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節哀順変

母親がわりのおばとの話。私と実母の関係はどうにもこうにもチグハグというか、歪であることはいくつかのNote記事で触れているけれど、その代わりに本当の母親、というか、「私が望む母親」のイメージからくる優しさや厳しさをくれた人たちが3人いる。私はそのことをとてもラッキーだと思う。その1人が、父の姉である叔母だった。

先ほど、命日に間に合うようにその叔母の3回忌に送る手紙を綴ったばかりでセンチメンタルな気持ちなのでそのことを書きたい。この年になると、大事な人を亡くすということがままあるわけであるが、おばの死は私にとって大きなダメージであり、埋められない喪失でもある。

高校の頃、いじめられ、そして問題を起こし(無断外出など)寮を追い出された時。もういいよ、あんなクソみたいな学校とひねくれていた私を、うちから通えばいいわよと言って引き取ってくれたのがおばである。

通っていた学校は市の真ん中に位置していたが、おばの家はそこから電車にのり30分、駅から自転車で15分ほどのところ。田舎の中の田舎であった。

進学校にいて、勉強、勉強ばかりだった私に「こんなこと言ったら、あんたの父ちゃん、母ちゃんに怒られるかもしれないけど、あんまり頑張りすぎなくていいのよ」「勉強なんて二の次よ。人は寝て、食べて、沢山笑って生きることが大事」なんて笑って教えてくれたのが彼女で、私の知らない若い頃の父の姿や、おば自身の子供の頃の話(じぃちゃんは40になる前に亡くなっており、父、おば、そしてもう一人の父の姉であるおばが3人で家を支えたらしい)をしてくれた。私は自分の知らない父の話を聞くのが大好きだった。

おばと暮らしていた2年。居候の身である私に毎日、お弁当を作り、毎日、駅まで送り迎えしてくれた。その頃、おばは60代。自分の子育ても終わり、のんびり隠居生活だったのに、クソガキだった私の面倒をせっせと見てくれた。16歳から18歳。たったの2年だったが、それくらいの年というのは、人生においての『閾値』というか、例えば、人生観だとか、そういったものが育つ重要な時期であると私は考えているので、私の人生においてその2年は大きなターニングポイントでもある。

私はおばに好きな男の子の話だとか、好きなバンドや漫画だとかドラマの話なんかをした。自分の親には絶対にできない、許されない話。ビジュアル系バンドをテレビにかじりついて観る私に「まぁまぁまぁ、この人らは男なの?まぁまぁ」なんて目を丸くして「おかしな人を好きになるものねぇ」なんて笑って言っていた。手伝いをしようと台所に立てば「おばさんがやるから!あんた、学校で忙しかったんだから炬燵に入って、お茶でものんどき!」そんなことを言う人だった。

もしかしたらこんなやり取りはよそのおうちでは当たり前のことなのかもしれないが、私は実母とこんなやり取りをしたことがなかったし、することをを許されなかった。「馬鹿バカしい、そんなもの見てないでさっさと勉強しなさいよ」「好きな人?あんた、自分の事、何歳だと思ってるの?親に養ってもらってるくせに色恋とか何様?」そんな風なことを言うのが実母だ。ちなみに炬燵も姿勢が悪くなる、家のインテリアにそぐわないという理由で存在しなかった。

おばは早くに亡くなったおじを心から愛していた。そしてそれをいつも口にしていた。好きな人、大事な人のことを恥ずかしがらずに口にするべき、そんなことを私はおばから学んだ。「お見合いだったていうのに、おばさんはおじさんのことが大好きだったのよね。あの人、戦中から戦後ちょっとの間まで大陸にいたせいかしらね、おおらかで優しい人でね。あの人といることで、人にやさしくするってことを私は知ったのよ」とチビだった私を溺愛した亡きおじの話をよくした。

