にアクセスできる一方で、結果が陽性であった場合のカウンセリングなどの対応が整わないまま、検査を実施しているという問題点も指摘されている。
http://www.jsog.or.jp/news/pdf/NIPT_kaiteishishin.pdf


私の病気に話を戻すが、FSHDはNIPTでは分からないそうだ。ダウン症や13トリソミーなどの疾患と異なり、FSHDは遺伝子のかなり細かい部分の遺伝子異常であるため、技術的に診断できないらしい。

羊水検査なら、FSHDの有無を調べられるとのこと。

もちろん、FSHDを調べる羊水検査も、日本産科婦人科学会は認めていない。ネット上にも羊水検査を行う認可外施設の情報は「全く」といっていいほどなかった。ただ、NIPTを行う認可外施設の話によると、羊水検査を認可外で行ってくれる施設を紹介してくれるとの話だった。

私はここまで調べて、羊水検査を受けるのはやめることにした。
羊水検査は子宮に針を刺して羊水を摘出する検査なので、稀ではあるが胎児に影響がある。また、私たちに「遺伝していたから中絶する」という選択はなく、費用も30万~40万円かかるため、それなら出産後の子どものために使いたいと思ったからである。

認可外施設での羊水検査がどんなものなのか、費用やリスクは認可施設と変わらないのか、それは近場で検査できるのか、などは今思うと気になるところだ。また機会があったら調べよう&誰か知ってる人教えてください。

ちなみに、これは「病気のない子のみ出産したい」という方の選択肢であるが、「着床前診断」というのもある。体外で受精させ、その遺伝子を検査し、病気がある受精卵は移植しないことで、病気のある胎児の妊娠自体を避ける方法。中絶の負担がないというのが「出生前診断」との大きな違いである。

FSHDの場合、国内で受けるのは難しく、個人が海外でこっそりやっている例があるかもしれない、という話を聞いた程度。それも費用は数百万円にのぼるので、なかなか容易に選択できる方法ではないだろう。


なぜお腹の子の病気の有無を知りたかったか?

「オランダへようこそ」という詩をご存知だろうか。
アメリカの作家・社会活動家のエミリー・パール・キングスレイによって1987年に書かれた、「障がいのある子を育てる」ということについての著名な詩である。

すぐに読めるのでぜひ一読してほしい。

https://www.jdss.or.jp/tane2017/JDS2019-tane_page28_29_protected.pdf

この詩を知ったとき、障害の有無を国の違いで例えることに、とてもしっくりきた。
私は「障害がある状態は、ない状態よりも劣っている」とか、「障害はないに越したことはない」という価値観にずっと違和感を持っていた。

しかし一方で、障害があるのとないのとでは、明らかな違いがあり、障害があった場合の生き方を攻略した方が生きやすいと、常々思っていた。

そう、それは、海外で暮らすために現地の言葉を覚えるのと同じように。

この詩から「オランダ=障害がある状態」と「イタリア=障害がない状態」という暗喩を借りて、私の障害観と、子どもの障害に対する思いを説明してみたい。

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10歳で病気が分かった私。イタリアで生まれ今後もイタリアで生きていくだろうと思っていたところに、「将来あなたはオランダで住むのよ」と告げられる。

私はオランダで快適に暮らすための準備に、10代の一部を費やす。
10歳なら、まだイタリアに腰を据えてもいないし、オランダ語という新しい言語を習得する柔軟性もある。

「将来、オランダに行くなんて可哀想ね。」という周りに、両親は「可哀想なんてことはない。オランダでの生活もきっと楽しい。」と言い続け、私がオランダで楽しく生きていくために様々な"機会"を与えてくれた。

オランダ語を覚え、オランダ人と仲良くなり、オランダ生活のイメージを膨らませていく。たまに、このままイタリアで生きていく友達が気楽に見えて、羨ましいと思うときもあったが、オランダ生活も悪くないだろうなと思いながら成長していった。

17歳、私はオランダに渡航した(≒障害者手帳を取った)。オランダで生きていく術を身につけた私は、イタリアで生きる友達に劣等感を持つこともなく、オランダならではの楽しみや豊かさを感じながら生きることができている。

もしかすると、オランダ行きを知るのが20歳だったら、違う気持ちになっていたのかもしれない。これから広がるイタリアでの生活に夢見ていた矢先に、いきなりオランダ行きのチケットを渡されたら、戸惑うことだろう。慣れないオランダ生活にノイローゼになるかもしれない。

