学校から逃げた私の話

学校行って死ぬくらいなら逃げろ、ということで逃げた私の26年間です。
今もうつ病、その他諸々で病院に通ってる無職だけど、こんなんでも生きてて楽しいことあるよ、という景気付けに、自己紹介がてら書いてみました。(今更)

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小学四年生の夏から不登校になった。
理由は色々とあるが、決定打になったのは担任の先生。
私は字を綺麗に書くことが苦手です。とにかくものすごく汚い字を書く。どれくらい字が汚いかというと、小四の夏、担任によって、『〇〇(私)さんの字を綺麗にするにはどうしたらいいか』という学級会を開かれたくらい。
とても恥ずかしくて屈辱的だったのを、今でもよく覚えている。
まずはじめに指摘されたのは数字の8だ。書きはじめる位置が右上ではなく左上だった。担任はそれをクイズのようにして黒板に書いて行った。
他にもまあ、勉強についていくことができなかったことも重なって、自尊心は底まで落ちた。そして学校に行かなくなった。
どうやらこのあたりが原因でうつ病を発症していた模様。

この後のことは思い出すだけでもつらくて死にそうになるので、ここから十二年時を進めます!
(一応、中学に数日通ったり、ちゃっかり修学旅行に行ったりはした。あと高校も定時に数ヶ月だけ通った。どっちでも同級生からイジメにあって不登校になった)

さて、私はあれ以来、家から年に数回出るかの引きこもりになった。お風呂も一週間入らなくても全然平気だった。
とはいえ、成人もとうにすぎ、さすがに焦りも生まれてきます。そこで思い立ったのが、高認を取って通信制大学に行こう、というもの。
学歴コンプレックスが酷かったので、どうにかして高校中退を大学中退(学費が高額過ぎるため卒業するつもりはなかった)に格上げしようという作戦。
そのために約半年ほど、小四以来の勉強をしました。
と言っても一日二時間程度。完全独学だったのもあって、集中力が持たなかった。
勉強をしているときは気持ちが楽でした。だって引きこもってはいるけれど、目的を持って何かをしている実感があるから。
社会から責められている感覚が薄まり、とても穏やかだった記憶があります。
高認は単位が取れている教科は免除される仕組み(だったはず)ですが、私はなんの単位も取っていないためにフル教科。二日間の試験を、プチ旅行気分で会場まで家族の車に揺られて5時間。
結果は二教科だけ落ちた! ので、最終的に高認を取るのにまる一年かけました。試験は半年に一度あるよ!(今はわからない)
とはいえ小四リタイアでも一年適当に勉強すれば取れることもある資格なので、高校卒業できなかった人はおすすめです。資格がというよりは、勉強してると社会参加しなきゃという焦りから逃げられるので、ひとつの時間稼ぎとしておすすめ。

そして資格を取った私は、次にもう一つ資格を取ることにしたのです。
そうです、資格のための勉強で、無職引きこもりという状況を少しでも正当化できてしまうことに味を占めたのです。
取ったのは秘書検定。たしか2級……たぶん……。これは一ヶ月くらいで取れたので、時間稼ぎにもならなかった思い出。でも会場に行ったり、係の人と話したりで社会経験にはなった!

このあたりで、初めてメンタルクリニックを受診します。23歳くらい。

さらに逃避は続きます。
が、23も過ぎると周りからの風当たりも強くなってくる。ここはちょっと実用的な資格を取って、社会に出る気はある! という意志(そんなものはない)を見せなければいけないということで、超使えるマスト資格、自動車運転免許を取りに行くことに。
しかし無職の引きこもり、大事なものがありません。お金です。自動車免許を取るのには、うちの地域では二十五万円ほどかかってしまう。
当然、親に出してもらいます。しかしそれが私の焦燥感に火をつけた。
(ちなみに、お金を出してもらった罪悪感に耐えられず、数年後に全額返金した)
こんなに大金を出してもらったのだから、頑張って免許を取らなければいけない……という焦りによって、通学をめちゃくちゃ頑張ります。毎日4コマとか取ってた。
そして、のんびりやって二ヶ月くらい稼げるかなと思っていた教習所を、あろうことか一ヶ月足らずで卒業します。
これは私が優秀なのではなく、教習所では免許を取らせるための試験しか行われていないからです。
縦列駐車の試験は、わざとらしく置いてある小石を目印にハンドルを切れば一発合格。卒業試験のルートも三パターンあるうちどれが当たるか、「多分」という形で事前に知らされる。
そりゃ卒業できちゃうよ。
で、めでたく超短期間で免許を手にしてしまった私。どうする……と次の逃げ道を探したところ、見つけたのがサポステ。若者サポートステーション。ちなみに今の年齢だと若者から外れる(はず)なので、対応してもらえません。これは地域によると思います。
このころはサポステ黎明期で、こんな田舎の地元にも一ヶ所、それを見つけることができました。
が、アポを入れるには電話をかける必要がある。まずそこで半年悩んだ。で、あわわわわってしながら(私は吃音がある)どうにかかけたところ、予約待ち二週間です、と言われてしまう。
もうねそんなに私みたいな若者いるか! と驚きましたね。心強かったですよ。
で、いざカウンセラー的な人と面会。三分で終了!
言われたのは、「君はここじゃなくてハローワークだね」でした。
外に一人で出かけるのも満足にできないのに!? と思いながらもそのままわかりましたと建物を出る素直な私。
下手に資格を持ってたため、そういう形で社会参加できてるんやねみたいに取られたっぽい。あと当時は役者志望だったので、まともな人の演技が上手かった可能性もある。