亡くなったおじは、厳しく躾けられるチビだった私を見ては「けなげなあの子が不憫だ」と言っては私を大層、かわいがってくれた。父の妹であるおばの子供は、同じ年で、心臓に病気があったため常に大事にされていた。長男の初めての子であった私だったが、父の姉たちを除いた父方の親戚に可愛がられたことはなかった。父の母(祖母)そして妹たちと弟は、嫁であった私の母親を忌み嫌っていたので若かった母はいびられ、いじめられた。その余波で私もいびられた。少しでもいい嫁、良い母親であることを彼らに印象付けたかった母親は、「いい孫」を作り上げるために厳しく育てた。まぁそれで私は歪み、母もまた歪んでしまったのだけど、それはまた別のお話。

「うちはほら、ばぁちゃん(おば母)が厳しいし、あんな人でしょ。だから私も昔はガチガチのお嬢様!って感じで育てられたけど。じぃちゃん(おば父)が亡くなってからは貧乏だし、嫁いだ先も田舎の農家でしょ。だから恰好つけて生きるとか、なんかそんなのは二の次になっちゃたのよね。今じゃほれ、田舎のおばさんよ。家名とか、お金とか、まぁあればいいけどね。でも大事なのは幸せに、元気にいきてることよ」と言い、あははと朗らかに笑う人だった。

私が母親から絶縁され、入籍した後、初めて夫アルゴ連れで帰国をした時。80歳近くになっていたおばは、いとこ2人とその家族を家に呼んで盛大な「お帰り、おめでとうパーティ」をしてくれた。久しぶりに会ったおばはずいぶんと小さくなっていた。そのことが切なかった。

かつて住んでいた古く、大きな家の仏間。大きな白黒の故人の写真がばばんと飾られた部屋。アルゴは、そのThe 日本家屋!といった風情に驚き、感動していた。3つのテーブルを並べて、壁には「アルゴさん、りんごちゃん、お帰りなさい。ご結婚、おめでとうございます」と書いた紙に折り紙の花が沢山つけられていた。

お帰り、やっと会えたと私の手を握り締め、泣き。「アルゴさん、りんごをどうぞよろしくお願いします」と泣きながら、額を畳にこすりつけて何度も、何度も言ってくれた。

ものすごく田舎に住むお年寄りの彼女。黒人男性なんて会ったこともなかったというのに「おばさんは英語ができんから。あんたほれ、通訳して」と言い、どれほどアルゴに会いたかったか、私を遠い外国で守ってくれたアルゴとその家族に感謝している、何よりも私が自然に笑って幸せそうなのはあなたのおかげだ、おばは泣きながらそんなことを言い、通訳しながら私も泣き、それを聞いたアルゴも泣いた。泣いて、泣いて泣いた後、アルゴは「リンゴさんを大事にします、幸せにしマス。ずっと守りマス」と日本語で答えたため、私たちは更に泣いた。握り締めた叔母の手はごつごつした働き者の手だったけれど、とても温かかった。

「黒人で年下だから?そんな理由で会いたくないだなんて、あんたの母ちゃんはほんっとに意地っ張りなんだから。あんたに会いたいに決まってるでしょう。おばさんですらこんなにうれしいのに。アルゴさんはこんなにいい人なのに」と、叔母は言った。

そろっての初めて帰郷。絶縁解除だったはずだが、母は私たちが実家で過ごすこと、アルゴが実家の敷居をまたぐことすら許さなかった。最初の帰郷で、アルゴは母に会ってもらえなかったのである。ひどい話だ。おばと交わした会話、おばが私たちにしてくれたことというのは、本来なら実母と繰り広げられるべき光景なのだが、そんなことは一切なかった。

だからこそ、おばのしてくれたパーティ、いとことその家族みんがお帰り、おめでとうと言ってくれたこと、手作りのおうちでのパーティが、私にとっても、アルゴにとってもとても感動的で、一生、忘れることのできない瞬間なのである。

叔母は2年前。クリスマスが近い頃に亡くなった。風邪をひいたと寝付いていたが、ほぼ回復していた。その日の午後に息子であるいとこが訪ねた時も普通に話していた。その数時間後、電話をしても出ないことを心配した娘(従妹)が家に行ってみたらもう息をしていなかったのだという。おばは布団から少し出た感じで亡くなっていて、そのすぐ横に飼っていた猫が座って、にゃぁにゃぁとずっと鳴いていたのだという。死因は大動脈解離。突然死。