イタリアで家庭を持ち、仕事も軌道に乗り始める30代なら、もっとイタリア生活を失う喪失感は大きいかもしれない。

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私の体験として、10代のまだ人生設計をしていない時期に病気が分かるのと、青年期以降に分かるのとでは、病気に対する受け止め方が違うように思う。

「病気がない人生と今の人生、選べるとしたらどっちが良かったか」と聞かれて困ることがある。

「今の人生がいい」と思うが、それはしばしば「強がり」や「美談」に受け取られてしまうからだ。それが気持ち悪くて答えたくない。(こういう「たられば」の話はナンセンスだと思うのもあるが。)

私にとって病気があることは「当たり前」なので、病気がない人生が自分の人生だと思えない。

この感覚は早いうちに病気があることを知り、病気があることを前提とした生き方を築いてきたからではないかと思う。

こういうことを考えていると、お腹の子の病気の有無は早く知りたくなってしまう。

この子が将来イタリアで暮らすのか、オランダで暮らすのか、早いうちに分かっていた方が、準備を整えてあげられるのではないかという気持ちがある。

生まれてすぐ遺伝子検査をすれば良いのでは、と思うが、これがそう簡単には行かないらしい。生まれると、自分の遺伝子について知る権利は子ども自身にあり、検査は子どもが10代後半になり自身で希望した場合にしか受けられない。

私が当初、お腹に子どもがいるうちに出生前診断をしたいと思ったのはこういった背景がある。

ただ、これも夫と相談して考えていくうちに、本当にそれが正しい選択なのか分からなくなった。

遺伝しておらず、イタリアで暮らすと想定していても、違う理由でオランダに住むかもしれない。

遺伝していて、オランダで暮らすと想定していても、発症が軽微でイタリアに住むかもしれない。

想定しうる様々なパターンの多さと、その責任に溺れそうになるが、出生前診断をしてその子が生まれる前に「すべて分かってしまう」ことで逆に可能性を狭めることにならないだろうか。

ただ我々が楽になりたいだけではないだろうか。

イタリアで暮らす夫の姿も、オランダで暮らす私の姿も、両方が楽しく子どもの目に映っていれば、その子はどちらでも楽しく生きていけると思うのではないか。

親としていろいろ事前準備はしたくなるが、そのときに目の前で生きる子どもを中心として、一緒に考え、与えられる機会や環境を、私と夫は全力で考えていった方が良いのではないか。

迷いに迷い、何日も話し合った結果、胎児にリスクのある羊水検査は控えて、遺伝があってもなくても私たちが万全に赤ちゃんを迎えられるように準備していこうという決断に至った。


答えのない選択

出生前診断に関する議論は今後、技術の発展とともにますます加速するだろう。

病気の大変さを分かっているからこそ、病気のない子どもを授かりたいという気持ちは分かる。遺伝性疾患を持つ患者にとって、出生前診断は選択肢の一つとして希望のあるものだろう。

ただ、検査して病気があれば産まないことが「当たり前」になれば、病気が「自己責任」とされてしまう怖さもある。

病気の有無を選べるということは、「病気のある子を自らの責任で選んで産んだ」とみなされかねない。生きづらさを吐露したときに「病気があるって分かって産んだんでしょ」と言われるのを恐れて、当事者にただただ我慢を強いるような状況は避けたい。障害を「自己責任」とする社会に進化は見られなくなるだろうと危惧する。

また、出生前診断を経て中絶を選択することは、当事者にとって、身体的にも精神的にも経済的にも負担が大きいことを忘れてはならない。

「中絶」と一言で言ってしまえば簡単だが、羊水検査ができるのは妊娠15~18週。結果が分かるのはその1~2週間後。
https://www.genetech.co.jp/column/805/

その時期に子どもをお腹に宿す母親自身が何を感じているのか、今なら分かる。毎月エコーで見る胎児の姿は、もう人間そのもので「可愛い」と心から思った。元気に動いており、赤ちゃんがお腹の中で動く「胎動」を感じはじめる人もいる時期だ。

そのような時期に「病気が分かったから諦める」という決断をすることは、並大抵の気持ちでできることではない。その時期の中絶手術は、陣痛を起こし下から産むという、まさに出産に近い形になる。身体だけではなく、精神に与える影響も大きい。

着床前診断の場合にも、「中絶」はないが、体外受精を行うための採卵には痛みも伴う。

そのようなことを自分の意志ではなく、「病気のある子どもを産んではならない」という圧力のもとに行わなければならない社会を、私は心底恐ろしいと思う。

出生前診断は、当事者にとっての「希望」であるべきで、一部の人の妊娠出産に対して課される「条件」にはなってほしくない。

筋ジス患者の妊娠出産あれこれ

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