リタイアではなく、初めからというタイプの人ばかりをメインにサポートしてた時代の話です。今はそんなことなさそうだけどどうなんだろ。謎。もうあれきり支援関係に助けを求めるのはやめたのでわからない。

しかし素直な私はとことん素直なので、次にハローワークに行きます。えらい。
でも働くのは怖いです。同じ場所で同じメンツと長い期間、というのが駄目です。学校生活を全て失敗したからです。またいじめられるに決まっているという確信にも似た先入観です。(実際この数年後に職場でもいじめられた)
で、新たな抜け道『職業訓練』。三ヶ月学校行ってお金もらって(私は規定に引っかかって一円ももらえなかった)資格を取ろうねというやつ。
これの、介護コースに飛び込みで応募。親にも言ってなかったからめちゃくちゃ驚かれた。私のほうがびっくりだわ。
介護コースは卒業すると、今は廃止されたヘルパー2級と、細々した資格が二つほど取れます。当時はヘルパーこれから来るで、っていう時代だったため、そこそこの倍率。三十人の枠に六十とか七十とかきてたんじゃないかな。大きな会場で試験と面接が。
会場でビビらなかったのは、秘書検定や通信制大学の試験で場の経験があったからかもしれない。人生何が役立つかわかりませんね。
試験は中学程度の国語と数学。漢字の読み書きと意味、二次方程式に因数分解あたりがわかれば大丈夫でした。私はわからなかったので数学白紙で出しましたが、なぜか受かりました。

職業訓練は楽しかったです。三ヶ月で体重が十五キロ減りました。過労で倒れて飛び込みで行った病院の先生に泣くまで怒られました。
卒業後はとにかくどこかに勤めて学校に連絡という話だったので、親のコネでスーパーの短時間パートを始めます。介護は私には向いてませんでした。症状の重い利用者さんを見ていると、とにかく悲しくなって泣いてしまった。

その後パートは三年ほどで辞めます。なぜか責任のある仕事ばかりを押しつけられるようになったので、もう駄目だと心が折れました。他のパートさんと同じ仕事内容のままだったら、たぶん今でも続けてた。
その後三年ほど無職引きこもり。

そしてある日、ライブに行きたいと思い立ち、無職の自分が推しに会うなんてそんなの駄目に決まってるだろ、と短期バイトで二ヶ月工場。
そこで靴を隠されます。ほかにも陰湿な嫌がらせのオンパレードでした。短期バイトは長期バイトからいびられるのが不文律の工場でした。
もうこれは駄目だな、どこでも私は同じなんだな、と諦め、二ヶ月完遂したのちライブに行って、そのまま無職で四年。
その間ライブ七回、一人で遠征三回、そして今に至ります! 意外と充実!

パート時代の蓄えが多少残っているので、携帯代や毎月の生活費を家に入れるくらいのことはできているのが唯一の心の救い。
これがなくなったらどうなるのかなーと、他人事のように思っています。病院では、なくなったら働くんじゃないの〜? とは言われてます。どうだろうね。

そんな感じで、学校から逃げて、なんの対策もせずにダラダラ暮らして今に至る私の今日までがこれです。
改めて振り返れば、恵まれた環境だったのがわかります。
楽しいこともたくさんあったし、つらいこともその何倍もありました。でも逃げてよかったなあとは思います。
ここからどうしたらいいんだという不安は尽きませんが、とりあえずそんな感じで、私は今日も社会と人に怯えながら生き延びています。

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