叔母の死の発見から1時間後。従兄の娘さんが私に電話をくれた。私はオフィスにいて、なんてことのない冬の一日、いつもの毎日が始まるそんな時間だった。おばの訃報に私は激しく取り乱した。外国で暮らす、と決めた時から、誰かの、大事な人の死に、最後のお別れに会えないということはわかりきっていたし、覚悟も持っていたつもりだった。だが、おばの訃報は、私を打ちのめした。あまりの取り乱しぶりに喘息の発作が起き、頭がくらくらして、運転すらできそうになかったので、アルゴが仕事場まで迎えに来てくれた。

渡米する前。4年間を東京で過ごしたが、毎月、決まった日に電話をくれたのは、このおばと、母方の祖母の2人だけだった。渡米した後、定期的に電話や手紙をくれたのもこの2人だけだった。そしてその2人はもうこの世にはいない。

従妹は「最後に話したのが息子で良かったし、お医者さんがいうには、痛みも苦しみもなかったらしいから」とだけ言うと言葉に詰まった。おじが亡くなった時、苦しんで、苦しんで、その痛みが激しすぎ、痛みで朦朧とした意識で激しく暴れたのだという。まだ10代後半だった息子であるいとこが馬乗りになって、抱きしめて、泣きながら「父ちゃん、すまん。父ちゃん、がんばれ」と闘病するおじを抑えたことがあったのだという。

「そんなことがあったから、おばさんは死ぬ時、こう炬燵の中でテレビでも見て、そのうち死んでた、とかさ。寝ていて起きてこなくておかしいなって思ったら死んでた、とかそんなぽっくり具合がいいわね」などとおばはよく言っていた。そしてその通りに彼女は逝ってしまった。

おばは得度しており(僧侶の資格がある)話すたびに、「もうばぁちゃんだしね、好きなことはいっぱいしたし、あっちでおじさんに会えるから。死ぬのは怖くないわ。でもりんごちゃんたちにはもっと会いたいから元気でいなきゃね」なんて笑っていた。

あの日、あの時。もう2年が過ぎるというのに、私はいまだに叔母の死を信じられないでいる。お葬式にも出れなかったし、お墓参りにも行けていないというのも理由の一つだと思うが、私の中で、おばの死をまだ受け入れられていないのだと思う。冒頭に手紙を書いたと記したが、「故人」とか「在りし日の」といったフレーズさえ使う気になれないでいる。

この時期はいつだっておばに送るクリスマスカードを書き、同封する写真をプリントアウトしていた。けれど、今、そのカードは、Sympathy。お葬式などの時に使うカード。同封する写真もなく、書いた手紙を彼女が読むこともない。それがとても悲しい。

あの田舎町にある古く、大きな家にいけばそこにはまだ叔母がいて、「おかえり、りんごちゃん、アルゴさん」と迎えてくれそうな気がする。

タイトルの節哀順変というのは、悲しみが度を過ぎないように抑えて、時間の経過によって少しずつ和らげていくのがよいということ。おばの死を聞いて、私は文字通り、1週間、泣き暮らした。泣いて、泣いて、泣いた。自分の母親が死ぬ時もこんな風に泣けるのだろうか、と頭の片隅で思いながら私は泣き続けた。あれから2年が経つけれど、彼女の喪失はいまだに私の中で度を過ぎすぎていて、和らぐどころか、深みを増しているような気がする。

彼女は田舎に住む、どこにでもいるおばさんだった。けれど、私にとって何よりも大切なこと。例えば、がんばりすぎないこと、素直な気持ちはきちんと口にすること、幸せに楽しく暮らすこと、疲れている時は休むこと、人を愛すること、そんな生き方を教えてくれた存在である。

私がおばの不在を受け入れるまでにどれほど時間がかかるのかはわからない。でも節哀順変、この言葉が表す通り、少しづつ、緩やかに、この悲しみが癒えていけばいいな、とそんなことを思う。


せつあい‐じゅんぺん【節哀順変】
悲しみが度を過ぎないように抑えて、時間の経過によって少しずつ和らげていくのがよいということ。お悔やみの言葉として、中国でよく使われる言葉。「哀を節するは順いて変ず」とも読む。

(終)

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